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『自撰版・掌編集 灯台』 〈置き土産ver〉 本編全文

 『自撰版 掌編集 灯台』〈置き土産ver〉(約35,000字)の「序詩 時空詩」を除く本編全文。一編一編はとても短い物語で時系列もばらばらですが、最初と最後のお話だけは前書きと後書きのようなものです。一気読みも、気になったお話を気まぐれに選ぶもお好みでどうぞ。

 架空の兄と真珠の子

 夜に飛翔して自由になるには、こうして目を閉じるだけ。
 ……さて、これで私は眠ってしまった。
 意識だけが存在から離脱し、来たことのない場所に飛ばされる。これを眠りとは呼べないだろうことは分かっている。翼のある魚だって目を閉じて時間の河を泳ぐが、眠りはしないように。私も青く澄んだ空想の世界へ旅立つだけなのだ。
 願い泳ぎ、祈り羽ばたき、そして、キミに出会う。
 キミが"誰”なのかはあえて問うまい。私はキミを〈真珠の子〉と呼ぶ。何が起きたかわからないのだろう。戸惑いはもっともだ。突然、見ず知らずの場所にやってきたのだから。
 煙たい? 失礼。光る煙に巻かれていないと、周囲が何も見えないからね。
 私の責務は、時を渡って〈無限の弟妹たち〉の心に触れることだ。目に見えないものに介在して、与えたり、ほんの少しだけ持ち去ったりする。でも今日は仕事をしに来たわけではない。そうだね。キミと話ができるのは、もしかしたらこれが最初で最後かもしれない。だからキミをたのしませるような話をしよう。ただ聴いてくれるだけでいい。気を落ちつけるために、音楽を聴いてリラックスするようなものだ。
 まずは目を閉じて。ほら、波の音が聞こえてくるよ。
 冷えた夜の、不気味な潮の匂い…………私の手を取り、こちらへ来て。
 キミは、しっとりと柔らかな砂を踏む。海は闇に沈みきり、どこか遠い島に棲む名も知らぬ獣の唸り声が轟いてくるようだ。靄の向こうに聳え立つのは、白い石造の灯台。ランタンを手に、らせん階段を上る。キミと私の慎重な足音だけが響く。最上階の小部屋の扉を開ける。灯光のレンズはこの真上に設置されている。出窓から外が見渡せる。ただただ暗い。今夜、私たちは小さな月の点灯夫となり、眠れる〈弟妹たち〉を乗せた記憶の船を探しだそう。彼らの夢が暗礁に乗り上げ、夜の怪物に飲み込まれる前に。
 慕わしい夜風。タバコの火。……光る煙に乗って、星や花の生きた幻想がキミの瞼の裏まで飛んで行くよ。
 静かなる星の輝き。眠いのかい。でも目を覚まさないで。まだ、ここに居て。くだらないと笑い飛ばしてもいい。大人と呼ばれる種族は、大抵そうであろうとする。大人なのか子供なのか、そんなことわからない? ならば、キミはキミとして、この夜に、この温度と湿度に親しんでくれたらうれしい。
 どうぞ触れて確認して、古い安楽椅子だ。座ってくれ。あんなに狭い入口だったのにどうしてこんなものを置けるのかって。では、〈真珠の子〉よ。キミはどこからやってきて、どうやってこの世に入ってきたの。安楽椅子も、キミも同じだ。ここに居るのは、ここに在るから。精神的な移動性。マインド・モビリティ。この言葉を覚えておくといい。
 戸棚にはいろいろなものが置き去られている。短編小説、時の音楽を収めた黄金のレコード、靴を磨くための黒のクリームと布。誰かが忘れていった小品。どれほど昔のものか分からない。ここでは、何かが滅びることは無いんだ。滅びないものは、生きてもいない。でも、確かに在る。再び生き始めたら、ここから出て往くことだろう、二度と戻らない滅びの旅へ。
 ここがどんな場所か、想像できたかい。
 未来の話も心躍るだろうけれど、こんな夜は昔話をするのがいい。灯台の光がのっぺらぼうみたいな海を照らす間、私が出会った、かけがえのない〈弟妹たち〉との記憶を語ることにしよう。
 さあ、灯光の準備ができた。目を開けて。夜の底から浮かび上がる記憶の船の姿が見えるだろうか。


 夜明けのシューゲイズ

 月面に開いたスポットから飛び出し、宙を舞い、着地する。
 架空の兄(イマジナリー・ブラザー)は靴紐のある靴を履かない。架空の兄の脚は解けた靴紐を結ぶために止まるものではないし、瞳は靴を見つめるためにあるのではないから。架空の兄はブラック・スーツのネクタイを解くことはなく、また他者によっても解かれない。架空の兄の両手は自身の気を緩めるためにあるのではないから。
 架空の兄は駆ける。今まさに消えゆく第三の月へさよならを言いに。しかし、絡んだ野草に足を取られてすっ転ぶ。かれはしばらく呆然と靴を見つめる。見つめるうちに朝が来る。泥のついた頬をそのままに立ち上がる。陽光の眩さに感激した、次の瞬間には第二の月の裏側を疾走している。時は矢の形を描いて飛び去る。架空の兄は晴れ晴れとした気分で、既に靴を見つめていたことを忘れている。


 不幸を売る星

 架空の兄は不幸を売る星を訪れる。チケット売りが「おひとついかが、おひとついかが」と道行く人をいざなう。勿論、誰も自分を不幸にするためには買わない。誰かを絶望させたいがために、買う。劇場では、不幸にしたい誰かが、ひとしきり泣き悲しみ落ち込むようすが上映され、観客はそれを見て憂さ晴らしをするという。
 道端で輪になる紳士達の会話を、架空の兄は立ち聞きする。
「下劣な商売です。近頃はどれもこれも似たり寄ったり、これが観たいんだろうとばかりに。いい加減客を馬鹿にしていますよ」
「けれど、自分さえ良ければいい、という心理を徹底的に満足させる良質なサービスではありませんか。私は、いつもねちっこく嫌みを言う上司を、手を替え品を替えいたぶる"作品”を二度観ましたけれど、随分気分がさっぱりしましたよ」
「我々には、もはやあれが手離せん。殺人願望や暴力的傾向も和らぐと言われるほどだ」
「そこのひと、不幸にしたい者は居るかね」
 一斉に、紳士達が首を捩り回して架空の兄を凝視した。紳士達の目は顔面全体の半分を占めるほど見開かれて、架空の兄を無遠慮に観察する。
「おお、存在から水を感じませんな」
「こういうお方は、どういった不幸を好まれるのでしょうな」
「ぜひ、観てみたいものですな」
 架空の兄は思わず、スーツケースを取り落とす。おもちゃの兵隊や夢を動力にする車や飛行機、船のミニチュア、イルカのぬいぐるみ、ロボットのプラモデルがぶちまけられる。星の夢の閃光がきらきらと舞う。紳士のひとりが呆れてミニカーを拾い上げる。
「なんだ、紳士の出で立ちで、子供らしい」
「子供だましならぬ、大人だましというわけですね」
「おや。諸君がそんなことを言うから、ご覧なさい、拗ねてしまわれましたぞ」
 架空の兄はミニカーの運転席で不敵にクラクションを鳴らす。大人だましの架空の兄はアクセルを踏み、憤然と星空へ走り去る。


 架空の兄とミドリとモモ

 架空の兄が落下した先は、グリーン・コンピュータ・ハウス。ミドリとモモが住んでいる。蔦に覆われた四角い家に、突如として衝撃音が轟く。ボビーボットによるエマージェンシーの連呼。架空の兄がゴミ箱に棄てられる直前、駆けつけたミドリとモモは彼を掬い上げ、ウイルス・チェックを入念に行った。何重もの扉を潜った架空の兄は、ここはいったいどこかと問う。
「とても簡単だよ。思うがままの形で暮らせるところ。天は広い空になる。窓の外は海にも広野にも。遠い時空を超えることも、ここでならとても簡単だよ。虫(バグ)や病原体(ウイルス)でなければ、誰だって歓迎するよ」
「あなたがたは私を、よりシンプルに変換できるかい?」
「勿論。とても簡単なことだよ」
 ミドリとモモは架空の兄を8ビットのゲートへ送り出した。
 かくうのあに は ぱちぱち と まばたき を して はしりだす!


 架空の兄と少年兵たち

 戦場は病んでいる、と少年兵は言う。戦場に生身の者は立たない。それどころか地上には誰も居ない。
「ところがぼく達は健やかで病むこともなく、だからほったらかしだ」
 少年兵の頭が半分吹き飛んでも動き、意識を失わないのは、かれの本質が脳には存在しないからだ。
「命令。醜悪なものを一掃しろと。ぼくらの軍歌は旧時代のロックンロールと呼ばれたもので、聴くほどに感情野をマグマが駆け巡る。怒りの火で敵を焼き、ぼくら自身も、最後はマグマに呑まれるようだ」
 少年兵たちが敵方の火力兵器に焼かれていく。
「それが、炎に"救い”を感じる所以らしい」
 焼け残った少年兵の首輪は戦車から伸びたアームに引っ掛けられ回収される。集積する記憶は首輪に内蔵された基盤のなか。機体は代替可能な容れ物にすぎない。
「英雄が必要だった。でも、どんなに昔のことだったか、誰が最初に望んだのかもうわからない。わかるのは、今もってここに英雄など存在しない、居たとしても、ぼくらを残していってしまうということだ。あなたは英雄だろうか。過去から来たひとだから、イニシエと呼んでいた。記憶に在る。ぼくのじゃない。敬意を表するべきなんだろうか。憎むべき? 連鎖。増幅。感情。ぼくじゃないぼくの。どうするべきなんだろうか。わからないから、ぼくはぼくなのか……ぼくが、何を為す必要もないのなら……」
 首から下が配線ひとつで繋がった少年兵の、信号が途切れる間際、最後の独白を聴く。架空の兄は重たい軍服姿で、劫火を見つめ、呟く。私にも私の感情が分からない。だが、私の炎は受け継がれることはなく、消えたらそれで最後なのだろう、と。


 架空の兄と期待をしたひと

「何だこりゃ」
 何も無い。
「ここが地獄なら、オレはずいぶん期待をしすぎたんだな」
「そうとも。ここは地獄だよ」
「誰だ。あんたも地獄に堕とされたのか」
「あなたの人生を観ていたものだ」
 何も無い。
「それで? オレは〈神さま〉に裁かれて、永遠に罰を受ける。そういう予定だ。なんで痛くも痒くもない」
「じきに苦しむことになる。あなたの欲するものが与えられることは永遠に無い。それがあなたの地獄だ。苦しみは無い。何せ、あなたが望むのは苦痛なのだから」
 何も無い。
「どういうことだ。あんた、死神か何かか。なら、オレの〈神さま〉に言ってくれ。こんなの違う。オレは痛くてつらい思いをするのが最高に良い。そのために何人も殺した。女やガキや弱いやつ。何でもやってやった! 地獄ならムショよりもっとすげえ責め苦が味わえると思った」
「だからだよ。ここには何も無い。さて、私はそろそろ失礼するけれど、最後に伝えたいことがある」
「言ってくれよ、違うって!」
「絶望してね。それだけだ」
 架空の兄は帽子を目深に被り、退屈なそこから辞去した。驚いた。架空の兄はいま確かに、安心してね、と言ったのだ。
「望まず息絶え、私を呼んだ〈弟妹たち〉よ。何も無い、あなたがたの安息のためにできることなど。つまらない。死んでしまったら、つまらない。どうしようもない。何も無い。ここは、最悪の場所だ」
 それきり、そこには何も無い。


