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胸躍るままにブルースを_11

七 天国の扉を叩け _01

 あまりに賑やかで輝かしい十二月のワンダーランドから逃げ出す様に、僕は左後部座席のドアが開かない軽自動車に乗り込みキーを回した。

ヒーターの効きが弱いので、予め首に巻いておいたマフラーに気をつけて口に咥えた煙草に火を点けた。三年以上止めていた煙草に少しの緊張を持っていたが、案外何事もなく、片方の手でハンドルを回しながら慣れた手つきで煙を吹かした。

忘年会と称し、就職とともに沖縄へ行ってしまった友達が地元へ帰ってくるというので、一ヶ月前、川を暢気に眺める為に走った時と同じ道を、その時と全く違う風景を見ているような感覚で飛ばしていた。現に、あの時ちらほら見られた黄色やちょっとの紅色は一つもなく、悪天という訳でもないのに何処かグレーがかったような冷たい空気が静かで、哀しくて、美しかった。

 地元の小さな居酒屋で竹馬の友とも言える連中と昔話に華を咲かせては飲んだくれ久々に大笑いした後、僕は沖縄の友の実家へお邪魔し、二人だけで飲み直した。彼は冷蔵庫から銀色の缶ビールを2本持ってきて一本を僕の前に置いた。炬燵で冷えた足を暖めながら僕らは乾杯し直した。

 「仁、最近音楽はどうなのさ?相変わらずストイックにやり続けてくれているのかい?」

 彼は真っ赤な顔をしているがテンションは至って冷静で、前の酒場でのハイテンションな振る舞いからの落差を考えると、相変わらずの酒豪っぷりに感服した。

 「うーん、正直に言うとドン詰まり、音楽でプロになるなんて夢も諦めかけているところだよ。」

 僕は繕う気など一切なく、現状の心の裡を素直に答えた。その直後に少々気まずくなり、僕は話題を変えようと躓くように喋った。

 「そっちこそ、最近何でもトライアスロンを始めたとか? お前のパワーは本当に変わらないね、どこからその体力が湧き出ているのか、羨ましいよ。仕事は順調かい?」

 彼は沖縄の空港で有名な航空会社の整備士を務めている。航空整備士について、職務期間中ずっと勉強が必要でとても厳しい職業だと空港職員の両親から聞いていた僕は、彼の勤勉なところ、それでいて陽気で酒飲みで、スポーツマンであるところ、酒飲みという事以外全て僕の真逆である彼を友として尊敬し、少々羨望していた。

 「今度、特別な技術を取得しにしばらくドイツに行くことが決まった。このチャンスを絶対ものにしなければと辛い勉強の日々だが、トライアスロンはそれのいい気晴らしさ。あのレースを完走すると、世の中の大抵の事は乗り越えられる気がしてくるんだ。」

 こういった話をたまに会う友人から聞くと、一緒に走っていた筈のレースから自分だけがコースアウトし、どんなに手を尽くしても一生追いつくことが出来ない敗北感を痛感する。

 自分で選んだ音楽の道は、初めは僕だけが特別な世界にいるような独走感を味わわせてくれた。それはスタジオに行き、ライブをしている時も胸の裡で際立ち、社会的にはとても立派ではない現実など容易く圧倒する“無敵感”がどんな時でも、どんな場面でも僕を支えてくれていた。そうして益々音楽を愛していった筈なのに、時間は残酷で、味わった独走感も無敵感もただの敗北感に変えてしまった。

三十代を迎えようとする友は皆、社会では重要なポジションを担うようになり、僕が出すのに躊躇するお金を平気で払えるようになり、そして、愛する人と理想の幸せを描く準備に取りかかっていた。

 僕が音楽に捧げた愛は、今の僕に何を与えてくれたのだろう。

 「なぁ仁、夢は捨てたなんて言わないでくれよ。他に宛なき俺達だってのに!」

 彼は片手にスルメを持って顔を更に赤くして笑った。僕は「夢ぇ?」と釣られて笑った。

 「高校卒業間際の冬にさ、家から缶チューハイ持ち出してそこの公園でお互いの夢を叫んだじゃねぇか?」

 「懐かしいこと言ってくれるなぁ、あん頃はなんでも何とかなる気がしていたなぁ。」

 僕はまた陽気になっていた。その後もそんな風にたまに糞真面目な話をしては、過去の自分たちと今の自分達を比べて、幼く恥を知らなかった過去の僕らの悪行に笑い、柵が増え、矛盾や妥協に翻弄される今の僕らの滑稽さに大笑いした。そして炬燵に温められていたせいか二人ともあっという間にべろんべろんになり、どちらが先かは一切覚えていないが、そのまま深い眠りに落ちた。

 翌朝僕は先に目を覚まし、まだ眠る友に別れを告げて車にキーを入れた。

 陽が昇りきる前の十二月の早朝は全てが美しく、寒く長い夜を待ち続けた草木が、今か今かと心を躍らせているのが鮮明で、車を停めていた公園の遊具でさえも、表面を覆った雫を振り落とさんとするばかりに身を震わし喜んでいるように見えた。

