熱狂とは、静かなものかもしれない
台風の目が晴れて風が凪いでいるように。
「熱狂」も、言葉の暑苦しさと裏腹に静かなものなのかもしれない。
そう思ったのは、このツイートからのやりとりがあったから。
熱狂って、静かなの?
熱狂。
私は確かに、カンボジア屋台に熱狂しているのかもしれない。
しかし、案外ピンと来ない。
自分の熱狂を1番感じたのは、屋台を引き継ぐことを決意したその瞬間だった。
それくらい、あの瞬間のワクワクとした高揚は凄まじかった。
今は、あの瞬間の高揚を胸に日々を過ごしている。
日々にはワクワクもあるけれど、もう少し地に足の付いた冷静さが必要になる。
あの時ワクワクしていた自分に、恥ずかしくない働きをするため。
今、私は日々を過ごしている。
それはある種、「淡々と」という表現が相応しいと思っている。
どんなことが起こったとしても、「でも、やるだけだ」と思い直して淡々とやっていく。
それを誰かが「熱狂」と呼んでくれて、私の行動は「熱狂」になったのだ。
熱狂は1人では見つけられない
初めの頃、私にとってカンボジアは「非現実的な圧倒的現実」だった。
そこで起こる一つ一つは全部漫画みたいな出来事で、初めてのことばかり。
自覚はなかったけれど、確かに私は沢山の初めてに翻弄されて、熱狂していたように思う。
でも、今では「これが私の生きる現実だ」と思えるまでになった。
良い意味で、カンボジアという現実を受け入れて順応できた。
熱狂は長続きしない
熱狂状態というのは、長続きしない。
例えば子どもに大好きなオモチャをあげたとしても、24時間365日ずっとそのオモチャで遊べるかといえば違うはず。
遊び続けたオモチャは、大体こんな感じになる。
・大切な宝物に昇格する
・飽きて忘れられる
・たまに思い出して懐かしがられる
この中で、「大切な宝物」には熱狂のカケラが残っている。
1番に熱狂していた時の記憶がいつでも再生できて、「やっぱり私はこれが好きなんだ」という風に、もう一度その気持ちを味わえる。
その時の気持ちは、「最高潮の熱狂」ではないかもしれない。
でも、「最高潮に熱狂していた自分」を冷静に見ながら大切に進んでいく様は、側から見ると「熱狂」と変わらないのだと思う。
ご静聴、ありがとうございました。
追伸
現在時間的に追い込まれている状況なので、これからの日々はショートショートでお送りする予定です。
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