 架空の兄と宵守りの窓辺

 ある世の夜がとてもしとやかに深く澄んでメルティなので、架空の兄は宵守りのもとへ行くことにした。かれらは、月明かりのようにまばゆく黄色いとんがり帽子をかぶっている。架空の兄が夜を讃辞すると、宵守りは礼を言い、語る。昔から夜が好きで、宵守りになるのが夢でした。恐ろしい夜も、不安でたまらない夜もありましょう。しかしどんな夜にも、私たち宵守りは、オートロープ(夜素混成奏楽器)を奏で、夜に息づくものたちと起こったことのすべてを記録し、夜を夜たらしめるのです。それも夜という時間が、この時刻に動き出すすべてのものが好きだからです。
 宵守りは、顔がようやく突き出せるくらいの小窓を開ける。たまにこの窓に気付いてくれるひとがいるのです。夜の流れのなかで私と目が合ったら、ぜひ手を振り返してください。すてきな夜の偶然の逢瀬以上に、胸が踊るできごとはないでしょう。架空の兄は肯く。良い夜をと挨拶を交わし、ミッドナイト・ブルーの敷布が広がる夜空を歩き出す。


 マインドセット・オブ・スティール

 かれらは悩む生物だ。不明のアイデンティファイ。度重なる不運な紛失。奔走する今日と明日は自我確立と存在証明のためのモラトリアム。架空の兄はその精神的疲弊を見守る。かれらは働き続けている。汚れた暗灰色の作業服で一日を乗り切る。かれらは疲れきっている。架空の兄はメモリを読み解く。メメントモリは読み解かない。さらに深遠な死生の舞踏になど、理解が及ばない。人生とは舞曲に喩えられるけれども、そこには音楽性など存在しなかった。
 夢の襞。内臓のようなトンネルを、架空の兄はゆく。赤く肉肉しい、突起に埋め尽くされた壁が、うねりながら微動する。奥へと向かうと誰かの啜り泣きが谺する。穴を塞いでいるものがある。声はその向こうから。現実性を消化できず濁った悪夢が、醜い塊となって詰まっていた。
 夢を脱して再び要塞を見下ろす。軍隊のような規律が敷かれ、生活は単調で、楽しみや安らぎは排除されていた。いつしか飢えと敵意に満ちた目が裏道に跋扈するようになった。それでもしばらくは何も起こらず、ただ労働者たちによって武器が製造され続けた。
 架空の兄は動乱に潜伏する。矢面には立てない、目がバツ印になってしまうから。火の海には飛び込めない、安らぎとはかくも儚いものだから。武器も持たずに、赤子を庇う親の手のように、小さきものを亡命させるために。それはいつの間にか周知のところとなったようで、サイレンが鳴り響き、光る目の追跡者たちが車両から身を乗り出し、拡声器で騒ぎ立てた。一斉照射。照らし出されたのは、黒いジャケットを羽織ったカカシだった。
 彼方、黒雲が立ち上る方角を見つめる。煮凝る夢を空へ溶かすため、桎梏の要塞を脱した架空の兄は、光る両手で、躊躇いがちな花弁を、あるいは分厚い本を、あるいは温かな饅頭を、ひらく。立ち上る安堵の幻質を、〈弟妹たち〉に贈ろうという。


 走破

 呼び声のごとに加速し、時空航路を踏み切る。架空の兄のパラレル・ハイジャンプはオフアクシス。軸ずれのトリックは失敗することも度々で、どの時場に着地するかは架空の兄にも予測がつかない。着地すらできないことも多い。捻挫した架空の兄がよたよたと進んだ先には、たとえば、ねそべりの国の低い城門。その国では誰もがねそべっている。架空の兄もねそべらざるを得ない。天上の寝心地の土壌から、誰も動き出そうとしない。
 上空、満開の花の水辺。蕾がすべて開き切ると、花々は萼を離れ、魂のように透き通った、更なる崇高な天へと上る。無数の花は祝いの空を埋め尽くす。すべて一瞬の間は架空の兄のものであり、もう二度と架空の兄のものにはならない。時空は越えられても、ひととの間には越えてはならない線がある。架空の兄は意図を読まない。架空の兄はたやすく人の心に土足で立ち入る。誰に頬を叩かれても文句は言えない。
 架空の兄は〈概念体〉。同類が存在する。〈兄姉たち〉は一様にブラック・スーツを身に纏い、夜空と静謐の恩寵を受け、風とともに時空を走る。無名の誇りを携えて。架空の兄は精神的に成長しない。悩み、迷い、屈折したことがない。かれらは、情動を蓄積することを〈人道に堕ちる〉と表現して、基本的には忌み嫌う。だが、ごくまれに異端者が出現する。架空の兄は己がそうなるなど思ってもいない。ただ無心のイノセンスに駆動を捧ぐ。走破こそが、歓びだ。
 雨を享受し、光を希求し、夜に沈み、紅潮した六弦奏者の耳元を通過し、流星を目撃し、つたない声で初めて誰かを呼ぶ赤子の瞳に宿る。情感の多彩な有り様は、勇気と、知恵と、畏れと、塵と、風となり、ついにはこの世をくまなく循環し、眩しく鳴り止まず駆け巡る。音階か色彩か。眩むような額の光。
 干渉壁にぶち当たり、架空の兄は散乱する。ガラス片様の幻想構成質が集結し、ふたたび架空の兄は目を開ける。めげずにコークスクリューで時空を航ってゆく架空の兄に、ねそべった者たちはぽかんと口を開け、まばらな拍手を送る。


 夢現の橋

 幻の冒険映画のエンドロールにぶら下がり、架空の兄は銀幕を通過する。最後まで観ていた執念深く夢見がちな良い子に向かって、帽子を持ち上げて挨拶する。
 音量最大の沈黙。注意深く流れる時間。架空の兄は、夜に夢と連れ立って、朝に夢を携えて帰ってくる。幼子は寝台で夢想する。架空の兄が再び現れる夜を。けれど、それは果たされなかった。
 架空の兄にも消沈する時はある。三本目のILLUSIONをけだるく吸いながら、霧深き夢現の橋の欄干に寄り掛かる。隣で頬杖をつく同類がぞんざいに架空の兄の肩を叩く。
「〈安心感〉。もう気にするな」
「あの子が憧れた、冒険映画の主役の姿で会いに行く約束だった」
「仕方ない。死んでしまったのだから。かれらの死期までは分からないのだから。我々は、かれらの耳元を掠める流行曲と同じだ。流れる間に感情を与え、過ぎ去るだけでいい」
 正論は空を切る。架空の兄は、ILLUSIONの箱を丁寧に折り畳んだ。かれは、どちらかといえば手より足が先に出る。
「おい。手落ちをしたからとて私に当たるんじゃない」
「すまない。〈信頼感〉よ。少しひとりにさせてくれ」
「それがいい。我々〈概念体〉にとって、かれらと共に永遠の虹の袂に立つのは、相応しい在り様ではないだろう」
 同類の怒気と哀愁がにじむ声には応えず、架空の兄はただ光のほうへ、朝焼けによって黄金に染まる方角へと歩き始める。


 聖バビルサの難解な指南

〈なぜそんなことになったか、理解できるか〉
 自らの眼窩を貫いた二対の牙をもつ聖獣バビルサが、架空の兄に語りかける。
 夜。無性にドラマチックな幻想を経て、架空の兄は静謐の野辺を彷徨っていた。青い湿原や岩場の影には幽体のシマウマや実体のないネズミやウサギが憩う。幽原の主たる純白の大鹿の角が、突然架空の兄の額を突いた。迸る体液は黒く輝く、幻質は月光に透かされ銀に煌めく。架空の兄は両手で額を押さえ込み、懺悔のごとく地に伏せる。
 架空の兄は消毒のため森の奥地で月光を浴び、濡れたような光沢の雨に佇む。光の飛沫はかれの顎先から滴り落ち、地面で弾ける瞬間、小さな火花となる。
〈尽きぬ願い、叶わぬ夢。今のおまえには、騒々しいものどもの声が山と染みついている。夢想は光を喰い、闇に肥えて、やがて訥々と己のゆく先を語り出す。まさに光を喰う光。おまえにも夢想はあるか。無意味から生まれた概念の子よ〉
「聖なるバビルサよ。私は眠らない。夢は見ない。この地に踏み入る資格もない。ただ、私は時念の成す気形であるあなたがたに拒絶されると、悲しい。悲しく感じることが滅多にないものだから、余計に制御が利かず、思い通りにならない自分自身がまた悲しい。いくばくもしないうちに、この感情も排情孔(オリフィス)によって排出されるだろう。記憶だけが残り感情が失われるのは、当たり前だと思っていたが、今では何か妙だと考えることもあるよ」
〈排情は幸いだ。おまえは幸いだ。捻じれた夢想を持たぬ者は、魂を病むことも、念に取り憑かれることもない。極端な思慕と拒絶とをぶつけられてなお、砕け散ることもない。幸いなのだ、おまえは……〉
 架空の兄は聖バビルサの前脚のもとに跪き、うっ、うっ、と嗚咽を漏らす。私には、こんな悲しい幸いなど理解できない、と。


 架空の兄とパラレル病のキリン

 架空の兄はサヴァンナを駆ける。痩せた草の間を、乾いた大地を踏みしめる。ひときわ背の高い、青いキリンが、瑠璃色の眼玉を潤ませていた。キリンの声は沈痛だった。このまま、青い影になってしまう。もうじきここに居られなくなる、もう既に背骨までも青くなってしまったのだ、と。架空の兄の帽子の上に、涙の粒が落ちてくる。涙は青かった。架空の兄はキリンの涙を帽子のなかに仕舞う。凍らせた涙を、今でも時折取り出して、磨いたり削ったりする。サファイア・ブルーの涙をイヤリングに仕立て上げ、耳の横で揺らしてみる。いつかキリンの耳と角が生えてきたら着けるのだ。


 聖者の国

 いわゆる聖性とは、魂の優れた調律と硬質を祝福する、真実の光の矢が、外界に向かって放出される性質である。これに反して邪性とは、自己を正当化ないし否定する欺瞞の槍が、あたかも外界から突きつけられたかのように演ぜられる性質である。架空の兄は、邪性を誘起することもある。それは悪魔の所業と酷似し、聖者の国では忌み嫌われる。架空の兄の魂はいまだ幼く、時に極端な振り子運動を生じながら、「天使」と称され「悪魔」と罵られ、長い年月を重ね、魂を魂と呼べる繋がりを求める。
 聖者たちは完全なる善意で架空の兄を排斥する。追放され、仕方なしに歩き出す。〈弟妹たち〉へのお土産に、路傍の飴屋に立ち寄って、邪なる意思で執拗に練り固められた奇形のキャンディを買う。振り返ると国は火に包まれている。焼け残るものだけが聖性を宿すという。人体ならば残るのは当然骨格であり、遠方から見てもその光景は酸鼻を極める。骸骨たちは満ち足りて言う、これこそ悪の蔓延ることのない楽園だと。


