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国籍や国境を越えたその先①華僑三世

台湾が舞台の小説『道(ルウ)』(吉田修一著)を読了。
日本の新幹線を台湾で走らせるために異国で奮闘する主人公や日本の統治下時代に台湾で青春期を過ごした老人の回顧など、ストーリーが面白く、美味しそうな料理や人々が暮らす街並みも丁寧に描かれており、自分が育った神戸、移住したカナダも出てきて、やっぱり旅に出掛けたい、台湾に行ってみたい、再訪したい、と思わせる一冊。

『路 ルウ』吉田修一(文春文庫)

私自身、台湾人の祖父母と上海人の外祖父母を祖先にもつ華僑三世として日本で生まれ、神戸中華同文学校で小中学校9年間学び、中学を卒業するまでは付き合う人達、親戚の大半が華僑、という環境で育ったので、「日本で生まれ育ちながらも日本人ではなく外国人」として扱われる微妙で独特な感覚を物心ついたころから持ち合わせていたように思う。
いや、微妙で独特な感覚を持ち合わせていた、というより、自分が思う以上に、そして自分が望まなくても、相手・役所・法律・国が自分を日本人ではないと明確に線引きし、それを受け入れるしかない環境だったため、知らず知らずに自然と持ち合わせていかざるを得なかった微妙で独特な感覚、と表現した方がいいかもしれない。
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大学でアメリカ留学し、卒業後に就いた仕事が海外出張が多く、20代後半からカナダに移住するなど、常に国境の存在や国籍というものが意識下にある生活をしてきたので、小説の中に描かれている異文化に順応していく過程、そしてパスポートで国籍が識別できる以上に、目には見えずとも人と人の間に存在する心の隔たり、大きな壁など、小説で紡(つむ)がれた多くの言葉や描かれたシーンに共感でき、感情移入したり、自分にも似たような経験があったなぁ、と薄れていた記憶が何十年ぶりかに蘇り、想い出すことが多い作品でもあった。
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50余年の人生で幾度となく「国籍」の問題を感じてきたが、残念ながらそれらは決して嬉しい想い出ではなく、悔しいとかやり場が無い気持ちとか、眉間に皺が深く刻まれていくような苦い思いを抱くことの方が多かった。
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私は日本で生まれたので「日本に生まれてきて良かったぁ」とは言えても、「日本人で良かったぁ」という表現は使えない。
どれだけ日本の文化や歴史が好きで日本の自然を愛していても「私は日本人であることを誇りに思う」という言葉が使えない(感覚的にそう思っていても、日本国籍ではないので発した言葉の中に嘘が含まれていることへの罪悪感さえ覚えてしまいそう、と思う)。
じゃあ自分はいったい何人なんだ、となった場合「日本人です」とは言えず「中国人です」と答えるのが筋だが、中国で生まれ育ったわけではなく、先祖が中国人と台湾人であり旅行や出張で何度も訪れたとはいえ中国を「祖国」とか「ふるさと」と思う感覚もない。
なので「日本生まれだが国籍上は中国(中華人民共和国)、パスポートは台湾(中華民国)、移住したカナダの国籍とパスポートも有する」という長い説明になり、心情面ではなんだかとても曖昧で、どこにも明確に属さない「微妙で独特な感覚」を常に持っている、ということになってしまう。
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思春期に多いといわれる”identity crisis"(アイデンティティ危機、自我同一性の喪失、自己認識への葛藤などと和訳・意訳される)が「自分はいったい何者か?!」という問いへの追及・探求だとすると、私の場合は"nationality crisis"と表現すべきかどうかさえ自分でも分からないが、「自分はいったい何人(どこの国の人間)なのか?!」という問いに対して、数年前(50歳になる前)にようやく『感覚的に納得できる自分なりの答え』が出せたのだが、この『路』(中国のピンイン表記”lu”ルウ)にも共感できることが書かれていて嬉しかった。
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今まで私自身が実体験した国籍にまつわる多くのこと、それらを経験し、歩んだ「路」の先に辿り着いたいまの境地など、いくつかの事象を②以降で書きたいと思っていますので、そちらもお読みいただければ嬉しいです。


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