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病苦の歴史 茶の湯を省みる

 今回のコロナ禍の影響で、茶の湯の活動が非常に限定的、制約的になるのではないかという不安な日々を過ごしておりました。しかし、そもそも日本の歴史の中で、今回のような病苦に悩まされていない時代はなかったのではないかと思い、酒井シヅ著の病が語る日本史を手にとりました。

 すると、見えてきたのは、古代から発生していた伝染病の数々。奈良時代の天然痘に始まり、マラリア、住血吸虫、ツツガ虫病、トラコーマ、風邪、インフルエンザ、コレラ、梅毒、赤痢、麻疹、結核、ペスト、スペイン風邪、最近に至ってはサーズなど。その多くは海外との交流によってもたらされました。今回のコロナと状況は全く同じです。病に恐怖する日々は特別なことなのではなく、歴史を見ればその方が日常的であり、伝染病を思わずに安全に暮らしていたこれまでの日々が非常に特殊なものだったのです。今回、コロナという感染症が発生し、我々は長い間閉じていた意識の瞼を開くこととなりました。結果、大いに戸惑ってしまった姿については、語る必要はありません。

 伝染病が流行ると、加持祈祷、節句の邪気払いが行われ、漢方や西洋薬学が発展しました。時代の経過とともに、宗教から科学へと、その治癒の方法は移り変わりましたが、その全てが現代において必要であると思います。どの時代も病は我々に寄り添って存在しており、それに対する科学的な予防と、意識的な摂生は両輪を成してはじめて達せされるように思います。
 今回のことで、茶道界も大きな影響を受けています。大小関わらず、すべてと言って良いほどに茶会などは中止や延期を余儀なくされました。今一度、「もの」を共有する大切さを思うと同時に、リスクについても考えねばならぬ時代が来ました。これは初めてのことではなく、「これまで」のことであったのだと思います。
 そのため、今回、茶道を省みるために、今一度、病の歴史、特に感染症をまとめました。共有=危険であることを、改めて認識すべく、病苦の歴史を記します。

1、疫病

・疫病が流行ったら天に祈る
 まずは「疫病」。「疫病」は古代から人々を悩ませました。疫病と言っても、現代のように個別の病を指すのではなく、主には、「天然痘」「マラリア」「住血吸虫」「つつが虫病」などのことを言います。『古事記』『日本書紀』には「えやみ」「えのやまい」として登場し、身分の上下に関係なく、大勢の人々を苦しめる疫病は、天によって起こされるものだと考えられていたため、天皇などによって大々的な祈祷が行われました。この頃に始まった疫神を鎮めるための祭事「鎮花祭(はなしずめのまつり)」は、奈良の大神神社、狭井神社で始まったのが最初と言われています。

・夏越の祓えの原点
 夏越の祓えも疫病平癒のために神社の境内に設置された茅の輪をくぐりますが、こちらも疫病が流行ったとき、スサノオノミコトから贈られた茅(ちがや)で作った茅の輪をつけた蘇民だけが生き残ったという伝説から始まったとされます。
 古代の疫病平癒の方法は、伝説や神話とあいまって、とにかく流行したら疫神を鎮めるために祈祷をする、ということでした。

・仏教伝来と疫病 
 仏教が伝来されたのは538年、552年と二つの説がありますが、この頃、疫病が国中に流行っていました。崇仏論争で対立する蘇我氏と物部氏の争いのきっかけは、「仏教を取り入れたことによる疫病の起こり」という説もあり、蘇我馬子も物部守屋も疫病にかかり、当時の敏達天皇、用明天皇も疫病によって崩御されました。ちなみにこの頃から「瘡」という字がみえ、「天然痘」ではないかと推測されています。

・様々な感染症と対策
 
マラリア、住血吸虫、つつが虫病などが農村地で広まり、また、結核なども弥生時代の稲作がもたらされたときには既に持ち込まれ、古代から日本には多くの伝染病がありました。
 流行するたびに天皇を中心として全国の社寺で加持祈祷が行われ、元号を変えたり、都を移したり、販恤(しんじゅつ 貧しい人々や被災者に金品を与えること)を施したりしました。現代の給付金のような対策と言えます。
 しかし、病苦によって農民の負担が増えれば、作物が取れませんので、その結果、飢餓をも引き起こすこととなりました。しかし、天に祈るしか策はなく、生きることが非常に困難な時代でした