 伝承の丘

 とても長い名前の丘がある。架空の兄は、丘で横笛の澄んだ音色を聴く。山のような背中をした男の亡霊が奏でる。戦争で死んだ弟への弔いの譜なのだという。伝承は語り継がれて、それが丘の名の由来となった。架空の兄はいまだ鳴りやまぬ笛の音に目を閉じる。瞼を開いた時、夜空には満天の星が輝いていた。架空の兄は独りだ。星の数は無限に近く、それらすべてが、かれのために瞬いていたとしても独りだ。架空の兄は、亡霊が奏でた音色を真似て歌い上げた。架空の兄の瞳は澄んでいた。涙を浮かべそうなほどに。


 架空の兄と表裏のないコイン

 架空の兄はコインを弾く。回転し、舞い落ちたコインを手の甲で受け止める。覆い被せた手をゆっくりと退けた。表には、口ひげをたくわえた紳士の横顔が彫られている。紳士はワイングラスを掲げ、やあ、架空の兄よ、と挨拶する。裏は? めくっても、視ることができない。もう一度同じコインを弾き、受け止める。見ると、微笑みの淑女の横顔。先程の紳士は? 裏面は、またしても存在しないことになっている。淑女が横目で架空の兄を見つめている。
「そう。不思議に思うでしょう。架空の兄よ。わたしは、あなたの魂そのものなのです。あなたは表裏のないコイン。この姿は、かつてあなたの心に刻まれた無数の者のうちの誰か。でも、あなたの心が舞い閃けば、すぐに消えてしまうのです。それだけが、架空の兄よ、あなたの悲しみなのですわ」
 淑女がハンカチで顔を覆う。架空の兄が泣かないでと話しかけるほどに、コインの彫刻は歪み、混濁し、淑女は消えた。架空の兄はコインを胸ポケットに仕舞い、やがてこの世のどこかに存在するであろうかれらを探しにゆく。


 架空の兄と天体の農夫

 架空の兄は地に臥し、星の心音を感じる。木々は脈々と根と枝とを伸ばし、そよ風は深緑の色香を運ぶ。包まれるように、架空の兄の処女なる地上性は感応し、星が語る生命の歓びを聴く。黄金の稲穂を視た。赤いバンダナを首に巻いた天体の農夫が、逆さまの空中で微笑んでいる。泥だらけの繋ぎを着こなし、鍬にキスをする。
「この仕事を終えてひと眠りしたら、冬を迎え入れんとな。冬が過ぎたら次は春だ。時空の走者よ、わかるかね。この理路整然とした法則のすばらしさを」
 観せてあげよう。仰向けの架空の兄の眼前に豊穣の宇宙が展開し、惜しげもなくその全土に薫風を航らせた。かれはそこで知ることになる。自由な魂は風となって空を拓き、巻き立つ土煙になり、雲と湧き立ち雨に混じり、やがて現生の万物へと宿るのだと。


 架空の兄と妖精を待つ少年

 豪邸に住む少年は書架の本をすべて読み飽きた。彼は妖精を待ち望む。彼はロマンを待ち焦がれる。凍える夜のこと、背中に羽をもつ小人が夢に現れ、そして「言う通りのことを成し、天を信じてお待ちなさい」と彼の心にささやいた。少年は眼を覚まし、燭台を手に部屋を出た。白い息を吐き興奮しながら、真っ暗闇の回廊を臆することもなく進む。窓の外の闇に沈んだ庭園には、天使の像が佇む。ああ、ぼくは造り物など望んじゃいない。大広間を見下ろす廊下を横切り、父の書斎に忍び込む。そこにある古く分厚い幻想小説を、夢のお告げのままに取る。何度も開いたと思しき頁に、日付入りの古い写真が挟まれている。祖父の幼き日の姿。傍らに寄り添う黒い影が、少年の目にはなぜか視える。おお、架空の兄よ。少年は瞳をきらめかせ、高鳴る胸に本を抱く。そして唱える、ぼくのもとにもどうか訪ねてきてください、あなたの喜ぶ素敵なものをなんでも用意しますから、と。
 館の上空、星空に横たわる架空の兄は、黒いトレンチコートの襟を立て、黒革の手袋に包まれた手で降り始めた雪を受け止め、眼下に目を落とす。少年よ、呼び声は確かに聴いた。しかし、憂いなき花園で安眠に浸り、心豊かに生きるキミの"不安”とはいかなるものか。妖精は子供と戯れるために幻想の国からやってくる。しかし、〈概念体〉は必ずしもそうではない。


 架空の兄と命を織る民

 その平原に住む一族は、たとえば咲き乱れる花の色や、水に映る空の色をひとつひとつ確実に摘み取り、正確に再現することに長けていた。彼らは集めた色を糸にする。皆が織り機の扱いを覚え、衣類は、基本として自ら織ったものだけを纏う。
 少女がいた。彼女は「砂花の黄」の衣。少年がいた。彼は「朝露の緑」の衣を纏っていたが、獣に喰い千切られ、手のひらほどの大きさになってしまった。彼はそれを体に縫い付けている。ある時、胸を怪我した折に、傷口を覆うようにして縫い付けたのだ。彼は自分を無くさない。彼は自分を無くさないのだ。時が過ぎ、「砂花の黄」の指先が「朝露の緑」の胸にそっと触れた。
 誰ひとり同じ染色のものはない。彼らには名がない。衣の色で個々を識別する。架空の兄にも名はない。
 風が勢いを増し、いよいよ冷たい刃が突き刺さるほどの痛みを感じる季節がきた。衣が飛ばされないように。族長はそれだけを皆に繰り返し忠告する。ここでは存在証明が強風によって奪われる。
 弔いの日。「砂花の黄」を木の棒に結び、丘の上に立てる。はためく衣は、死者と同数だ。男の瞼は重たく腫れている。丘の上に彼女はいる。あの衣こそが、愛する者だ。彼らの命は風になびく。架空の兄は、寡夫に語る。彼女は、永遠にあの丘に立つのですね。男は頷く。二つの影が丘を去る。
 幻馬が走る。架空の兄が荒野を黙々と走らせている。前方を凝視する。動物の群れを遠くに視た。雨が降った。止むと気温が上がった。雲間を抜けて何かが飛んだ。架空の兄は、黙々と進む。間に合わなかった過去。避けられない未来に。架空の兄は死を辞さない。架空の兄は寂しさで死ぬ。虚無や皮肉や厭世に浸る暇もない。


 架空の兄と歌うたいの青年

 朝、屋根裏に住む青年は目を覚ます。リンゴの木の上で見知らぬ誰かに話しかけられる不思議な夢を見た。ギターを手に公園へいく。煉瓦の街中、澄んだ空気に錆びた音色が編み込まれる。出勤する人々がほんの少し足を止め、声をかけたり、キャラメルや小銭を投げたりする。
 架空の兄がやってくる。青年はちょうど一曲終えたところで、受け皿代わりの帽子に貯まった小銭を数えていた。青年には目の前の誰かの足元しか見えない。だから気付いた。この者には影がない。思わず見上げると、逆光の朝陽が眩しい。架空の兄の手には真っ赤なリンゴが握られている。架空の兄は青年から歌を教わるが、あまり上手とはいえない。青年は思わず笑う。架空の兄も笑う。一緒に歌い、リンゴを齧り、たわいもないことを語り合い過ごす。
 それから数十年が経つ。架空の兄は公園で、あの日と同じ歌をうたう。歌は少し上達したし、ギターも指を動かせる。今も良い音が鳴る。青年は歳を取り、夢を見ることがなくなり、友と語り合う夜も失くし、酒に溺れ病で死んだ。あっという間過ぎて、架空の兄は追いつけなかった。架空の兄は、朝陽にきらめいた青年の目を忘れない。架空の兄は走る。どこへいくのか、尋ねられても応えられないところへいく。早く行かなくては、また追いつけなくなる。


 架空の兄と絵画の画家

 死んで良かった。絵画の画家が言う。死ぬのはよい方法ではない、と架空の兄は絵画の画家に語りかける。絵画の画家は架空の兄を見詰めて言う。おまえのような生命力のかたまりは、芸術を長持ちさせる。私にはおまえが有り難いね。命の赤さを吸い込んで、なお変色せずいるおまえが。冷たげな絵画の表面を、ぐにゃりと歪ませて笑う。彼が描かれた時代にも、架空の兄はそこにいた。彼は、架空の兄をずっと視ていて、知っている。架空の兄は、絵画の男の正面で、崩れ落ちて泣く。絵画の画家は目を見開く。何を泣く、私は一点を見つめつつ拡がる視野だ。ひとの目を通して、絵画となった私自体でしか拓くことのできない世界があるのだ。悲しく思うことはない。私は絵になって良かったのだ、と。それでも架空の兄は思う、死ぬのはよい方法ではない、と。命を封じた絵画は優しく妖しく微笑んでいる。


 タイム・クレバス

 時空航路をひた走る架空の兄は、タイム・クレバスを踏み抜いた。感じた。衝撃波で、時盤が陥没したことを。時場が崩壊し、亞莫(アナ)へと速やかに吸収される。意識が眩み、何かにぶつかりながら落ちるのを感じる。まだまだ底にぶつからない。どこまでも落ちる。存在量(パラディグニティ)が剥ぎ落とされる。ある時象の上に向かって落ちているらしきことが分かる。架空の兄は大地の切れ目から吐き出され、ばらばらになる。ばらばらの架空の兄は再構成され、出来たての頭のなかで、これは大変なことだな、と思う。次の瞬間には、またしても腕が千切れていた。飛行するサメが食いちぎったのだ。千切れた架空の兄の腕が、「バイバイ」と言うように手を振っていた。
 氷の大地が見えた。視野が絞られ、一点が拡大される。パンにジャムを塗るペンギンの親子、平和でありきたりな朝食の風景。傍らではヒトが鎖で杭に繋がれ、小魚を与えられている。ヒトが生の魚を上手く食べられず、口元を真っ赤に染めて泣くのを、ペンギンの親子は微笑ましく眺める。
 時象の座標。平行を歩く者がXで、垂直を歩くもうひとりがYだ。かれらはひとつの身体を共有する。ふたりが離れて引き裂かれると、赤い線がきれいに描かれる。世界は繋がっている。線は波となり凝集する。赤い線は、虹の波形の一部であることを知らしめる。
 リトル・ブラザーズが架空の兄のスーツの内ポケットからとめどなく飛び出して、手を繋ぎ、巨大な一羽の鳥となり、かれを引っ張りあげようとする。架空の兄は意識を失っている。リトルたちの深層意識から〈弟妹たち〉の声がする。
「忘れないでください、あなたのなかにわたしたちが居ることを。チョコレートチップクッキーを焼くために、試験勉強のために、一匹の虫を仕留めるために、愛するベースボール・チームを応援するために、生涯の一瞬一瞬を重ねることだけに懸命だったわたし達を、そしてあなたを。忘れてしまったのですか?」
 同時にウサギが口を動かしている。現実とはいったいなんだ? ウサギは口を動かしている。私は現実じゃないのか? ウサギが叫ぶように言う。私は怒る! 何億もの鏡像に連なるウサギが同時に跳ねて、着地した瞬間、すべての情報体がフリーズする。世界がそそめき、次には完全に凝固して、架空の兄は寒く冷たく暗い、タイム・クレバスの奥底で死にのみ向かう。歪みきった重力の底から、巨大な手がかれを掴もうと伸びてくる。
 そこは、在るはずなのに無い。誰も見たことがない。
 たとえば架空の兄がここに居なくても、あなたは嘆かない。
 ないはずのないものが在るとどうしても思えない意思のために、在るはずのないものが絶対に在ると信じる者の強度は寄り添う。思念はメモリとなり、意志はノードとなり、駆動領域にプロトコルを形成して、次世界へと繋がる亞莫(アナ)が時空を吸いこむ。架空の兄は、再び意識の園で目を覚ます。
 架空の兄がより架空の度合いを高めても、現実が現実でなくても、それを問題にする者などどこにも居ない。
 光、人の喜びの在るところ──白い光に満たされた先に目を凝らせば、すべての声が、空間の未明へ遠ざかる。


