第262話:脱身体の欲望
授業で黒崎正男氏の評論を読んでいる。ざっとこんな内容である。
身体は現代にとって大切なテーマであるゆえに高校の国語の授業においても大事なテーマとなっている。それは哲学者が身体について書く評論が教科書や入試問題に採り上げられるからだが、一方で、彼ら彼女らがこれから直面するAIの時代は、また別の意味で「身体」について考えてみなければならない時代でもある。
例えば授業は、「腹を割って話す」「恋に身をこがす」など日本語の身体と結びついた表現から初めて、評論の流れに沿って、デカルトの方法的懐疑、心身(物心)二元論を考え、クローンや遺伝子操作などの生命倫理の問題が持つ意味に触れ、メタバース、アバターなど現代の仮想空間と現実空間のあり方を考えていく。
その最後にこんなことを言ってみた。
「人間にあってAIにないもの、AIが絶対持てないものは何だと思う?」と聞くと、
「心だよな。感情か?」という答えが返ってくる。
「心・感情はどこに由来するの?」と聞くと、
「なるほど、身体か」と言う。
「そう、そうするとAIと人間の決定的な違いは、身体の有無であって、身体だけが人間とAIを差別化し得るキーワードになるんだと思う」と言ってみる。
「これからのAI時代、人間にとって身体は最後の特権だ」と。
でも、ちょっとカマをかけてみる。
「身体は人間にとってなくてはならないもので、その大切さに目を向けなければいけないが、でも、君たちは身体が邪魔だと思ったことはないか?」と。
「そんなことは考えたこともない」と言う。
「じゃあ、聞き方を変えるけど、『この今の自分の身体が、この身体でなかったらいいのに』と思ったことはない? 僕はもう10センチ背が高かったらとか、この顔を木村拓哉と取り替えたいって時々思ったりする」と言うと、
「そんなことならいっぱいある」と言って、「もっと運動神経が良かったらモテたのに」とか「女って面倒」とか、「猫でも良かった」とか盛り上がっている。
話をスライドさせる。
「前に報道番組でロボットカフェが採り上げられていて、その名の通りロボットが接客するカフェなんだけど、そのロボットは重い障がいを持つ人が遠隔操作でロボットを操作することで働いているカフェだった。
中には筋ジストロフィーで目だけしか動かせない人が、視線の動きだけでベットに据えられたパネルからロボットをコントロールして働いていたりもする。そういう人たちにとって、それは生きがいをもたらしてくれる。とても素晴らしいことだよね?」
と半ば強制的に同意を求めると、
「うん」と言うしかない。
「それで気になってHPを見たんだが、そこにその代表の人が『身体は人間にとって最後の障害だ』と書いてあって、考えさせられた。確かにそうだよね。『この身体さえなければ』って思うんだと思う」
意外と真剣に聴いている。
「さっき、AI時代、人間にとって身体は最後の特権だと言ったけれど、身体は人間にとって特権なの?障害なの?」と問うと、
わさわさ、ぐちゃぐちゃ、ごもごも相談しているが、当然ながら、明確な答えは出てこない。もちろん、答えはない。ケースによっても違う。(実は、この内容は前に記事で書いたことを生徒に話したものである。
そんな話をしながら、今回こんなことを思いついて、なんとなくつぶやいてみた。
ひょっとしたらジェンダーフリーの問題も「脱身体」への志向ではないか?
さらに考えてみた。
障害者差別、人種差別など、そうした差別解消の根幹に置くべき発想は、詰まるところ「脱身体」ということなのかもしれない。
ということは逆に言えば、差別は「身体」があるゆえに生まれてくるものなのかもしれない。
平等という理念が実現するとしたら、それは人間が身体を捨てる(身体から解放される)ことなのかもしれない。
僕らが目指しているのは「脱身体」なのか、いや、何かそれは違う気もする。違うとしたら何が違うのだろう?
人間にとって「身体」とは何なのだろう?
そんなことをつぶやいていて、ふと前を見ると、生徒が「ジジイ、大丈夫か?」という顔で見ていた。
■土竜のひとりごと:第262話
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