2、マラリア

 マラリアは突然、激しい震えに襲われ、四十度前後の高熱が四、五時間続いたあと、唐突に平熱に戻り、二日後あるいは三日後に再び熱発作をおこす病である。(『病が語る日本史』酒井シツ著)

 マラリアは「瘧(ぎゃく)」とも書き、虎が爪で人を殺害する意味を持つ「虐」に、「病だれ」がついてできた漢字です。平安時代の辞書『和名類聚抄』には「えやみ」「わらはやみ」と注がつけられ、『源氏物語』『御堂関白記』などにも登場します。
 マラリアにかかっていたであろう有名な人物に、平清盛がいます。清盛はマラリアに二度もかかりました。一度目にかかったときは、危篤状態になりながらも出家したことで、なんとか快方に向かいましたが、その十三年後にかかった二度目のときは、苦しみ抜いた末、たった数日で亡くなったと言います。高熱発作を起こし、意識不明になり、昏睡状態で悶絶死という壮絶な最期でした。
 また、九条兼実や、藤原定家、夢窓疎石もマラリアに罹患しています。当時は多くの人に感染し、特別な病ではなかったようです。

・江戸時代の流行
 
江戸時代もマラリアは流行しましたが、清盛のときのように重症化することは少なく、都市部では軽症化する傾向があるようで、「はやり病」のひとつとしてとらえられていました。当時はとにかく耐えるしかありません。
 マラリアが日常的な「はやり病」であること自体が、現代の我々にはとても恐ろしく思えます。

3、風邪・インフルエンザ

 風邪は、医学的には「風邪症候群」というのだそうで、「万病のもと」「百病の長」という言葉のとおり、風邪をきっかけとして症状が重症化する、危険な病です。
 風邪が文献にあらわれ始めるのは、平安時代頃から。当時は季節外れの風に当たってしまうと、風邪が引き起こされると考えられていました。同じ「風」の字を使う、「中風」もそのひとつとされています。風は当たると気持ち良いものですが、良い面だけではなかったのです。
 他にも、精神疾患や、眼球振盪症、てんかん、などの難病、もしくはとらえにくい病を「風病」と言っており、その多くが神経疾患であったと酒井氏は書かれています。

・風疫、傷風
 
さらに時代が進むと別の風が起こります。インフルエンザです。
 貞観四年(862)の『三代実録』には「たくさんの人が咳逆(がいぎゃく ひどい咳のこと)を患い、死者多数」と記されており、翌年も、翌々年も大流行しました。10年後に流行る時には、渤海の外国人がこの病を持ち込んだと日本人は考えており、病が国外から来ることに気づいていまいした。
 平安時代にもインフルエンザは大流行し、多くの人々が亡くなりました。この年は、宋の商人が訪れ、経典や史書を天皇に献納しましたが、同時に病ももたらしました。その後鎌倉時代においても流行が起こります。

・江戸時代のインフルエンザ
 江戸時代にも流行が発生しますが、慶長十九年(1614)を最後に、約100年ほどおさまります。理由は鎖国によって外国人との交流が著しく減ったためです。
 享保十五年(1730)に長崎の出島から再び流行が起こります。このとき、世界でも大流行しており、ロシア、ドイツ、スイス、イタリアなどで、日本へはロシアからもたらされたと言われています。
 その三年後には日本でまた大流行。夏の1ヶ月で死者8万人を出し、棺が足らず、酒樽に亡骸を入れて寺院に運ばれました。町は死臭に溢れ、貧しい者の亡骸は捨ておかれ、次々に菰で巻いて品川沖に流したそうです。

人々は藁で疫神をつくり、鉦太鼓を鳴らし、はやしつれて海辺にいたる
『武江年表』

 海外からきた疫病であったため、風神を海までつれ、華々しく送る「風神送り」という祭事が始まります。この祭事はインフルエンザが流行するたびに行われれました。
 江戸時代は何度も流行があり、その度に名称をつけました。「稲葉風」「お駒風」「谷風」「アンポン風」「お七風」「薩摩風」「ネンコロ風」「ダンホウ風」「津軽風」「琉球風」「アメリカ風」など。
 ちなみにインフルエンザという名で呼ばれ始めたのは戦後のことです。これほどまでに多くの死者を出していたことに驚嘆すべきですが、2018年の日本でも3000人以上がインフルエンザで亡くなっています。

