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茶道流派の構造について

茶道人口減少について」の第一章です

 流派とは何か。家元を頂点とした茶道活動を主とする組織団体と言えば簡単だが、その内容をよくよく考えてみると、非常に複雑怪奇だ。流派とは何か、一度私なりにまとめてみたい。


流派とは

    流派とは、各々の流祖の数寄・好みを子孫や弟子が定義し、体系的に形式化させた集団。
 流祖=流派を築いた人でない場合が多い。宗教と同じように、思想・精神を定義化するのはいつも後世の者である。

流派の歴史

    歴史を要約する。

・安土桃山時代
    佗び茶が隆盛極めた利休や織部の頃は、あくまでも一部の特権階級の「個人的数寄好み」の表現、または優秀な茶人が「茶堂(茶の湯指南役)」として信長、秀吉につくことで新たな為政者の価値創造として用いられた。

・江戸時代

 江戸初期においてはそれまで以上に社会的役割が希求されるようになる。小堀遠州や片桐石州は「将軍茶道指南役」という役職を得、幕府の一機関となる。また、他の茶人の子孫や弟子などは、千家のように茶の湯指南を生業とし、諸藩の「茶堂」として存続する。「茶家」の誕生である。
    江戸中期頃より、茶の生産量の増大、流通の発展、茶の湯の一般認知の拡大によって、「似非茶人」や「千家と偽る者」が多く出現したため、茶堂の茶家や、茶人の子孫たちが利休からの茶の湯の正統な継承者であることを示すために、「宗匠・家元」を名乗るようになった。「茶家に権威が備わったといえる。この時、家元を頂点とする流派が誕生したとも言えるが、宗家の目が届く範囲の小団体である。    

・明治時代

    明治維新によって幕府に付いていた各宗家は没落する。しかし、明治十年頃より新興財閥の近代数寄者を後ろ盾とした「貴神の茶」と、女学校への「教育」という2つの展開をもって再興する。一個人の境涯を表現する茶の湯から、瀟洒な遊芸花嫁修行への転換が見られる。
 茶を点てるための方法自体が、より強く目的化した、と言える。

・大正後期〜昭和初期
女子の比率が男性を上回るようになる。

・戦中
 
戦時中である故、仕方がないと言えばそれまでだが、流派として戦争に加担するようになる。茶道・茶の湯を報国精神の顕れとし、かつての茶人たち(宗家にとっては先祖)のエピソードを捻じ曲げて大いに利用した。
 今では決して語られないタブーな時代であることから、茶道史の大きな汚点であったと言える。団体化したこと故の意志なき所業かもしれない。

 「茶道報国」をスローガンに、大政翼賛会の下、多くの流派が参加し「皇国茶道会」が結成される。
 昭和十七年の初釜では「皇軍万々歳」「百戦百勝」「一剣平天下」などの掛物が競って用いられたという。(『茶の湯の歴史』神津朝夫著)

・戦後   
 第二次世界大戦後、それまではパトロンである財閥などへの奉仕、直弟子の指導、地方への出稽古、茶会、茶事くらいであった宗家や流派の活動が一変する。高度経済成長期においては、奉仕も主としながら、一般への普及に努め、免状制度の細分化によって、会員が激増し、現在のような巨大組織に成長した。しかし、その過程で、宗家と流派に一つの境界線が引かれることとなった。

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流派の構造

 流派の構造を一口に語ることはできない。
 一般的には、宗家を頂点とするピラミッドが形成され、発せられる教えを基に流派が運営されていると思われているが、巨大な体を持つに至った現代、宗家と流派は別個の活動形態を持つこととなった。

・宗家
    宗家とは、家元のみを指す場合もあるし、家元と近親者によって形成される家族的集団を指す場合もある。宗家には、家元の活動を補佐するための内弟子や事務局があり、宗家の茶会や茶事、献茶、免状式、教授者指導などの活動をしている。流派の諸問題や方針に対する最終決定権を持つが、基本的には宗家の行事が優先される。