僕はエンジンをかけワイパーでフロントガラスの雫を落とし、二ヶ月前に水面に見蕩れたあの川へ向かった。寒いのは承知で窓ガラスを回すと、二日酔いの火照りには心地良いひんやりとした風が頬を撫でた。

途中、コンビニでホット珈琲と煙草を買い、昨夜と同じように煙草を吹かして道を飛ばして、ホット珈琲で口に火傷を作りながら小さな町を抜けた。

 川沿いのスポーツ公園の駐車場に到着したのは午前七時。昨夜近隣の不良達が騒いだ跡なのか、季節外れの手持ち花火のゴミがいたるとこに散らばっていて少し焦げ臭かった。

 信号が無い国道を珈琲と煙草を持って横断し、水に触れられる所まで河川敷を下った頃にはすっかり陽が昇り、小鳥の囀りに合わせ魚が水飛沫を挙げて跳ねていた。

大きな大きな川一面に光りが覆うように水面が輝き、まるでキラキラと音でも聴こえてきそうなその美しい早朝の奇跡は、水辺のいっそう冷たい冬の風を忘れさせる程に僕の心を掴んでは、重く、黒く、十字に滴る混沌とした罪の血を、赤子の涙に変えるかの如く浄化してくれるように思えた。

 僕はコンクリートの足場に腰掛け、煙草に火を点けた。ようやく飲める程の熱さに落ち着いた珈琲をゆっくり啜っては煙草を吹かし、ただひたすら目の前の広大の川の流れを見ていた。

 十二月の初め、バンドの継続について再度打診しようと川畑を食事に誘った席で、彼から美優と恋人関係であることを打ち明けられた。「他のメンバーには内緒で」と笑う川畑を前に、震える右手を抑えることに必死でその後に何を話したか全く覚えていない。その代わり現場になった蕎麦屋のかき揚げ蕎麦は不味いという根拠の無い記憶が植え付けられた。

その翌朝、吐き気と頭痛で目を覚ますと、部屋中に物が散乱し、特にバンドに関係するものに至っては無残に破壊されていた。呆然とその有様を眺めていると、自分から漂うアルコールの臭いに驚いて口を塞ぎ、便所に逃げ込み死ぬほど吐いた。

自分の荷物を取りに久々に帰った麻里が部屋の様子を眺め、破られた楽譜の切れ端を拾っては、少し瞳を潤ませるのを僕はベッドでぐったりと横になりながら黙って見ていたが、そのまま寝落ちてしまったようで、目を覚ますと、あの散らかった様子が悪夢だったのかと錯覚するくらい部屋が片付けられていて、麻里と麻里の荷物は無くなっていた。

 僕と麻里はあれから少々話した後に別れることになり、麻里が先に退居することになった。といっても、四年半の同棲生活に要した物々をすぐに移動できる時間も、金も無く、もう二ヶ月アパートで暮らす僕に一報してから時々残りの荷物を取りに来ていた。あの朝、僕が部屋を散らかしていなければ、酔いを残さず吐き散らしていなければ、もしかするとちゃんと別れの言葉がくらい交わせたかもしれない。そう思うと少々悔いが残ったが、いやに無機質で少々広くなった部屋で顔を洗ったり窓を開けたりしていると、途端にどうでも良くなった。

 水面に触れるとその冷たさといったら鋭く、指先で感じたその霜寒はやがて血管を這って全身に渡り、僕は水滴を払い忽ち珈琲カップを両手で包んだ。浅瀬には澄んだ水底に古代遺跡の様に苔を纏ったブラウン管のテレビが見える。

 川畑と麻里の関係を猿楽とボンゾーに告げ、見事に亀裂が生じたバンドは機能不可となり今後予定していたイベントへの出演を全てキャンセルする事態に陥った。話合いの席を設けられる余地が無い程に残された男三人は憤慨したので、事実上、川畑の告白がコーポラビッツの解散宣言となった。猿楽とボンゾーは「どうりで上手くならねぇ訳だ」だの、「恋愛なんかにうつつを抜かしてるから緊張感がねぇ」だの、最も誠実にバンドに向き合っていた二人だけあって、怒りと共に暫く溜まっていたのであろう鬱憤が溢れて仕様がない様子だったが、破壊衝動までは起きなかったらしい。

 気がつくと珈琲はアイス珈琲の如く冷たくなっており、口に含むと味が少々濃くなっているように感じられた。

僕が煙草を吹かして物思いに耽るこの間に、どれだけの魚が僕の前を泳ぎ、どれだけのゴミが這い、それだけの虫が溺れ、どれだけの鳥が突っつき、どれだけの波が揺れ、どれだけの光が水面を踊ったか分からないが、一切を飲み込む川は静かに流れてゆく。変わらずに、唯唯流れてゆく。

 その次の年の梅雨の時期、僕は猿楽と二人だけで曲を作り始めた。しかしそのすぐ四ヵ月後、夏の一夜を過ごした女性が腹に双子を授かり、何も進展が無いまま二人の音楽は止まった。

それから三つ目に就いた仕事中大きな交通事故に遭ったが、左脚を失ったくらいで命に別状は無かった。

 僕は今もギターを弾いて唄っている。家族が寝静まってから、物が散乱したカビ臭い物置部屋に小さな明かりを燈して、残った右足でリズムをとって。



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