4、コレラ

 コレラは激しい下痢と嘔吐を伴う伝染病です。紀元前四百年ごろにインドのガンジス河およびプラマプトラ河下流のデルタ地帯に限定して起こった病でありましたが、貿易などで様々な地域の交流が盛んになるとともに、世界に広がっていきました。
 日本へは、文政五年(1822)八月に長門に上陸したと言われています。既に対馬で大流行しており、嘔吐、下痢、腹痛によって苦しみ、三日と経たずに人々は死んでいきました。あっという間にコロリと死ぬことから、「三日コロリ」とも呼ばれました。
 その後、凄まじい勢いでコレラは北上し、大阪で爆発的な流行となります。一日で二、三百人の埋葬がおこなわれていたとの記録もあります。その後、京都でも流行しますが、秋から冬に変わる時でもあたったため、東に広がることはなく、終息しました。

 このあと、世界で二回目の流行が記録されていますが、日本は特に影響ありませんでした。

 しかし、安政五年に日米修好通商条約が調印され鎖国が終わる1ヶ月前、日本へ入船したアメリカ船ミシシッピー号の船員がコレラに感染しており、瞬く間に長崎市内に感染が広がりました。これが、三回目のコレラ大流行です。
 江戸の火葬場は山のような棺桶で溢れかえりました。江戸への旅行客などが減り、飲食業や観光業などの経済は一気に落ち込みました。現代の日本と全く同じ状態です。コレラはその後、9月頃に終息の兆しを見せ、下旬頃には完全におさまったとのことです。

・死者数
 三回目のコロナ流行の死者数は江戸で約3万人。当時の江戸の人口の3〜4%の人が亡くなりました。

・対応策
 このとき、日本はオランダ海軍軍医のポンペの意見を入れ、生鮮食品の管理、食用禁止の食品名と生活習慣の禁止事項を公表し、病魔に対応しました。隔離が行われたなかったことが意外です。
 コレラへの対応と終息を見た日本人は、漢方以上の効果を発揮する西洋医学を非常に評価し、取り入れることとなります。

・四回目
 四回目の世界流行は、西南戦争が起こった明治十年(1877)。戦争が終わり、兵士たちを乗せた輸送船の中でコレラが発生。そしてそのまま関東へと持ち込まれました。船の中は惨状と化していて、下船の際は、止める検閲官を銃で威嚇しながら降りてきたそうです。このときは、消毒の徹底、患者を隔離することで、流行を食い止めました。

・最大の流行
 
二年後の明治十二年、最大の流行が起こります。このときは、愛媛の漁村が感染源となりました。全国に瞬く間に広がり、この年、感染者十六万人以上、死者は八千人以上となりました。
 
 現代の日本では感染が確認されても、死亡することはほぼなくなりましたが、世界では毎年300〜500万人が感染し、10〜12万人が死亡しています。
 いつ大流行が起こるかわからない病ですので、注意がとても必要です。

5、天然痘

 天然痘は、「痘瘡」と呼ばれ、人類が唯一根絶できた病ですが、はるか昔から最も恐れられてきた病のひとつです。二千年前のインドの仏典にも痘瘡の記事があり、日本には仏教伝来の頃に感染が広がりました。
 数十年おきに起こっていた大流行が、江戸時代に至ると毎年起こる常在伝染病となりました。
 痘瘡の症状がどのようなものかと言うと、高熱から始まり、水泡が身体にでき始めると、血泡に変わり、やがてそれが化膿し青色に変色し、最後は瘡蓋(かさぶた)になって落ち、全快します。しかし、それまでに亡くなってしまうことが多く、古代から恐れられた病でした。また、もし快復したとしても顔には痘痕が残り、「痘痕面(あばたづら)」と呼ばれました。
 
 天然痘に対して、日本人は奈良・平安時代は大規模な加持祈祷で平癒を望みました。鎌倉時代からは、失政が原因だとされ、流行するたびに改元が行われました。
 江戸時代になると、町村ごとで祭りが行われ、痘瘡神という疫病神を祀りました。後期に至って、往来の少ない町村では天然痘患者が少ないことがわかり、痘瘡が神仏によるものではなく、人と人との接触による伝染病であることがわかり、隔離政策が取られるようになりました。
 患者がひとり出ると隔離に百貫(現代では120万円前後)もかかったため、「痘瘡百貫」という言葉が生まれました。貧しい家ですと、一家離散という結果となることも少なくありませんでした。

