「人それぞれ」と思えるための思考方法
「人それぞれ」という標語が昨今あふれている。
好きな食べ物、音楽、本。どんな将来を目指すか。どういった価値観を持つか。
価値観について言えば、結婚は最たる例かもしれない。
二十四、五歳までに結婚するのが当然というような考えは、いまではむしろ非難される。結婚については当人の自由であり、それは結婚相手や結婚する年齢、子供をもつかどうかを当人同士で決めるということが当然とされている。
そのような考え方のもとで育った人は、一昔前の雑誌やテレビを見ると驚き、違和感を覚える。なにか抑圧するようなものを感じたり、反感を覚えたりするかもしれない。
価値観は移り変わる。一昔前と今では、結婚という社会を成立させる要となるような慣習であり、個人の人生にとっても非常に意義のあるライフイベントに対する考えがまるで違うということ、これを十分に意識しなければならない。
結婚という重大な慣習に対する考えが変わっているのならば、それに付随するさまざまな価値観も変わっているだろう。
そのように考えると、一昔前と今では価値観全体が全く異なっていると言えるのかもしれない。つまり、時間軸で考えると、価値観は多様で、それぞれの時代にそれぞれの価値観があるのだ。
こうして、時代間で考えてみると、価値観が時代それぞれというのは当たり前だと納得できるし、現に納得している。ジェネレーションギャップというありふれた経験を思い出しても良いし、昔の人の風変わりな風習に想いを馳せてもよい。彼らは私たちとはまるで違うように感じられるだろう。
しかし、わたしたちはまた、彼らは私たちと同じ人間であるとも考えている。同じ人間である以上、程度同じような経験しているはずだ。結婚がそのいい例だ。時代によって結婚にもさまざまな形があるだろうが、基本的に結婚が意味する根本的なところは同じだと考える。だから、時代劇に感情移入できるし、お姫様や王子様に憧れるのである。
つまりこうして考えてみると、奇妙なことに、わたしたちは過去の人々が、まるで全く違う人間であると考えながら、同じ人間でもあると考えているのである。だから、わたしたちは実に好き勝手に、「あの時代に生まれたかった」とか、「この時代に生まれなくてよかった」とか言ったりするのだ。
過去の人に対してそうであるように、現代の人、すなわち他人についてもわたしたちは、そのように考えていると言えないだろうか。他人に対して、一方で、他人は他人であると言い、一方で他人に自己投影する。それは、現代社会において、「人それぞれ」という標語が跋扈しながらも、私たちは同時代人として、同じ人間あるいは日本人として連帯感を持っているということに表れているのではないか。
こう考えると、わたしたちは昔の人に対するのと同じように、今の人に対しても、一方で自分と同じだと考え、他方で自分とは異なると考えているのだ。つまり、自分とは異なる他人が、今目の前にいようが、何十年何百年も前にいようが、わたしたちは根本的に、異化と同化の両方を用いて、相手を捉えるのだ。すなわち、根本的には、両者は私にとって同じ方法で捉えられている。
以上のように、誰であれ、他者を理解する方法は同じものであるということが示された。ということは、過去の人物より現在の人物に親近感をもつ場合、その親近感、あるいは違和感の差は、程度の問題ということになる。
しかし、根本的に同じだからと言って、この程度の差を軽視してはならない。この程度の差をうまく利用したいのだ。
もしも「人それぞれ」ということを厳密に突き詰めるのならば、わたしたちは、私を相手に投影することができなくなる。昔の人々に対してさえわたしたちは、ある程度自己を投影していたわけだから、「人それぞれ」は、私と他人の間に、昔の人に感じる以上に違和感、疎遠な感じ、というよりも理解不能さをもたらしてしまう。もしそうなると、人間同士のつながりは不可能になってしまう。
逆に極端に他人を私と同じ存在と考えるならば、他者を他者として自分とは異なる存在であることを考えなくなる。そうなると、他者を自分の価値観に当てはめたり、世間の声と言われるような集団の価値観に当てはめてしまうことになる。
それがどのような結果を生むのかは、些細なことから歴史的なことまでさまざまみられる。いじめ、ハラスメント、ストーカーなど、さまざまな「現代的な」問題や犯罪は、過度に自分を他人に投影することで、他者の他者性を奪うものであろう。また、全体主義をとる国は、かつての日本やドイツ、あるいはソ連などのように、自国の内部に完全な同化をもたらそうとする。その手段として、大抵は、民族という象徴をもちいる。アーリア人や大和民族として「一致団結」することになる。全体主義が加速すればするほど、集団の内部では非自国民に対する排除が進んでいく。同時に、非自国民に対する侵略が始まる。要するに、自分の都合のいいように全世界を解釈し、それに歯向かうものを抹消するのだ。
こうして両極端を示すと、この中間をとる必要性がわかる。どれくらいの位置をとっているのかは、時代や社会による。現代社会はどうだろうか。
ここで、「人それぞれ」という標語が流行っているということを思い出す。この標語が流行るということは、人々は自分を他者に投影せず、また自分に他者を投影されないことを望んでいるということだろう。つまり、もう少し違和感、疎遠感、非理解の方に寄せたいのである。
とすると、具体的な解決案が上に示されているのではないか。つまり、他人を昔の人のようにみてみるのだ。まるで他人が時代劇の中の人かのようにみてみると、他人がかなりの点で自分と異なっているということを体感できるし、それでもなお、共通のものをもっている、そしてそれは人間である以上、人間が具えているものであるといえるのではないだろうか。あるいは、具えているべきものといえるかもしれない。こうして、人間が人間であるために必要なものに対する問いが生まれる。そして、これは倫理学として問うていく必要があるものだ。
しかし、今のところ、現代の「人それぞれ」という標語に対する解決として、私とあなたの間に時間を超えた隔たりを想定するということは有効だろう。あるいは、そこまで大袈裟なことをしてようやく多様性を認めることになるのかもしれない。
こうして多様性を大袈裟に、しかし論理的に捉え直すと、ここには実に大きな可能性があることに気付かされる。人それぞれの価値観が、時代を超えるほど多様であって良いということは、それに基づく行動に、現代という枠組みを超えた可能性を見出すということだ。当然、行動は法的にも社会規範的にも制限される。しかし、価値観は良心の自由によって保障されている。時代を超えるほどの自由な価値観を持つことができるのならば、どのような形であれ、どこまでも自由な行為が、人生が可能になるのではないかと思う。少なくともそんな予感がする。
この考えはそういう意味では、半分実践なのだ。この考えを持つことで、他人との距離を測り直す手がかりになると思う。