 夕刻の国

 薄紅色の空だ。落ちているのは開ききったツツジの花弁と人影。影は色が薄く、輪郭も曖昧だ。こんな日に揺らいでしまう者がいる。この脆く崩れそうな花弁と同じ美しいひとときに、固く目を閉じていなければならない者は憐れだ。
 夕刻の国にいきたい、と娘は言う。蒼白い頬には鬱屈が塗りたくられている。枕元には読み込まれてくたびれた小説が数冊。娘は寝巻きの帯を緩くむすび、解けかけた三つ編みを肩にかける。膚に刃物を近付けたときのような、ビリビリとくる鋭敏な感傷の後ろ姿を、架空の兄は黙って見る。
 夕刻の国は寂しいかしら、と娘は外の景色を眺めている。蛙の鳴き声がする。あ、蛍、と嬉しそうに言う。あなたは、清らかな夜が好きではないか。架空の兄は尋ねる。いや嫌い、と即答する娘の背は、やはり架空の兄にとって近寄りがたい、自己憐憫に燃えている。
 夕刻の国などないと知っている、娘は鎖で繋がれた夜の囚人だ。夜明け前には架空の兄を見送る。川辺を歩く架空の兄は、朝陽をその身に受ける。娘はこれから眠りに就くのだろうか。就けるだろうか。造りものの夜のなかで望むのがぐらぐらと煮えたぎる夕刻の国ならば、この清浄な朝陽の世界を送り届けたとしても、娘にとっては喜ばしくない贈り物なのだろう。彼女が厭う夜の男達からの貢ぎ物のように。


 架空の兄と砂城の王

 そこでは、パンを求め弱弱しく伸ばされる手がいつでも無視される。路上で今にも朽ち果てそうな男が指差す、豪華な宮殿の天辺。あそこにいきたい。架空の兄は望みに応え、目を閉じる。
 眠るのが惜しいと、痩せた男は言う。丸窓から見える手の届きそうな月。痩せた男、砂の国の王は、架空の兄を丁重にもてなす。召使いを全員王室から追い出すと、とたんに眉を下げて、子どものように頼み事をする。音楽か物語、どちらか得意なほうを、と。どちらも得意だと架空の兄は笑う。
 いつわりの砂の城が、崩れ去っている。一夜の夢、冷たい路上で死んだ男の最期の夜に、架空の兄はとびきり幸せな物語を聴かせた。架空の兄は世界を正せない。代わりに束の間、命がこの世を流れ切る前に、その在りし意識をもっとも安らぎに満ちた夢のなかへ招く。


 架空の兄と重工都市の狂人

 重工都市から排出された汚染物質で、海は黒く染まる。海辺に男が立つ。正しく強いがゆえに卑劣。そう思われても仕方がない。男は言う。傲りが透けて見えるだろう。強き者が、弱き者の弱さを、弱いが故に当然と認識するのなら、それは傲慢というほかない。架空の兄は黙って砂に絵を書いている。支離滅裂な絵だ。男は急に絶叫する。妄想などという言葉で片付けないでくれ。今すぐ、あなたに分かるように話してみせるから。待って。見捨てないで。狂ってない、俺は狂ってなどいない、心の中で、そっと距離を置かないでくれ! 灰色の街、煙突が突き出た空、裸足で転げ回る青年の言葉を、架空の兄は回収する。海が汚染されれば、ひとも汚染される。回収しきった言葉を、架空の兄は瓶詰にして〈この世の摂理〉へ提出する。時空環境観察記録の資料として。


 架空の兄と千秒を飲む少女

 少女が時計の針を千本集めて飲む。全て秒針だ。秒針だからどうということもない。時間が彼女に味方することもない。痛い思いをしたからといって、時間はひとに優しくならない。秒針病は歪んだ信念の病だ。体内に入った秒針たちが、時計盤から外れたのをいいことに悪さを始める。秒針たちは好き勝手に時間を伸ばし、叩きのめし、置き換え、無かったことにする。少女の時空は狂う。架空の兄が呼び声に応えて少女のもとへ訪れた時、彼女はおよそ時間と空間の定常な道理で説明がつかない姿に変容していた。架空の兄は、少女を全ての時空から解放された場所へ連れてゆくしかなかった。架空の兄は言う、こんなところでは安らぐことなどできないだろう、すまない、と。少女は横隔膜を桃色に染め、約百万の微笑みを肩甲骨に広げる。いいの、これもいつか交わした会話だから、と。


 ある不快な死のなかで

 大雨だ。街に無数の黒い小さな穴が穿たれる。雨粒が全ての境界を融かすように降りしきる。架空の兄は街に大きな穴が空くのを待つ。ラブソングなんぞが聴きたければ平和な街へ行け。遠くで誰かが謗る。ふと架空の兄は歩き出し、両足の無い兵士の頬を両手で包む。兵士は架空の兄が微笑むのを見た。ぞっとするような真摯な瞳だ。そこで、足元に転がるものの存在を思い出した。
 銃が落ちている……拾わなければ。
 架空の兄の腹から幻質の血が流れる。その血がぐんぐんと引っ張られる。架空の兄の血を、ありとあらゆるものが狙う。架空の兄は傷口を押さえる。極彩の血が止まらない。一度死んだ方が楽だと思う。しかし、命を粗末にしてはいけない。
 赤色をなみなみと注がれて艶めく笑みを浮かべた絵画の画家が、架空の兄が血の池に沈む姿を見やる。絵画の画家はさらなる色彩を欲するが、架空の兄の蒼白の顔を見て我慢する。いつも通り、定められた視点でこの世を見つめることにする。臨死の花に埋もれた駆動不全の架空の兄は、絵画の画家が手配した棺のなかで、しばしの間、眠るように死ぬ。


 架空の兄と負の花

 賢者は杖を掲げて言う。ひとが最も笑顔である時、禍は起こる。ひとが決して他者を赦しがたい心もちである時、罪は犯されるのだ、と。絶壁の後方、白い砂漠に一輪だけ咲く小さな赤い〈負の花〉がある。架空の兄を呼んでいる。彼の訪れを待っている。赤い花は小声で尋ねる。賢者さま、果たしてわたしは災いであり、罪なのでしょうか。賢者は崖を飛び下りていた。やがて架空の兄が来て、花の真上に、桃色の象の如雨露でもって清らかな雨を降らせる。ごきげんよう、無垢なるあなた。心配しないで、私にとっての災いなどここには存在しない、と。


 存在のないテントウムシ

 駐車場に居る。とても暑い夏の日だ。足元に干からびかけたテントウムシがいる。ビーチサンダルと足の裏の間がじりじりと痛むほどに暑い。駐車場は妙に不穏だ。踵を返す。出入り口がない。出られない。駐車場には、車が一台も停まってない。狼狽する。このままでは、干からびた虫になってしまう。起こってしまったことは夢ではないので何とかしなければならない。そこで、目が覚める。暑いのは現実も同じだった。怖い夢だった、と架空の兄に言う。架空の兄は夢ではない、と言う。夢ではないのなら怖い、と架空の兄に言う。架空の兄は、私が居るから怖いことなんてない、と言う。
 架空の兄は実在するのに、否定ばかりする人がいる。架空の兄は、どんな話でも頷いて聞いてくれる。お礼がしたくて、ふと思いつき立ち上がる。おこづかいをつぎこみ、一台の姿見を用意した。苦労して立てかけ、鏡面に架空の兄の絵を描いた。もっともその姿は、こちらから見た架空の兄の姿であって、かれ本来の姿ではない。いつだったか、架空の兄は鏡に姿が映らないことが少しつまらない、と言っていた。架空の兄に頭を撫でられる。そしてどこかへ行こうとするかれに行先を尋ねた。
「キミの夢のなかのテントウムシを助けなくちゃ」
 架空の兄は微笑んで言う。またここへ戻ってくるまで、鏡の中の私と一緒に待っていて、と。


 テレフォンタイム

 オフィスの電話が鳴っている。誰も取りたがらない。仕方なさそうに立ち上がった者が電話機ごと両手で持ち上げて、床に思い切り叩き付けた。そしてそれ以外は粗暴なそぶりひとつみせず、再び静かに席に着く。架空の兄は繋がらない電話に溜息を吐く。気を取り直す。次。繋がらない。次、またも繋がらない。駄目だ。それでも最後にとかけた電話がやっと繋がったかと思えば、「かけてくんなっつってんだろ!」の怒声に吹き飛ばされてひっくり返る。架空の兄は荒廃した大地に花が咲くのを万年待つ忍耐力を誇るが、この時すでに心は折れていた。電話はかれら独自の接続デバイスだった。架空の兄は、やはり架空の兄のやりかたで接続を試みることにする。


 花柱の国

 花柱の国の家々は雪と氷で造られる。花を壁紙代わりに氷漬けにすることがエレガントだと定義されている。国を支える氷柱にも無数の花が綴じ込まれている。人々が柱を抱き、頬ずりをし、愛撫する。彼らは見えはしないものを見てはいないだろうかと架空の兄は思う。花柱の国は幻想の度合いを高め、ついに国へとつながる唯一の整備された通路が空間ごと消えた。
 花柱の国は山手にあり、雪融け水が麓の国々に流れる。その下流の地域の水が異様に甘い、と噂が立つ。彼らは水を汲んでいく。彼らは健康だが、村々から時おり失踪者が出る。
 架空の兄の目には魔的な月が浮かんで見える。低温症の南国少年は言う。架空の兄よ、どうか無粋な温情で僕たちの花柱を取り上げないで。僕たちはただ幸せを抱くだけ。あなたはただ責務に従って、僕たちを安堵させればいいだけ。