 のちに、種痘法というワクチンが発見され、瞬く間にこの病は駆逐されました。人類が根絶できた唯一の病として知られています。


6、赤痢

 赤痢は、現代でも災害や戦争によって不衛生な環境が形成されると、どこでも発生する非常に危険な病のひとつです。
 発熱と排便を短い間に繰り返し、便に血や膿が混じ、身体を弱め、死に至ります。
 日本においても古来から悩まされている病であり、抗生物質ができた昭和二十七年でも十万人が感染し、そのうち十七パーセントが死亡していました。近年でも壮年の男性に多く見られます。。
 
 平安時代の藤原実資による『小右記』には、実資本人が赤痢にかかった様子が記されています。一日に十回〜十二回も下痢が発生し、超高級薬品である「訶梨勒(かりろく)」を処置され、完治まで二ヶ月もかかりました。同じ時代の藤原顕光に至っては一夜で二十回あまりも便所に通ったとか。
 前述の天然痘と併せて発症する人もおり、貴族、庶民関係なく流行したため、非常に恐れられました。

 明治三十年(1897)に志賀潔によって赤痢菌が発見され、研究が一気に進むこととなり、現代では抗生物質をもって対処されます。

7、麻疹

 麻疹は「ましん」と言いますが、「はしか」という俗称の方が耳慣れていると思います。
 麻疹は、風邪に似た症状が現れたあと、発疹が全身に広がる病です。現代でも根絶はできておらず、いまだに流行することもあります。

 江戸時代は大人もかかっていました。一度かかれば二度とかからぬこの病ですが、二十年周期で流行が起こっていた江戸時代では、流行と流行の間に生まれた子供は、大人になってから麻疹にかかりました。そのため、麻疹の周期を指して、「麻疹で知れる傾城の年(流行している麻疹にかからないために年がバレた遊女)」などという川柳が生まれました。 
 やがて「はしか絵」という錦絵が出版されます。予防法や摂生の方法が描かれ、食べて良いもの悪いもの、やって良いこと悪いことが列記されました。悪いことの対象になった料理を出す店や、興行主などは流行の度に不景気になったため、皆で寄ってたかって医者や薬屋を叩きのめしている錦絵もあると言います。
 
 最も酷かった文久二年の麻疹の流行では、二十万人以上が死亡しました。麻疹は、急に発疹が消えると、高熱、痙攣、意識障害などの全身障害を起こし、急死に至ることもあります。また、妊娠中にかかると流産することもあるため、とても危険な病です。
 今ではワクチンが開発され予防ができるようになりましたが、注意が必要な病であることは変わりありません。

8、結核

 文学の世界では耽美的に扱われる病としても知られる結核。現代の日本ではBCG接種のおかげで罹患することは減りましたが、根絶はできておらず、世界ではいまだに多くの人がこの病に苦しめられています。国立感染症研究所のデータを見ますと、世界で毎年300万人が死亡しており、単独の病原体としては世界一位となっています。
 別名「死病」と呼ばれたこの病は、発症すると咳や痰が出るようになり、やがて喀血します。肺がおかされることで、呼吸が困難となり、死に至るとされます。
 この病の恐ろしいところは、その症状だけでなく、発症までの潜伏期間がとても長いことにあります。その間に、保菌者は感染力の強い結核菌を周囲にばら撒いてしまい、その感染先の多くは家族であることが多いため、非常に悲しい思いをします。明治になるまで不治の病であったため、もし判明しても医者は告知をすることが非常に難しかったと言います。

 『枕草子』『源氏物語』にも登場し、麗しい女性が夭折する物語が登場しました。また、江戸時代には痩せ細って陰気な姿になるため、「労瘵(ろうさい)」と呼ばれました。「労瘵」とは、疲れてすり切れるという意味です。

 最も流行したのは、明治時代の産業革命期。工場が幾つも建てられ、農村から買い集められた若い女子工員たちの間で次々と感染が起きました。劣悪な環境下で働く女子工員たちはその犠牲となり、明治十七年には二十歳から三十歳までの若者が二千人以上亡くなりました。さらに、病のために工場を解雇されて帰郷した際には、家族にうつし、結核は都市部だけでなく、農村にも広がっていきました。世界の国々と競う合うために焦っていた当時の日本は、工場の停止や環境の改善などの対応を大きく遅らせてしまい、結果、悲劇が起こったのです。

