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第35話:壁

人間というやつは不思議なもので、海に向かって浜辺に立つと必ず石を手に取って海に投げ込もうとする。どういう習性に基づいた行為なのか知らないが、それは毎日誰かの手によってなされているに違いない。
人類が発生してからかなり長い年月が経った訳だが、こんなに石を投げ込まれて、それでも埋まってしまわない海ってやつも、こう考えると感動に値する何かなのかもしれない。
ご多分に漏れず僕も大概は石を投げ込む。無論、理由はわからない。ただそうしてしまうだけである。最近“真似っ子”の3歳の息子も僕の隣で石を投げる。ただ彼の場合、その投石距離は2メートルに満たず大概は海に届かないわけだが、謎に満ちた人間として遺伝子は引き継がれているようである。

話は変わるが、人間というやつはこれがまた不思議なもので、「壁」を見付けるとそこに落書きをしたくなるものらしい。政治的な批判文句から女の子の名前にいたるまで、なかなかに見る目を楽しませてくれる。バンクシー然りである。
しかし、中にはこういう公式の場では御紹介しかねる類いのものもあって、公衆トイレなんぞに入ると国家の将来を憂慮してしまいたくなる類のものもある。

無体な高校生の中には、この「壁」にケリだのパンチだのを入れて破壊を企てる不届きな輩もいる。そう、「壁」を見ると、人は越えたくなったり、壊してみたくなったりする。これも謎に満ちた人間の継承する遺伝子のなせる技かもしれない。

壁というものは本来空間を仕切るためにあるものであり、「閉ざし・阻む」性質がある。それは勿論「壁」自身が意志したことではないのだが、ウックツした気持ちのはけ口として、日常的に閉塞の状態をつくっている壁に人間が向かわざるを得ないのは自然の摂理なのかもしれない。

不幸なことにまた壁はその性質として大変視野に入り易い位置に立っていて、とにかく目に付く。ヤツアタリの矛先を向ける対象としては恰好のものと言わざるを得ない。


しかし、考えてみなければいけないのは、そうした「壁」は「作られたもの」であるということである。
無論、自然が作り出した壁もあるが、普通に僕らが意識する「壁」は作られなければ存在しない。無論、個人の「所有」を主張する「壁」もあるが、もう少し大きな「壁」を考える必要がある。

その「壁」を作るのは「権力」である。

授業で生徒に「恣意的」という言葉を説明するとき。辞書には「勝手」と出ているが、そう説明すると語弊があるので、「国境は恣意的な線だ」というニュアンスで覚えるといいと説明する。「国境は人間によって勝手に引かれた境界だ」と。

「境界」はいつでも「権力」によって「恣意的に」作られる。

1989年(平成元)11月、ベルリンの壁が壊されたが、アメリカでイスラエルで、ペルーでモロッコで、世界各地に今も大きな「壁」は存在し、あるいは今も作られ続けている。
(businessinsiderの記事をお借りして次にリンクを貼ったので、よろしければご覧いただければと思います。)


「壁」は物理的な境界だけに限らない。権力や支配が作り出す社会・経済システムや、それに付随する偏見という「壁」が、階級を、貴賤を、貧富を、性差をも作り出す。
そして自分の既得のテリトリーを守るために「壁」を強固なものにしようとする。

「壁」は「分断」の発想である。


してみれば、冒頭に書いたような高校生が「壁」に落書きし、蹴りを入れて壊そうとする行為も、「人間に継承された抵抗の遺伝子」として肯定する必要があるのかもしれないと思ってみたりするのだが、いかがであろうか。

(土竜のひとりごと:第35話)



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