徒然なるままに

わたしの時間を人にとられるのがとても嫌い。

とられたと感じさせる時間がとても嫌い。

自分一人で行動できない人が嫌い。

なのではなく、

自分一人で行動できないくせに、一緒にも行動できない人が嫌い。

きらきらとしたわたしだけを見てわたしらしさを語る人が嫌い。

そんな周りと一緒にされるのがとても嫌い。


何かに対する感性を強要してくる人も嫌い。

なぜ「何も感じない」という感性はそれだけで否定されるのだろうか。

何かを感じなければならないと思って生きる人生の窮屈さを知ってほしい。

想うというのは能動的なことだけど、感じるというのは受動的だと思う。

「喫煙自体、世界への黙秘権」

昔読んだ本の作者がそう表現していた。

きっとかれの魅力はそれだと思う。

世界に対する黙れという感情を、

それでもそう表現するかれを魅力的に感じる。


表現したい世界とそうではない世界が私にはあるのだと思う。

きっとそれは他の人にもあるのだろうなと思う。


今日のお昼、芸術系の授業の時にちょっとした妄想をした。

製作活動のテーマが「鶴」だったら何をしようかという妄想。

周りの人たちが紙を凝視しているその静まり返った空気の中で、

私は紙を真っ二つに破った。

破った紙をのりでくっつけ、そこに鶴の絵を描く私の姿がそこにはあった。

鶴と聞くと、「鶴の恩返し」に登場する、人に化ける鶴を想像する。

鶴の二面性に想いを馳せる。

けれどきっとそれは鶴だけの話ではないからそれを思いついたのだろう。

ホンモノの私、ニセモノの私。

そういうくだらない言いがかりに「ばーか」と言いたくて、

こういう製作を思いついたんだろうな。


可能な限り一人で生きていきたいと私は思う。

けれどそれは孤独でいたいという意味ではない。

ただ、1人で生きるその時間に人がいたらいいなとそう思う。

2人だからこその楽しさ・おもしろさではなく、

1人で感じられる大きさで生きていきたい。

「私として生きる」

それはきっと「私の大きさで生きていくこと」であり、

「自分に正直に生きること」ではないと思う。

正直な自分が自分にとって無害なわけではない。

どんなに嫌な私でもそれは私以外の何者でもないわけで。


たいていのものが「おいしい人生」の豊かさを。

おひとり様用の人生を。


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