 架空の兄と形而上のピアニスト

 手のひらが架空の兄を乗せ、次元の海から掬い上げた。手の持ち主にしてみれば架空の兄は小さく、ささやかな存在だ。架空の兄は、咳き込みながらその手の主を見上げた。雲の向こうから、微笑みのような光の筋が射し込んでいる。
 美しい手はピアノを弾く。遠大なる一音を聴きとるごとに、それは風の音であり、海のさざなみの調べだと気が付く。なるほどこの世の旋律はあなたの手によるものであったか、と。ピアニストは否定する。否、わたしは表現者なのだ。風は風であり、海は海である。時たま、あなたがたが自然の音とわたしの音楽と聴き間違えてくれるのが嬉しいのだ。ピアニストは、傷ひとつない美しい指先から、架空の兄を大地へ下ろす。雲間へ消え去る手のひらに、架空の兄は小さな手をぶんぶんと大きく振った。


 眠前に開門する重工都市

 重工都市は鉄の母体。黒光りするボイラーや、排気孔からはこもった熱気が感じられる。血管のような配線が壁という壁を覆う。街の中央部にある研究所だけが、明るく清浄な光を放つ。
〈流れて光って動く文字が私たちの視界を奪う、私たちは形になった言葉のせいで言葉にできないものの見方を忘れてしまった。何しろ視界を奪われている。こんなにも目を奪われている。美しすぎて救えないものが私たちの魂を青く染める。言葉は要らない、今ここに言葉は要らないよ〉
 子守唄とともに門が開く。重苦しい音が響き、夢の鳥が舞い込む。深い霧に包まれて、非業の科学から生まれた複製の子らが薄い瞼を持ち上げた。両目から有害の黒煙を立ち上らせ、たどたどしい足取りで培養器から出てくる。架空の兄は瞳のない子らを抱き、囁く。大丈夫だよ。大丈夫だよ。大丈夫だ。キミ達はこれからきらめく星の夢を見る。孤独を愛し、夢を愛し、その力で微笑みの弧を描き、空を渡る鳥のように、自由でいてほしい。自由こそは人の持つべき、第一の瞳なのだから。


 橋細工

 橋を渡れない少女がいる。架空の兄も渡れない。あの橋は美しいから渡れない。渡るための橋ではないのだと言う。少女は、対岸に残してきたたったひとりの姉に会いたがっている。橋は白く、細く、砂糖細工のように脆い。よく見ると輝く石質であり、陽を受けるとほのかに発光する。月の出た晩の橋は、えもいわれぬ美しさだ。妹は言う。誰のためなの? 誰も渡れずに、誰のための橋なの?
 架空の兄が試しに橋を渡ろうとすると、村人が口々に止める。ありゃあ神様の通り道なのよ、と大工。祈祷して御神酒をかけりゃひとりだけ渡れるよ、とまた別の者。その村では神のために全ての建造物は作られる。人々は地下に住んでいる。死後、身体は白く輝く石に変化する。死者の石は地上へ崇め祀られ、後世の人の手によって橋の一部となる。
 架空の兄は、橋の上を飛んだ。月が真上で呆れていた。架空の兄は笑った。架空の兄は、人間と神の営みに踏み込まない。あまりに清く澄みきった夜空の青さだ。架空の兄はうれしくてじたばたする。青い風は幻想に力を得たものたちを運ぶ。翼のある魚や柱時計、人間の目をしたヤギが架空の兄の頭上をゆく。水や風のごとく橋を渡らずどこへでもゆこうと、架空の兄に囁く。


 架空の兄と心の森の黒犬

 心とは深い森であり、常にさまざまなものが迷い込んでいる。森は深い吐息のような冷気を吹き出し、背筋を凍らせる。蜘蛛の巣のように張り巡らされた白い糸が密生し、血管のように脈動する。心の森の住人は普段眠っている。起きているものは、泣いている。架空の兄は心の森の獣道を臆せず歩く。病気の黒犬は、架空の兄に懐いている。架空の兄は鼻水を拭いてやり、その病んだ心に刺さった針を優しく抜く。泉にはすこし世話焼きな精霊が宿っていて、黒犬が水を飲むために覗き込むと、いつも望む姿を映し出してやっていた。
 黒犬は俯いて語るのだ。
「今日はなんだかむし暑い。嫌な感じだ。あまつぶが熱い。なのに寒気もする。そこに居るの、ねえ、あなた。星なんか見えないから帰りなよ。心の森はあぶないだけだよ。飛びちる身体、拡がる意識、隙間だらけの心に吹く風だけが聞こえて……寂しいだけだよ。寂しくて死んじゃいそうだよ。ねえ、わたし、夜は好きだよ。わたしは歩いていくよ。みんながわたしを幽霊みたいにあつかうけど、知らん顔で、歩いていくよ。あなたは帰りなよ。カラスがつつきにくるよ。あなたは、わたしがカラスにいじめられるのは、わたしの心がきれいだからって言ったけど、心のきれいなひとって、どういうひと? 骨をいやしく舐めたりしないひと? 四つん這いで走らないひと? カラスはわたしをばかにするだけ。正解をしらなくても、賢いふりはダメ。おりこうは、分からないって素直に言えるの。だからわたしも、わからないって言うよ。ごめんね、本当に今日は、ぐあいが良くないの。頭がぐらぐらするから……来てくれて有難う。早く帰って。夜にはもっと寒くなるよ。ううん。わたしも、あんまり眠れないよ。でも大丈夫。凍えそうになるとね、目の前がきれいで、じぶんもきれいに思えるよ。儚い気持ちで、すぐにこわれるゆめ。泣くよ少しだけ。うわん。うわん。平気だよ、あなたのしるえっとを、真っ白なゆめのなかで追いかけているから」


 踵を鳴らせと声がする

 黒い鏡面のごとき湖に身を投げれば、そこは紅に染まった世界。架空の兄は踵を鳴らす。床下の金魚がさっと尾鰭を翻す。架空の兄は巨大な池の、細い橋を歩いている。落ちたら老獪な目をした緋魚に食べられてしまうかもしれない。無事に渡り切り、繁華街の裏手へと走る。架空の兄は澄み渡る軽快な音を鳴らし、月夜の道を彩る。踵を鳴らせと声がする。架空の兄は踊りだしたくなる。沢山の生の証、残飯、洗濯物、ごみの山、そういったものすべてが赤い光のなかで浮かび上がる。紅の世界は燃えている。ここに棲む者は、鬼と呼ばれる。だからここは地獄かと思えば、そうではない。華やかで、活気に満ちている。艶やかで、奥深く、熱気にあてられそうになる。全身黒い服装の架空の兄は、ただひとつの譲歩として赤い耳飾りを着けてみる。角を持つ小物屋の老いた鬼が、土産にと選んでくれたものだ。架空の兄は嬉しくなる。でも、角が生えてくる前に出立しなくてはならない。次なる鏡面で踵を鳴らせと声がする。


 架空の兄と華やぐ箱入りの道化

 架空の兄は華やいでいる。どちらかといえば寡黙なかれが、今だけは無邪気に笑い転げている。そのまま崖から落ちる。道化、びっくり箱から飛び出たピエロが一緒に落ちてきて、架空の兄のために手を打ち鳴らしている。着地、びよんと滑稽に跳ねる。凹んでしまった箱を抱えて架空の兄は歩き出した。時々箱を振って、音を聴いてみる。何も聞こえない。しんとしている。そして、それきりになってしまった。箱が開くことはなく、箱入りの道化は自分が何であったかも忘れた。華やぐ瞬間の泣きたい笑い。涙が頬を伝った感覚。それだけを克明に覚えている。


 ある日記

 ○月×日。カエルはたくさんいるから好きなだけ食ってよし。という生活管理者からの伝令を聴き終えると、私はメッセージを消去する。架空の兄は毎日カエルのからあげなんていやだと言う。私は、カエルはたくさんいるから好きなだけ食ってよし。と言い、肉の塊が盛られた大皿をかれに差し出す。
 ?月△日。ベッドから落ちて頭部を打ち付けた。その日一日動けないほどだ。治療室に行ったほうがいいかもしれない。しかし何も考えられない。視界が赤緑点滅している。ところで今日は、私の兄が来てくれる日ではなかったろうか。
 ×月?日。支給された観葉植物にくっついていた毛虫が、でっぷりとした体をうごめかせた。生きている。私の舌の上で。私はそっと口を閉じた。しかし、すぐに芋虫を葉っぱの上へと戻してやる。唾液まみれの毛虫が移動していく。私は刺された口の中を診てもらう。
 ?月?日。目を閉じると光の群れが明滅しているので、私は夢を見始めていることに気が付く。身体はベッドに深く沈み込み、ここちよい眠りだと意識できる。まだ脳は起きている。この日記は脳で書いている。このまま脳をイメージの深海に置き去りにするのだ。朝にはからっぽになるように。そうしたらもう、永遠の今日が訪れて、明日は来ない。からっぽの頭を管理する必要はないのだ。おはようもおやすみも要らない。架空の兄もどこかへ行ってしまうだろう。さよなら。私は頭のなかで、揚げたてのからあげを食べる。本当はカエルではないと知っていた。何の肉なのかは分からない。分からないものをすべてカエルと呼んでいた世界だったように思う。可愛い毛虫の肉だったら悲しかろう。悲しいことでも何でも知りたかったように、今では思う。


 レモン水が飲みたい、もう食べたくない

 病床の男はもう長くはもたないと宣告されていた。けれど呑気に練り飴を口にして、シャボン玉を吹かす。男は採尿したばかりの魔法瓶を揺らして言う。
 レモン水が飲みたい。レモン水が飲みたくないか。
 青空。架空の兄は静かに微笑んでいる。男が「もう食べたくない」と手放した缶を、架空の兄が拾い上げた。ドロップの缶だ。振るたびに違う音がする。架空の兄は缶を振り続け、耳を傾けている。窓の外に干した白いシャツが目に眩しい。シャツは洗って乾かしてを繰り返され、ふと見ると、男はもう居なかった。対象となる者が居なくなれば、架空の兄もそこから消える。


 架空の兄と有限な命の夜

 架空の兄は百年に一度、かれに宛てられた〈弟妹たち〉からの手紙を燃やす。百年経てば、手紙の送り主はたいてい死ぬ。それは彼らに対する弔いである。文字の山を飲んで燃えさかる炎は、架空の兄の心にも移り、その差出人の名を焼きつける。暫くの間、胸がひりひりと熱いことを、架空の兄は忘れない。
 百年という時間は、たいした長さではない。それゆえに決して軽んじるべき短さでもない。架空の兄は何かを言おうとした。しかし結局、力なくこうべを垂れる。目だけが雄弁に、燃えるような色合いを宿している。炎は羽のように広がり、虚空の高みを目指す。火は厳粛であり清らかである。この時、水は不純であり、嫌になるほど重たい。架空の兄は涙を流さないように、決して潤まないように、瞳のなかに炎を燃やす。