9、ペスト

 別名「黒死病」と呼ばれたペスト。中世ヨーロッパの人口を四分の三にまで減らし、その感染力と死亡率はいずれも高いことで知られています。
 ペストは大きく2種類あり、腺ペストと肺ペストに分かれます。腺ペストはネズミを媒介して発生し、肺ペストは空気感染で広まります。日本には、明治時代に腺ペストがもたらされました。インドから輸入した綿花に混じって上陸したネズミが犯人でした。
 この病は、高熱、激しい頭痛、意識混濁、頸部、脇の下、太腿の付け根のリンパ腺を腫瘍させ、昏睡状態に至って四十八時間以内に落命します。
 ネズミを媒介してうつるということがわかっていた東京市は、裸足で歩くことをまず禁止します。当時はまだ裸足で歩いていた人がたくさんいたそうです。
 また、ネズミ捕獲作戦を建て、一匹五銭で買い取ることを宣言したところ、三百万匹を捕らえることに成功し、無事、終息しました。このとき、ネズミを捕獲するために猫が飼われるようになり、東京の猫の数が一気に増えたと言います。
 
 ちなみにペスト菌を発見したのはかの有名な北里柴三郎氏で、現在ペスト菌のことを、同時期に同じく発見したエルザンの名とともに、エルザン・北里菌と呼ばれています。


まとめ

 ここに挙げた九つの病は、地球上にある伝染病のほんの一部です。現在でも、進行形で新たな病は生まれており、それによって多くの人々が苦しめられています。
 病は、個人の身体がかかるものだから、ついつい私は個人的なものだと思ってしまっていましたが、歴史を振り返れば、社会全体として対応せねば、終息を迎えることができない例がたくさんありました。病は「個人」ではなく、「全体」に巣食っているのです。そのため、コロナという病苦に対して、個人の活動自粛や、生活の摂生などを求める国の対応には首を傾げるしかありません。個人では全体を平癒することなど不可能であると歴史は語っています。

 病とは一体なんなのでしょうか。安定した生から、完全なる死までの「路地」のようなものでしょうか。
 「生きていくことは死と同義である」とよく人は語りますが、普段の生活の中でそれを「知る」ことまではできても、「知覚」することまでは非常に難しいのだと、今回の病災で思い知らされました。世界で最も安全な国に住む日本の国民が、コロナに関しては非常に敏感な反応を示すのは、死への極端な恐れが端を発しているようにも感じます。恐れをなくした国にとって、久方ぶりの「得体の知れぬもの」との再会、心の平穏は生と死、両方を見つめるしかありません。

 病は生の苦しみも死の苦しみも持ち合わせています。罹患すれば、如実にその存在の生々しさが感じられるものです。病によって明瞭になるのは、生でしょうか、死でしょうか。病という現象を身の回りに置く時、「共有する」ことは、幸福と同時にリスクももたらします。

 茶の湯に関して言えば、その全ては、亭主と客人との共有によって成り立っています。茶も、料理も、道具も、空間も、時間も、明暗も、すべてを共有することで、境をまぎらかして一座建立を目指します。共有を行うことで、毒などでの暗殺だけでなく、病のなどの感染リスクも承知で、その茶席に集まったわけです。
 現代ではそれがすべて安全な環境下のもとで行われるようになり、本来的な意義を失い、著しく文化的(瀟洒)な方へと傾いてしまいましたが、茶の湯が最も隆盛を極めた安土桃山時代においては、「共有」にリスクが伴うことは当前の如く認識されていたことでした。
 
 先述した病の数々においても、ほとんどが古代から現代まで日常の中にある「ありふれた恐ろしい病」であり、密室空間である茶室に集まれば感染する危険性は、格段に上がります。
 そこまでのリスクを払って、一体何を「共有」していたのかを考える機会としてとらえれば、今はとても貴重なときであると思います。利休や織部の時代とは異なるわけですから、現代においてこそ「共有」すべきものを求めるのも良いかも知れません。

 薬でもある抹茶を啜りながら、今一度、心に問いかけてみると、生の喜びだけでなく、死への恐怖や苦しみをも分かち合える茶友の存在のありがたみを感じます。
 コロナ禍だからこそ、茶の湯って良いなあ、とその重要性を思います。

武井 宗道

 

 




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