・流派
    一方、流派は、会員による任意団体で実際の活動はほぼ任せられている。ある意味、流派においては、宗家よりも流派事務局がより大きな力を持つ場合もある。

・なぜ別組織となったか
 教室や会員の増加によって、それは小団体である宗家の管理の範疇を超えるものとなったからだ。
    家元は単独行動をしており、流派は全体行動をしている。流派は時として家元の活動を補佐するが常ではない。時代によって様々な姿を見せる茶道の世界だが、宗家は拡大発展をせず小団体であることを維持し、流派が戦後急速に拡大発展し、大団体化したと思われる。
 つまりは流派のことは、流派で行うこととなった。ここからは、流派のより細かな構造を見る。

流派の2つの軸

    流派を一概に捉えられない要因が、流派の二面性にある。1つが「免状制度」、また1つが「運営体制」である。

・免状制度

    流派の一つの側面、免状制度。
 免状制度は、かつて師が教えるすべてのことを伝授、つまりは皆伝した暁に、その証明として渡されていたものだった。これを「完全皆伝制」という。しかし、時代を経て会員が増大したのもあり、現在のように、段階的(不完全)に授与される形となった。これを「不完全皆伝制」という。準師範、師範、上席師範、家元参与など(流派によって項目は異なる)の「格分け」である。
    免状は、直門でない限りは、それぞれの教室の師から推挙される形で段階的に取得できる。主には稽古暦や点前などの進捗状況によって応じられる。また、宗家や流派に対して、その人物の能力が大いに寄与されると判断される場合には、段階的でないこともある。そのため、免状の格によって茶の湯の技量が証明されものではないことを留意しておく必要がある。また、免状の格は流派の運営に影響しない。

    教授の許可を得た会員は、師の教室から独立して、新たな教室を持つことができる。教授者は、自身が持つ免状の、1つ下位の免状まで弟子を宗家に推挙し、取得させることができる。そのため、教授者はより高位の免状を弟子に取得してもらうためには、自身も、自身の師に推挙され、常に高位の免状を取得できるように努めなければならない。ここに、師との繋がりは維持しながら、延々と高位の免状の取得しなければならないシステムが見えてくる。
 また、免状は教授を許された資格に過ぎず、教授のプロや茶の湯のプロであることを証明するものではないのだ。

・運営体制

   免状制度と対をなすのが運営体制の在り方である。 
 流派運営が、実務的なところでは宗家から離れていると先述した。流派の運営事務局の下には、各地方の支部があり、支部を基して、多くの稽古場、会員が連なっている。支部にも事務局があることが多い。
    流派の運営や、支部の運営に関しては、立候補者や推薦者によって成り立っているため、先述したように免状の格はあまり影響しない。
 
また、青年部(と言っても四十代くらいまで、高齢化が進む)の活動も合わせて行われる。

・支部
 流派は、各地方に支部が置かれ、支部長をトップとしてその地域の年間の方針やスケジュールなどが示される。支部の活動は、茶会や、宗家を招いての研究会、などである。

・青年部
 流派によって年齢制限は異なるが、現在は流派会員の高齢化によって40代以下まで青年部とされることも多い。支部の活動とはまた別に、青年部は年間を通して独自に研究会や茶会などの活動をする。

・一般会員
 教授者免状をまだ未取得の初級会員。茶会や研究会への参加は、その教室の教授者の判断に委ねられることが大きい。

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まとめ

 現代の流派は免状と運営の2つのヒエラルキーによって成立している。しかしながら、この2つの大きな車輪は連動していないので、より即興性のあるコンテンツを欲する現代において、流派のパフォーマンスは非常に悪いと言えよう。茶道を知らぬ者と、茶道しか知らぬ者のジレンマがここに見られる。
 また、戦後に至っては、宗家が把握しきれぬほどの会員激増化や、その会員による流派、教室運営がされてきてしまったが故に、拡大はしたが、その分流派の特色は薄まってしまったのではないだろうか。茶道界内部ではもちろん認識されていることだろうが、未経験者に分からなければ魅力を感じる人が増えないのは当然のことである。ほとんどの茶道経験者は、入会時にその流派の特色、他流派との差異を知らない。
  また、現在、世界中でお茶ブームが起きており、日本茶インストラクターなどの資格を取る者も毎年大勢いるのに、茶道人口だけ減少し続けているのはなぜだろうか。宗家からも、一般会員からも、外部からも、もっと多くの問題提起がされても良いのではなかろうか。私は、先述した両輪が大きな原因の一つであると考えている。
 次項では、流派の会員減少についてまとめたい。


2、茶道人口が減少するとどうなるか

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