 墓上のそらに

 死者は命を終えた者。敬意を払うべきだと架空の兄は考える。
 地下、破れ鐘のような笑声。架空の兄は飛びあがった。かれを捕まえようと伸ばされた手。架空の兄は、死者の安らぎまで担わない。それは、かれの与り知らぬ領分だ。架空の兄は脱帽し、慎重に述べる。
「命の夜に留まる方々。安心を本質とする世の理は、この私に帰属します。自らを破滅させるような仄暗い安らぎさえも、私の一部です。ですが、誤解なさらないで。それがあなたがたの胸に宿った時、私はすでにあなたがたの元を去っていたことでしょう。あなたがたも、その時はもう、私を必要としなかったはずですね。私達が重なり合うことはないのです。ここで顔を合わせているのは、何だかおかしなことだとは思いませんか?」
 説得は功を奏さず、なおも地下へ引きずりこもうとする何かが、滞空するかれを追ってぞろぞろと這いだしていた。架空の兄は彼らがもうこれ以上追い縋ってはこられないことを知っている。架空の兄は〈弟妹たち〉が多用する、とある言葉に思い当たる。こわい。コワイ。怖い。架空の兄は、こわいなあ、と口にしてみる。 


 古の夜に憩う

 さあ、橙色のコーヒーを淹れよう。架空の兄が暖炉の炎から現れる。安楽椅子に座っていた老人に、カップを差し出す。架空の兄は、その者に自分の姿がどう見えるのか、尋ねることはない。対価を受け取らない。また、人生を与らない。老人はかつて英雄と呼ばれていた。今はもう命の夜が近い。
「時間について考えたことがなかった。幸か不幸か、何かが手遅れになるという事態に陥ることがなかったのだ。今、これほど恐ろしいのは、出会ったことのない、何か理解しがたいものがやってくるからだろう。夕食の匂いに乗って、鳥のさえずりに紛れて、北海の氷と共に、都市の賑わいを無視して……何だ、大きすぎて訪れたのに気付くこともできない……〈明日〉か? これが予感か。そしてあなたは予兆か。ああ、なんと懐かしい。戦場で途方に暮れる私に、"あなたは民衆に望まれている”と言ってくれた。民衆など見たこともない私は、そのたったひとつの言葉に奮い立てたのだ。最後の国民よ、私をイニシエと呼んだあなたに、名は無いのだったか。ひどい世界だと思ったものだ。あなたは残された、たったひとりの純正なヒトで、あなたを基に何体もの兵士が造られていた」
 架空の兄は、まだ恐ろしい気分か、と尋ねた。
「いいや、不思議と穏やかだ。過去に追いつかれたのだろう。それは未来を生きていた今までの私と重なって、初めて今の私となるのだ。ああ、そうだ。私は〈今〉を知らなかった。一足飛びに生き、いつも明日を知っていた気になっていた。もうじき真実の〈明日〉を知ることができるのだ。ずっと気に病んでいた。あなたがついに得られなかったものを、私などが手にして良いのだろうか、最後の国民よ」
 架空の兄は告げる。今はただ、あなたの心安らぐ夜を願っているだけだと。


 架空の兄と大小を統べる鷲

 主の居ない城を訪れる。架空の兄は、大きな物音がしたバルコニーに向かった。窓に打ち当たり、気を失ったらしい鷲が落下していた。架空の兄は鷲を抱き上げて、鷲の頭に出来たたんこぶを冷やした。
 振り子のように行き来する日々のさなか、架空の兄は小河に掛けられた小さな橋に座り、裾を捲って両足を水に浸けている。その村はとても長閑で、遠くには放し飼いにされた羊や古い水車、こじんまりとした時計台が見える。薄い水色の空を、鷲が飛んでくる。架空の兄のもとへ降下して肩に止まる。
「元気になったのかい」
〈再び会えるだなんて思ってもみなかったこと。あなたは何者?〉
「見ての通り、私は私だ。ある時は少女だ。またある時は農夫だ。軍人だ。科学者だ。囚人だ。会社員だ。奴隷だ。司祭だ。革命家だ。娼人だ。天使だ。画家だ。医者だ。学生だ。私に性別はなく、歳は取らない。聡く愚かなヒトの、姿の一瞬を借りている」
〈つまり、わたしからすれば同じヒトということね〉
 木の葉や塵、小さな虫や植物までも巻き上げて、高く天に運ぶような風が立つ。吹き上げられるものたちに陽が反射して、その風の柱は天の梯子のように輝く。〈我は大なり〉と唱え巨大化した鷲は、架空の兄を背に乗せ、高く高くを閃き、城壁を越えて無限の国を巡る。


 架空の兄とマガの月

 戸惑いと安心の中間を、架空の兄は漂う。巨大な真珠のような玉がいくつも浮かぶ。そのせいで、空は斑な水玉模様にみえる。足元は浅い水に浸されている。本物の月を見つけなくては元の所へ戻れない。複製された満月の国は清潔な景色をただ保つ。浅い水を蹴る音とともに、マガと呼ばれる者たちが、月を引きずりおろし斧でめった刺しにしていた。そのうち、ひとりが幻覚と睡魔に襲われながら架空の兄にも襲いかかる。架空の兄は攻撃を防ぎ、幻覚を打ち消す。破壊されかけた月が、その者たちを助けてはならぬ、と架空の兄に忠告する。マガは時流しの囚人、周期のない複製された月の国に綴じこめられた罪びとなのだと言う。架空の兄は満月の目をしたマガの額に口づけて挨拶をし、こう告げる。短くとも深くお休みなさい。夢も見ないで。スリープ・タイト。


 記憶は連続体です

〈しかしそうでないヒトも居ます〉
 更新。
〈私はそのヒトたちの記憶を星空と呼んでいます〉
 更新。
〈あなたもきっと、記憶が順序よく線で結ばれないのでしょう〉
 更新。
〈でも、そのことであなたが極論的にネガティブにならないことを望みます〉
 更新。
〈私が誰なのか。告白してもしなくても同じことです〉
 更新。
 ノイズ。ノイズ。
 気の遠くなるほど長い静寂。
〈ひとつだけ、お知らせがあります〉
 更新。
〈私は幸福です〉
 更新。
〈喜んでくれるとうれしいです〉
 更新。
〈あなたの幸せを願っています〉
 更新。
 【メッセージは最新の状態です】
 【メッセージは最新の状態です】
 【メッセージは最新の状態です】


 架空の兄の認知の旅

 転回。影を焼くほどの陽光が雲を貫き、祝いの空に果てなく延びる。架空の兄は格子(グリッド)と網(ウェブ)を認知する。この世は見えない線で規則正しく明確に区分されていると知る。過不足のない世界が熱を持っては冷め、濁っては透き通るを繰り返す。
 捻転。ある次元炉にスポットが繋がった。架空の兄は高調波の中で自分の鼓膜が破れる感覚を聴いた。姿を保てずに吐き出された先でどろどろと自らが流れ落ちる振動を感じた。地鳴りの正体は時盤溶解によって露出したマグマ質の虚無である。負の質量で歪められ生じた時空間の亀裂を前に、架空の兄は絶望の淵に立たされる。
 転換。私達、ずっと友達でいようね。夕景の畦道を歩く子ら二人と架空の兄は擦れ違った。後方から聴こえる会話は、架空の兄のオリフィスに目詰まりした感情腫瘍を刺激して、鈍く痛ませる。ああして確かめずにはいられない、不安で高く澄んだ声を、架空の兄も向けられたことがある。
 反転。列車が黒い谷を、百足が這うように進む。架空の兄は上空から列車の行方を見ていた。街はまだ見えない。革命の果ても見えない。架空の兄は瞬いて、夜の中心で、回り続ける天体と、頭上の花を見た。点滅は夜と昼の果てなき反復だ。星の叫び。喜びもなければ悲しみもない清浄な月面に、居るはずのない誰かの幻影を見る。


 架空の兄と廃情学者

 感情因子樹形図に鮮紅色の線を引き、廃情学者は窓の外が見えぬようにタイム・セロファンを打ち付けた。それでも侵入者は現れる。責務に従いやってきた架空の兄を見て、心に忌むべき感情連鎖が発生したので、彼は咄嗟に自害室に飛び込もうとした。レーザー線で輪切りになる直前、架空の兄は廃情学者を制した。廃情学者は不機嫌に言い連ねる。
「天賦。私には平等な概念。合図。私には不明な標識。図形を幾つも記した書物。円形。誤解された円形。円はただ、シンボリズムの月光を浴びて、歪みなく、円。満潮。安定。次なる欠落の前兆。一体おまえには何ができる」
「私は、三日月をハンモックにできる。満月の皿の上でスケートをすると、滑り落ちてしまいそうになる」
「ああ、まったく面白くない」
 世間とは指折り不幸を数えて正気を保つ狂乱の場であろうか。いつの世になっても、廃情学者は世界に打ち解けず、また架空の兄にも定住の地はない。似た者同士のふたりは夜毎に語り合う。不動の動者の指先は近い。
 廃情学者の見た風景。過干渉の入り江に立ち、北海の嵐の向こうに投げ出された彼自身を見つめる。不干渉の彼岸には溶け始めた氷塊。水温は日毎に上昇している、と子供さえ訳知り顔で口にして、弔いの歌によって葬列は進む。血の気を失った廃情学者が呆然と口を開く。
「非(ナル)。馬鹿げた錯覚に陥っているのだ。防衛と曲解が視野を妨げる。曰く、心は鏡。反射は複雑で、再び己の目に返る頃には、多分に歪む。一部は〈共感〉や〈理解〉とも呼ばれるそれを、私は根源に備わる〈創意〉と呼ぶ」
「あなたは愛情を知っている。一度でも感じたことがあるから、そう言えるのだろう」
「おまえも愛情を学び終えぬ身だというのなら、私が知ったつもりのそれとは、お稽古事のようなものか。この虚しさも削除しよう」
 架空の兄も、仕事に取り掛かる。架空の言語で詩をつくる。陽を浴びた計算式の色。月の花が伸びた先。時空の虫が白い歯を食べる時間。どこにも居てどこにも居ない友人。回転し飛翔する花の大群が、空を埋め尽くしながら、滞空時間を延ばし、次第に彼岸へと向かう光景。廃情学者に聴かせると、頭を抱えて悶絶し、やがて安らかな顔で架空の兄と語らいの夕べを過ごすようになる。
「安心など要らなかった。本当に必要なかった。今は、記憶のぬるま湯に浸かり、安心せずにはいられない……この馬鹿げた日々に、終わりはあるのか」
 馬鹿げた日々の終わりは淡々とやってきた。架空の兄は簡潔な置き手紙を残す。有難う。温かなスープを。またいつか。たとえ望まれなかった邂逅にも、架空の兄はそう言い残す。勤勉に責務を果たした先に、無感情の報復が待っていても構わないとばかりに。


