曦宗達日記(2020年6月)

二〇二〇年六月二日

仏教とテクノと美術と。

AI、ポストヒューマン、ディープラーニング 知識による美術批評とインスタレーション と絵画とSF、ポストモダン、VR


二〇二〇年六月五日

なんでつまらない祝辞や挨拶やスピーチをいろんな人に長くやらせるのか。日本教育にひがみがるのかもしれない。

美術は死学であり実学でもある。ビジュアルから社会学や経済学、物理学、論理学などを知り、尚且つ柔軟思考のトレーニングにつながるから。

二〇二〇年六月七日

ふくもっちゃんに言った美術教師発言は美術教師の少なさを言っているのであってそこから自分は美術教師とかになったり研究したりするわけではない。例え違うことやっていたとしても問題ないのだろう。

美術批評やりながら起業もあるかと思う。

二〇二〇年六月十三日

なぜ僕には多動を嫌うのか?これは疲れからかもしれないし活動が徐々に批評に移りゆくからかもしれない。考えてみたが、理由がわからずブラックボックスで何も結論が浮かばない。実際真っ黒になった感覚があった。多動を拒むことがなぜあるのか、無意識のうちに起こってしまうこの不可解な現象はアスペ特有のものか?脳科学で解明するのもありだが、私的にはたくさんのことを済ませたい。批評や小説、短歌などを多動的にやってみたい。

AI→批評→笹井宏之賞


二〇二〇年六月十八日


私を殺してください。

私を楽にしてください。

何もできないし望みも叶えられないから人思いにやってください。

わたしには中毒と非決断力と実行力と課題こなすことができません。

やはり小さな課題の多さと短期間勝負は大学や検定には合わないのでしょう。

加えて私は仲間を作ろうとしても最終的にはひとりぼっちで終わり、孤立するのです。

最近はひとりぼっちが多くて困っているのに神は私の望みにお怒りになって私を地に堕とすのでしょう。

デジタルに生かされ、デジタルに殺された私をとどめの一発、誰か殺してください。

二〇二〇年六月十九日


短歌はいっぱい作ってその中の数首。

美術作品は数個作ってその中の一個。


いまだに東進行ったことを後悔している。親父の誘いを断ったらまた変なウンチクやら説教やら食らって後々大変になると思ったから。結局「は定期テストいい点とって自分なりの学問をしていればよかったのかもしれないとつくづく思う。

ああ、父はなぜ東進なんかにつぎ込んだのか。もっと有用なところにやっておけばよかったものを。東進で得られたことは何もなかった。コンプレックスのストレスだらけの中でクソみたいな世界で苦しいものばかりだった。

今日は六月十九日は何だか長く感じた。物理的に六月十八日を十九日と勘違いしたこともあってか日の感覚がずれてしまったのだろう私は基本一般的社会におけるダメ人間でテストが苦手だ。(学問は好きだが勉強は低レベルだ。)批評など、独自研究や文芸創作は好きだし優先したいが資格や試験のための追い込みや知識入れ込みははっきり言って苦手だ。そろそろ気づかないだろうか。自分の本当に苦手なことを。

私は短歌を作る時、常に葛藤や苦しみが生まれてくる。その中で沸き立つ言葉をようやく掴み取る。なかなか動かないからと言うのもあるが毎日やらないと気が済まないからだ。練習しなければ落ちると言うプレッシャーだが自身のルールだか知らないがしんどいし苦しくなる。

作家の評価は時間によって変わることもあるのでは?なぜならその時その時によって気分は変わるから。漫画にはそれが見えない。まあ、中原中也の詩はいつ読んでも「・・・」なのかもしれないが。

二〇二〇年六月二十一日

AIとバルト

いろいろな学問を修めるために切替力が必要となるが、一点集中ができなくなるだろう。ただ、学問が長時間やり続ければ集中しており多彩にして学問ができるようになるのかもしれない。


お金、単位など、見えないものを受け渡す。この世界はなんだ?人間が作った虚構と形式を消費するのみだから空虚的になるのでは?

AI検定の勉強で気づいたこと。短期間集中も、長時間集中もできなかった。だったら私は、長時間で気分に合わせて勉強するのが一番良い。

二〇二〇年六月二十三日

バイト=ストレスアンドトラウマ。僕はバイトが絶対に嫌いである。だからできないし今は当然ながらやる必要がないと考える。やる必要がないからと言って休む、サボるのではなく勉強に時間と体力を使う。

初めての不慣れなものをやって失敗したら説教されるのが一番嫌いなのだ。今まで人生生きたなかでそれは避けられないと思っている。だから私はバイトしてお金を稼ぐ以外に方法があると思っている。

二〇二〇年六月二十六日

私に完璧、脱抜けていることを目指しても意味がない。履修登録で大変な目に合わないよう日本美術史かキリスト教美術どちらかを捨てようか選ぶ時、様々な基準を定めなければならないのであろう。ただ、私は失敗してから気づくことが多いため、どうすることもできない。日本美術史は金曜一・2限でで途中課題が大変だがレポートで先生はまだ覇気があったように見えるがキリスト教美術は火曜金曜3限でペースがいいが先生は覇気なくてテストあり。こっちが妙にしんどいのだ。

選択基準を授業時間等で定めたが、課題の状況等を踏まえずそれを基準とすることに気づかなかったため落ち度が現れる。こうした失敗は直そうと思っても治るものではない。なぜなら見えないから。抜けていることを直すのは無理がある。

先延ばししようとすればするほど次へ移ろうとするとするのに抵抗感が溜まり、足にすごいストレス、悪の気迫のようなものがかかる。

批評の少なさ→客観的分析の欠如と教育の問題。

将来家事は基本誰かにやってもらうべき。

六・30

レズビアンの哲学。

ならば次やることを早めにやれ、すぐやれば良いと言われるがそうとも言えない。はじめはそれができてもまた気づかぬうちに先延ばしを起こすから、一人はとにかく危険だ。有用だと思えるものに手をつければいいのだが何が・・・

関西から沖縄、北海道は料金それぞれ違うか同じか?

空き寺は多いか?特に関西。

学力向上と研究機関が生で見れるのは訳が違う。

浅野大輝とWikipedia

学生時代は時間も多いため多少遊んでも心に余裕があった。いろんなことができる。だが、社会人となれば遊べるどころかスポーツもできるかの余裕すらない。今からでも鍛えることはできるのか?しかし失敗や遊びも学び。子供の頃からそー言ったことがわかっていたら・・・。

片岡一竹、山野弘樹

ロボットは心に殺されるという間違い。

ロボットを思い浮かべた心がすでに遥か以前の操作の産物だったことが問題。したがってロボットを殺しても私たちは自由になれない。

↓間違った答えに囚われてばかりで救われないのか?

普段の喋りが批評に繋がってゆくのではないのだろうか?

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