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雷と茶の湯 〜ロジックによるロジック破綻〜

 我々は茶会に行って何を見るか。亭主を物語る茶席には、庭の草木、茶室、料理、道具、抹茶など、多くの要素が散りばめられている。頭の中の会記の空欄に、進行に準じて、それらをポコポコ入れていく。物語は寄付(茶室に入る前の客人のための待合)の掛け軸で予想づけられることもあれば、最後の最後でどんでん返しがあったりと、まるでひとつの映画を見ているようだ。茶事という緻密に計算し尽くされた全自動的体験は、非常に心地よい。
 そこで、我々は見る。そこに集う亭主や客人の経験や知識の差異を。つまりは、会話の中で、熟達者もいれば、初心者もいることを認識する。そのとき、その差異によって、茶席の風情が変わるとほとんどの人が思っている。実はそれは違う。

要素の氾濫

 現代は茶席を成立させる要素があり過ぎて、たったひとつの流派を知り尽くすには数十年かかるというから、正直バカげている。また、すべてを知ったからと言って、それができるわけでも、使えるわけでも、さらには大きく次の展開を起こせるとも限らないのに、知識の差異で優劣をつけるのは、もう終わりにさせたい。そもそも、保持するだけの知識であれば、今やウェブが巨大な智として成立しつつあるわけで、意味を成さない。現代では、ただの記憶デバイスとなる。
 その人が気づき、欲しているものが智慧や知識となり、血肉、そして骨格となる。当人の頭がいっぱいになっていたり、耳が塞がれていたりする状態で、すぐ近くでやたら捲し立てたとしても、決して届くことはない。

 知っているからわかる、知っていなくてもわかる。それが両存できる状態が、茶の湯や茶道という名称さえなかった時代の本来的な喫茶であると思う。そして、そのことを現象という。


平等と現象

 この言葉を聞いたのは、いつもお世話になっているお寺のお彼岸の運転手をしたときだ。
 移動中、後部座席に乗った御住職に、

「茶会や講座をしていますが、茶道の専門用語の多さに辟易していて、経験者と初心者をどのように扱えばよいか、最近考えています」

と相談したら、以下の応えが返ってきた(わかりやすく加筆修正しています)。

「平等にしようと思うと、人はそれぞれ違うから不平等が生まれる。次にまたその不平等を埋めようと思えば、さらに不平等が生まれる。平等は不平等を埋めることでは叶わない。では、そもそも平等とは一体どんなものか。例えば、太陽の光、風、雨、雷は平等だ。誰もその仕組みを知らなくても、そのものを知っている。皆が平等となるときは、そのような現象となるときだ」

 その言葉を聞いたとき、私は目から鱗がポトンと落ちた、ということを初めて体験した。なるほど!と失礼ながら大声をあげたかった。そうか、私はロジックの深みにハマるばかりで、ロジックの外を全く見ていなかった。私の茶の湯はまったく現象化されていなかった。茶を喫するのに、経験、未経験などといった線引きなど不要で、誰もがそのものを「とらえる」ことができれば、それで良いのだと。講座も現象となれば、誰もがそれを「みる」ことができる。言葉の用語など、些末な問題であることを知った。

雷即茶

 しかし、忘れてはいけないのは、現象はすべて緻密な計算で組み立てられているものだということだ。ミクロにもマクロにも、無数の要素が繋がってひとつの現象となっている。我々の人生も、そのひとつの連鎖に過ぎない。つまりはひとつと全体が同じであるということになるが、ではそのものを、「そのもの」としてとらえるためには、現象化させなければならない。そのために、緻密な計算に基づき現象を再現させ、その結果、平等となる。
 
ロジックはあくまでも現象のために用意されるのであって、複雑怪奇な構造を作るためではない。ロジックを重ねれば重ねるほど、無色透明になることが望ましいとも思う。単一化と無数化は、同じである。
 そう考えると、現代はやたら意味性に重きを置きすぎて、その途中経過に過ぎない「説明」ばかり要求される傾向がある。確かに解説は大切だが、それが現象の数十分の一ほどの補助的役割に過ぎないことをまず理解しておかねばならない。そもそも説明することは、漫才のボケの解説を聞くようなもので、興醒めとならないだろうか。亭主、客人共に感じたいのはそのもっと向こうにある。

 改めて、要素の取得と、建設的物語の構築につとめたい。いつか、轟く雷鳴のような茶の湯ができたらと思う。

武井 宗道


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