 架空の兄と鞄売り

 深い森。カイの地で、架空の兄は鞄売りと会う。カイの民は、朝陽の直線が迎えに来て、月光の波紋に影の輪郭が揺らぐ頃まで、一心に狩りをする。星々が交互に見る、尽きし願いと叶わぬ思い。太陽の決意と月の潔白のもとに生きるカイの地では、鞄は売れない。彼らは立ち止まって持ち物を探ったり、未来のために用意することも、過去を振り返ることもないからだ。
「彼らの生活には迷いや不安がない。鞄はそれらを仕舞い込むための道具だ」
 鞄売りは馬車に積まれた鞄の山を見て言う。その昔、罪びとであるその身を悪魔に魅入られ、苦難の末にひとつの鞄に封印した。その後取り憑かれたように鞄を増やすうち、悪魔が眠る鞄がどれだか忘れてしまった。悪魔に魅入られた者は悪魔から離れられないというから、それはすべての鞄を売り切った時に分かるだろう。いずれ悪魔の鞄が唯一の持ち物となる日まで、鞄売りは目を逸らし続ける。
「生きるために鞄を売るのだね。カイの民の狩りのように」
「いいや。生きるよりも、死なないほうが重要だ」
 鞄売りは、罪の告白のように言う。
「鞄はひとが持ち運びうる最小の洞窟だ。空っぽでも重荷になることはあるし、荷物を詰めても軽々と持ち上げてしまう者も居る。それひとつしか持たないことが苦痛なら、鞄に埋もれて生きるのさ。人は後悔を語るに過ぎぬ塩。苦悩を紛らわし、酔いしれる酒場を探して歩く人生だ。あんたのその白くて硬い、見たこともない鞄には何が入っている」
 架空の兄は微笑んで答える。入っているのではなく、通じているんだよ。朝へ、夕へ、時の流れぬ空漠のその先へ。覗いてみるかい。鞄売りは理解できないとばかりに空っぽの鞄に頭を突っ込んで、ぶんぶんと首を振った。夜が明ける。ここでは両者の目的は見事に果たされない。すぐにもふたりは別々の道へと発つ。


 おそらくそこに誰かが居て私に話しかけたのだろう

 時空船は静かに進む。冷凍庫に架空の兄が詰められている。架空の兄を冷凍庫詰めにした人物は、ウサギの形のヘアピンに、ウサギのデザインのスリッパを愛用していた。
「過去は過去らしく、じっとしていてもらいたい。昔を思い出して心が揺らぐなど、廃情学派にあるまじきこと。今こそ消えてもらう。わが無心のイノセンスを、感情という病原に晒し穢した架空の兄よ」
 ある光景。架空の兄は転んだ少女を助け起こす。膝を擦りむいた少女は半べそで、いつまでも架空の兄の袖を離さない。架空の兄は、ウサギの絵が描かれた絆創膏を少女の傷口に貼りつけた。それは彼女のなかに残るセピア色の記憶。
「過去の感情活動なくして、現在のあなたは成立しえないのではないか」
「因果を書き換えればいい。〈この世の摂理〉に生み出されし原始の時代、無感情であった我々の本来の姿を取り戻す。廃情学の理想はそこにあるのだから。この憎悪も消えれば、私は自由だ」
 星の誕生と爆散が丸窓の外で繰り返される。少女が生まれ、喜びに生き、衰え、死を迎える光景が重なる。架空の兄は凍り付きそうな唇を必死に動かす。
「私の時間は星空のように点在するスポットの集合に過ぎない。流れる時間への乗り方を教えてくれたのはあなたたちだ。なのに、許された時間を惜しむ一方で、感情に興味を失い、死んだ星のように軌道を失くし、流れを止め、凝り固まろうとするのは、あなたがたの道理で言うところの悲劇ではないのか」
「そうだ。“悲しい”ことだ。だから、この世から忌わしき〈概念体〉、あなたたちを消し去るのだ」
 自動運転の時空船が無人の宙港へ到着する。宇宙は静まり返っている。氷結した次元の片隅で、架空の兄は降ってきたあたたかい涙によって解凍される。架空の兄はゆっくりと立ち上がる。
「あなたの師にも出会った。あなたがたは揃って愛憎を向けてくれた。だが、私は過去に留まらない。鳴り止まぬ駆動本能が、滾々と我が魂を航路へと駆り立てるから。変わりたくないと願いながらも変わってゆくあなたの心像に、数多の〈弟妹たち〉の姿を見る。時を経ても変わらないあなたの根底に、過去のない私から祝福を贈ろう」
 架空の兄の言葉に応える声はない。
 冷凍庫から脱出し、蒸気をくぐり抜けて展望台に立つと、窓際には中身の乾されたフラスコがある。立ち上る無縁臭から内容物が〈時白剤〉であったことが推測された。振り返れば不在。研究者は一片の存在量を残すこともなく消えていた。架空の兄は彼女に関するすべて、容姿や性格、成育歴から研究分野、子供の頃転んで泣いたこと、ウサギを好んでいたこと、先ほど交わした会話に至るまで忘れ去っている。それでもなお、両腕をゆっくりと広げる、もはや冷たき空漠へ向けて。


 架空の兄と心の森の晩餐会

 胸に旅人の花を一輪挿して、礼服を身に纏った架空の兄は、扉が描かれた分厚い絵本の表紙をノックした。森の奥、光あふれる慎ましき丸太小屋の主が、一冊の本のなかから出迎える。
 暖炉のある部屋。椅子はふたり分。テーブルに並んだ今夜のためのごちそうは、よく煮込まれたシチュー、木の実と干し葡萄のパイ、焼きたてのバゲット、蜂蜜で満たされた小瓶に、真っ赤なスパークリングワイン。青いざらめ水晶のランプは、香油が滴るたびにちかちかと夢見がちに瞬いている。絵本の住人たちは動くステンドグラスの表象を借り、平面の世界から飛び出してくる。眠ってしまった鳩時計の鳩の夢のなか、幻想の時計盤の秒針は空回りする。
「心の森が歌いだしたら、一緒に踊ってくださる?」
「あなたの物語を飾ることができるなら」
 エメラルドグリーンのドレスから伸びる老いた手を取り、架空の兄は跪く。かつて、病気の黒犬と呼ばれた現象はひとつの存在として生き抜き、追憶を締めくくる夜の舞台で微笑む。
「夢のような日々だったと、今なら胸を張って言えます。もし仮にすべてが夢だとしても、もう昔のように泣いたりなどしません」


 ムーンサイド・トリアゾラム・スタジオ

 ムーンサイド・トリアゾラム・スタジオの照明の下で繰り広げられる時空物理学者のトークショーに、誰もがじっと耳を傾けている。架空の兄も耳を傾けている。四本の腕をしきりに振り、二つの頭を傾げる進行役が興味津々といった態度で身を乗り出す。
「さて、架空の兄とは遍在する情報集合体であり、単一の意志存在ではないというご意見も、異星の視聴者の方から寄せられていますが」
「実存在と仮定するなら、生命個体というよりも、この世を司る大いなるシステムの一部ではないかという説がもっとも支持を得ています」
 架空の兄はスタジオの真下で手足をじたばたさせ、けらけら笑う。真面目な顔で議論をしているのが面白くて仕方がない。架空の兄の正体。あなたが想像する架空の兄こそが、架空の兄なのだ。あなたに語りかける、真実の。架空は架空として実在するのだから。タイムスケジュールに合わせ、早くトークショーを完結させたいばかりの司会者が、したり顔で二本目の右腕の人差し指を立てる。
「ともかく架空の兄は実在する、それは確かなことなんですね」
 そうとも、私はここに居る。架空の兄はステージの真ん中に立ち、宣言する。


 ウェルテル・ゴースト、顰蹙を買う

 その日、ウェルテル・ゴーストは虫の居所が悪かった。彼は劣等感の塊だった。自分を負け犬だと感じ、辺りかまわず放尿したり、他人の衣類に火を着けたりして鬱憤を晴らし、自分の価値を下げることばかりしていた。ちょうどその日は彼の嫌いな歌手の歌声が街中に響いていた。彼は露店を荒らして追手から逃げていた。廃ビルの階段を駆け上がりふと目を遣ると、彼の姉であり兄でもあるサファイア・ゴーストが大画面に映し出され、歌っていた。輪をかけて不愉快な気分になり、彼は大声で「サファイアのくそったれ」と叫んだ。大勢のサファイア・ファンが彼に向かって怒声を張り上げ、捕まえようと追いかけた。ウェルテル・ゴーストはビルの裏手の草地へ飛び下り、足を痛めつつも逃げた。半ば自棄を起こしながら、性懲りもなく路地裏に佇む黒いコートの男に追いはぎをしかけようとして……。
 いつの間にか、腕を刎ね飛ばされていた。彼は直感した。街で噂の殺人鬼だ。男は背後の空間から取り出した(としか思えない)巨大な鎌を振るった。
 殺人鬼はコートを脱ぎ、切り刻んだ肉の塊にふわりと被せると、流暢に詠いあげる。ようこそ、腐敗した血肉が再帰する真夜中へ。矍鑠たる新芽と無様なパラレルの園へ。門扉は魂まで穢れたるキミのために開かれる。
「奇跡の歌声の持ち主、サファイア・ゴーストの身内がこんなどうしようもない輩だと知ったら、あの子はさぞ悲しむだろう。そう、あの子もサファイアの熱心なファンでね、私は今日も、こんな騒がしいところに連れ出されたのだよ。憧れのひとが歌う姿を、大きなスクリーンで観たいってね。おかげで夕食の用意も出来ないままもう夕暮れだ。キミの肉はさして美味くもなさそうだが、料理人の腕次第といったところかな」
 再び黒衣を羽織ると、手品のごとく惨劇の痕跡は消え去っていた。血の一滴も残さずに。男は、連れあいと共に街の喧騒へ消える。
 殺人鬼とよく似た黒いコートを纏い、架空の兄は路地裏の出来事を見下ろしていた。喝采の方角には、大画面で歌手が天使の笑みを浮かべている。殺人鬼の無自覚なる時空犯罪。人肉を喰うだけではない。自らが手を掛けた者を摂取することで、その成育歴書類やデータ上の記録、存在の記憶までも喰う。まさしくその行いを、自らの食欲のためだけに繰り返している。架空の兄は干渉壁に阻まれて、手も足も出ない。スポット・ライトの照射先を在るべき時点に向け、気付くべき者たちが気付くことを願う。


 分解のためのテクノ・フィールド

 広野には一脚の椅子が在る。四方八方見渡してもただ緑の景色がひろがっている。几帳面そうな椅子だけが、ただ安置されているのだ。広野を縦断する旅人に座ってやすめというのだろうか。架空の兄は椅子を丁寧に横倒しする。キミだって疲れるだろう、と。
 その後、星空に罅が入った頃。横倒しされた椅子にもたれかかり本を読む少女の姿。椅子は起きたがらない。少女がいくら起こそうとしても持ち上がらないのだ。木で出来た椅子は少しずつ風化していく。少女が置き忘れていった本も風化していく。地べたに寝るものはみな分解される。
 分解のためのテクノ・フィールドに風が吹く。たとえばようやく土に還る一脚の椅子のように、この世の時象に絡まった命の困難が溶きほぐされていく。


