余白は作ろうと思っても作れない_2019/03/29
私が自分に常々思うのは、「余白」を作るのが苦手だということ。
1から10まででもなく、0から10まで、
全部1人でやろうとしてしまう傾向がある。
それは、私が生まれ育った環境や、そのために作り上げられた性質によるものが大きい。
私はずっとそうやって生きてきたし、
それでそれなりに良く生きてこられたから、
「内製主義」な私のことは別に嫌いじゃない。
でも、とある箕輪さんの話を聞いてハッとしたことがある。
「余白のない人は、余白を埋めたい人の仕事を奪っている」
最初に聞いたときは、「どうして?」と思った。
思ってもみないことを、唐突に言われた気分だった。
だけど、自分に当てはめて考えると、
私は自分でも驚くくらいに「誰かの余白を埋めたい人」だった。
例えば。
誰かの必要書類を整理したり。
スケジュール管理を代わりにやったり。
説明の抜け漏れをみつけて補足したり。
もっとみんなで効率よく出来る方法を考えたり。
なんだ、私も人の余白埋めてるじゃんか。
そして、もう一つ気付いたことがある。
それは、私自身、人の余白を埋めるのが好きだからこそ、
余白の見当たらない人にどう接すればいいのか、
わからないと思うときがあること。
これは、このまま鏡のように自分に跳ね返ってくる言葉。
みんながみんなそうでは無いかもしれないけれど、
私の場合は「余白が無い振り」をしているだけで、本当は「余白だらけ」なのだ。
ああ、この人も頑張ってしまっているのかもしれない。
少なからず、私はそうやって自分を投影して、少しだけ息詰まる気持ちを感じる。
出来ることなら、私は誰かに助けてもらいたいし、
そんな誰かの話相手になりたいのだ。
**でも、助けてってどうやって伝えればいいの?
**
一人では抱えきれない仕事量に舞い込む人たち
昨日、私は余白体験をした。
これまで生きてきた人生で、**初めてそれを体感できた瞬間だった。 **
私は今週1週間、有難いことに毎日屋台が忙しい。
どのくらい忙しいかと言うと、今まで七輪でお肉を焼いていたけど、
それでは足りなくなってバーベキューセットを買うくらい。
迷わずバーベキューセットを買えるくらい。
そして、バーベキューセットをもってしても、まだオペレーションパワーが足りないくらい。
結構忙しい。
昨日も最大で5組くらいのお客さんに囲まれた。
(カンボジアのお客さんは、並ばない。お店をぐるっと囲む。私的には圧がすごい。)
焦る気持ちを抑えて、努めて冷静にお肉を焼く。
それでも、誰に何個か、誰が先か、誰が既にお金を払ってくれたのか、パンクしそうになる。
お客さん達は、多分それも理解していて、根気よく私に伝えてくれるから、またそれも嬉しいのだけれど。
とはいえ余裕がなさ過ぎて、場を楽しむより、捌くという感覚に近くなり始めたそのとき。
「みか!ハロー!」
私がいつも包材やガスを買うお店の前で、屋台をやっている家の娘のディナさんが来てくれた。
最近毎日のように遊びに来てくれる、日本語の上手なお姉さん。
こうやってお店をハブに繋がってくれる人が居る。
遊びに来てくれるだけで、いつも私はとても嬉しい。
そんな彼女は、私の様子をみてすぐに忙しいことを察してくれて、
自分の家の手伝いをそっちのけで、私のお店を手伝ってくれた。
お釣りがいくらか計算してくれたり両替してくれたり、
誰が何個、あの人は山椒濃いめが良いとか。
お渡し袋にサーブするのもお手の物で、
彼女が生粋のカンボジア屋台ガールなことを痛感する。
ディナ「お客さんに、このお店を手伝ってるの?って言われたよ」
私「手伝ってくれてるよ!超助かってる!」
ディナ「私は、「いいえ」って答えました」
そう。彼女は私の屋台を手伝っているとは思ってない。
たぶん、それが楽しいと思ってやってくれてる。
私は、ディナのこの感じを初めて味わった。
だから正直なところ、まだ言語化出来てないのが悔しい。
この日は結局、私たちの間にお金のやりとりはなく、
お互いができることを分け合った。
ディナはオペレーションやクメール語を。
私は鶏肉をあげて、ディナの家でご飯を買った。
余白は作り出すものではなかった
私は長年、余白は自ら意思をもって作り出すものだと思っていた。
でも、この経験から、作ろうとして作る余白よりも、
今の自分には限界だと思うことをやっているうちに、勝手に余白が生まれて補足してもらえるようになることもあると気付いた。
このことについてはもっと詳しく話したいのだけれど、それはまたもっと理解が進んだときにお話していければなと思います。
ご清聴、ありがとうございました。
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