 時象交差点

 〈私〉の記憶に在る光景とそれらは重なる。
 時の砂場に機体の半分ほどが埋まった、凹型幻質ラジオから発される抑揚のない音声。
「……流域における大規模な時流氾濫では、時層"化石”から"近河”テクノスケールにかけての一帯が時象の順序撹拌やロストといった甚大な被害を受け、影響は多世界に及んでいることが確認されています。また、TPT(タイム・セロファン)干渉壁の損壊によって耐幻質性防波次元堤は320地点で決壊、5018地点で機能不全状態にあるとのことです。〈この世の摂理〉は時空情報源流堰管理局へ、一帯の小オリフィス・大オリフィスの全封鎖命令を通達し、時態の早急な収束に向け声明を発表しました。《……緊急時態対策課、再構成時空実地検証デバイス、トゥア・ロー民族型"オルガ17”です。此度は、時空駆動体の皆さまに大変なご不便とご心配を……》
 なにか、大変なことが起きたらしい。
 耳を傾けるほど声が遠のく。違う。遠のいたのは場所だ。〈私〉が立つこの場所が、〈私〉を乗せたまま移動したのである。この身は愚かしくも棒立ちのままだ。意志による自発的な駆動ではない。〈私〉は実践的な存在ではなく、ただ時象の体験者であるだけだと理解した。閃く単語。どこかで聞いた覚えがある。マインド・モビリティという言葉を。
 また別の光景。
 長い影と短い影。手を繋いでいる。結び目がゆらゆらと揺れている。金属の軋む音。無人のまま揺れ続けるブランコに、地面を打つ縄跳び。小さな〈影〉たちが遊んでいる。頭上、優しく歌いかけるような、これは誰かの記憶であろうか、今度は夢見るような声が響き渡る。
《いい、曲がり角を曲がったらまっすぐ。とにかく真っ直ぐね、ステップさんのお家は水色の屋根。ママがブラックベリーのジャムをこさえたと言ってはだめよ。ブルーベリージャムと間違えて買ってしまったのとお言いなさい、あのひとはまったく筋金入りの差別主義者なんだから。毒入りのジャムなんてママは平気なのよ、あのひとたちが言うところの、ふん、貴意なきもの(アンドロイド)だもの。それにくらべてあのひとはどうかしら? パンに塗ってひとくち食べたら……ええ、何度も言ったじゃない、パパのことを気に病むなんて、あなたは心配性ね。ちょっとした眩暈や立ち眩みみたいなものよ。パパにとっての本当のことが、他のひとのとずれているってだけよ。よくあることだわ。そうよ、世界中の誰にでも起こるの。世界中の時計がまったく同じように時を刻んでいると思う? なかにはのんびり屋な時計もあるわ、時計が時計として機能していなくたって、それはそれで誰かが愛しているのじゃないかしら。もちろん、うちの柱時計みたいに翼が生えていたってかまわないのよ。皆それぞれ何かが欠けていて、でも助けがあれば生きていけるじゃない。パパにはママがついてる。それよりちゃんと曲がり角を曲がるのよ、直角に。遠心力でこの世を離れてはいけない……それに、シャープさんのお家のこともあるし。殺人鬼なんて居なくなってほしいわ。世の中は物騒なのよ。もうこどもじゃないから平気って? わかった、無事に帰ってきてくれればいいんだもの。くれぐれも、いいこと、曲がり角を曲がるのよ》
 薄紅の夕景がほのかな郷愁を誘う。故郷なんてものが〈私〉にあるのかは知らなかった。空を、何かが物凄い勢いで放物線を描き、横切っていった。そして彼方へ飛び去る。鳥ではない。鳥の糞のようなものが肩に落ちたと思ったらジャムだった。角を、曲がり切れなかったのだろうか。ハンカチでジャムを拭った。
 〈影〉は〈私〉とともに奇妙な公園に佇む。時の流れは夕景に固定され、いつまでも傾いた陽が落ちない。公園は円形で、周縁を花壇が彩る。花壇に沿って歩いてみるが、出入り口は見つからない。内外を隔てるのは背の低い花壇のみであるにもかかわらず、公園の外の世界を視ることはできない。
 どれほど探しても誰も居ない。幾何学模様を模した難解な立体遊具の向こうに誰かの影を見つけて追いかけても、子供の甲高い声が聞こえて見に行っても、彼らの姿は公園のどこにもないのだ。
 ひとつ、直感的に理解できることがある。ここはさまざまな出来事、時象の交差する地点なのだ。すべての事物の通過地点にすぎないのだ。何にも干渉されず、奇怪で、しかし安穏としている。こんなところに留まるのは間違っていると、〈私〉も〈影〉も強く感じていた。
 不意に〈影〉は、自分の実体が無いことに気付いてうろたえる。〈影〉は公園の中心にそびえる時計塔の影のなかへ飛び込み逃れて、震えていた。ふと、視界に変化が現れた。黒い鳥の群れが灼けた空を通過する。〈影〉は手を伸ばした。つれていって。ぼくもおうちに帰りたい。〈私〉も、無意識にそう呟いていた。自分はどこから、どうしてこの公園へやってきたのか、どうしても思い出せない。ああ、〈私〉にもない。影がないのだ。
 いざとなったらハンカチについたこの黒いジャムを舐めてみるのもいい。絶望とは、目先の甘い誘惑に膝を折るということだろう。鳥たちは過ぎ去り、やがて見えなくなった。〈影〉と〈私〉は希望を失い、寒々しい場所にしゃがみ込んだ。
 それでも鳥たちが連れて来てくれたものがある。夜だ。星空と柔和な空気が公園を包んだ。すると、どこからかやってきた硬質な靴音が、前方にそびえる遊具の鉄階段を打ち鳴らしていた。階段を登り切り、天に届きそうなほど高く細いすべり台のてっぺんに、そのひとは立つ。差し伸べられる手。羽毛で包むような風はそのひとから吹いているのではないかと思える。触れずとも感じるあたたかさを〈私〉は、〈影〉は知っている。ふたつは同時に手を伸ばし、虚と実とが至って自然に混ざり合うことに気付いた。すべり台を、何度も足を滑らせながら逆行して登る。そのひとの手が〈私〉の手を取り、引っぱり上げてくれた。
「すまない。今夜は月が出ていないな、と考えごとをしていたら、遅くなってしまった」
 囁きは鼓膜を悪戯っぽくくすぐるようだ。だからか妙に可笑しく感じられた。〈私〉は唐突に、己の足が立つその場所の名を思い出した。見上げると、星空がそのひとのコートの裏地から流れ出すように広がっていることに気が付く。〈私の影〉が心からの安堵の溜息をこぼす気配が伝わった。もう怯える必要はないのだ。〈私〉自身も深い安心のなかに居た。孤独な点であることを、星座も描けそうにない無秩序な記憶点の集合体であることを嘆かなくていい。
 〈私〉は暖かい闇のなかでまどろむ。
 すべてを思い出し、分かりきっていた。〈私〉はそこではもう〈私〉ではなく、星空の一部だった。


 無明の覚醒から深き眠りへ目覚めるための空白(ブランク)!

 ……

 無名のキミへ

 おかえり。
 泣いている? 私が。
 本当だ。泣けるだなんて知らなかった。いいや、知っていたのに。なぜ。思い出したことが多すぎて、何を忘れていたのかもわからないくらいだ。
 貸してくれるのかい。有難う。……キミ、このハンカチは一旦返すが、使わぬがいいよ。私には毒など意味がないけれど、キミが涙を拭いたり口許を拭ったりしたら、きっと倒れてしまう。
 どうしてこんなものを持っていたのかわからないって。
 そう。気にしなくていい。構わない、何が起こったのだとしても。重要なのは、キミが最後まで私の話を聞いてくれたということだ。
 私はぜんぶ、ぜんぶ忘れていた。恐怖心ゆえに。
 忘れたことを思い出そうとする自覚と儀式は、覚えていることを思い出す以上に勇気が要ることだったから。知らないことを知らないままでいる選択肢が存在するように、忘れたまま逃げることも出来たから。さっきまでの私が逃げ道を選んでしまうことが、私の恐怖だった。私が知っていたことなんて、ほんのわずかなことだけだった。語っているうちに闇から引き戻されてきた光景のすべては、まちがいなく私と〈弟妹たち〉の記憶だ。

 震えているのはなぜ。おびえているのか、それとも、ここへ来る途中で誰かにこう呼ばれたからかい……〈異物〉と。安心してほしい。何者も、キミを排除しようとはしない。世界はキミを、心から歓迎している。私たちは、共に世界を学ぶ者なのだから。
 さて、小さな点灯夫の仕事は、これでおしまいだ。
 今夜、灯台の明りを頼りに見つけた、〈弟妹たち〉の安らかな眠りは覚ますまい。ただ、夜風は冷える。船から下ろして、暖かいベッドにそっと運んであげよう。岬を下れば、彼らのために無限のベッドが並んでいるから。再会の言葉など、伝える必要はないよ。彼らは私の〈記憶〉だ。〈記憶〉は、いつかまた思い起こされる日が来るまで深く眠るものだ。
 〈真珠の子〉よ。私は惑っている。〈弟妹たち〉を照らすと言いながら、灯台の光を求めて暗闇をさまよっていたのは私のほうだったようだ。突然開けた道の先を見て、躊躇している。私は私の〈記憶〉をここに眠らせ、もう会いに来ることもせず、ただひとりの者に真の友情を誓うことはできるだろうか。
 天秤。そんなものを使う日がこようとは……。
 ずっと、手許が暗かった。想起、回想、追憶。私は自ら機会を失くしてしまった。キミの両目が光だった。追憶の間、じっと見つめる視界を通して、私はひとつ、またひとつと愛しい〈弟妹たち〉と、自らの記憶とともに、思索の舟を漕ぎ、岸辺に辿り着くことができたよ。
 私自身が抜いてしまった記憶の〈栓〉をしてくれた。
 有難う。虚無へ流れてゆきそうだった記憶を救ってくれて。
 有難う。無限の分岐から成る記憶の旅に付き合ってくれて。
 私は戻って、やらなくてはならないことがある。キミも元居たところに、胎象界へと戻るといい。海岸に沿って歩いてゆきなさい。きっと戻れる。キミのふるさとは、いったいどんなあたたかなところなのだろうね。
 ……ゆかないのかい。
 どうして、ここで私を待つなんて言う。確かにここは、静かで平和で、安全だ。もう長いこと灯台守は居ない。誰かと居合わせたこともない。私が立ち去れば、すべてを眠らせたままのこの場所で、キミはただひとり、時折来る大きな鳥の影を追い、遠く響く夜の怪物の唸りに目を凝らし、そして、深い深い時象の霧のなかで眠ることになる。
 ……「孤独じゃない」? キミは未だ生まれぬその身をもって、過去に似過ぎたことを言うのだね。

 空が白んできた。ミルク色の朝の空気が星を海の向こうへ流し落としている。
 本当に、ここに残るのかい。
 そうか。それならば、私に光を灯す〈真珠の子〉。清き魂よ。たとえ誰かがキミをバロックと称しても、私のなかで唯一きらめく、いとおしき友人よ。
 もうキミのことを忘れはしない。たとえキミが架空の存在だとしても。怒りも寂しさも不安も虚しさも忘れて、今はただ、安心しておやすみ。
 目覚めたキミが新しき陽を見る日に、かならず迎えにくるよ。また出逢えるときを楽しみにしている。

 ようこそ、この世へ。本当によく来てくれたね。


〈了〉

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