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多様性について考えてみたこと②


ただ、僕は、そうした考え方の広まりや営みを画期的な革新と思いながら、一方で、この「多様性」という言葉に「ひっかかり」を感じてもいる。

それは、簡潔に言えば「多様性」という言葉が聖域化して、犯してはならない禁忌のようなスローガンになりつつあるように感じられることへの生理的な抵抗感かもしれない。


具体的に言えば、ひとつには、多様性ということがどこまで広がり得るのかということへの疑問である。

例えば卑近な例で言えば、学校という現場では不登校(かつては登校拒否と言ったが)という現象が増えている。保健室登校という「在り方」も出現した。教室に入れない生徒が保健室で一日を過ごす。同じように、教室でテストが受けられない生徒のためには別室が設けられ、別室受験という形も登場した。

学校に不適応な生徒が増えた。多様な生徒のニーズに対応していくのは正しい。しかし、不登校という名が与えられ社会がそれを認知すると、不登校の生徒はどんどん増えていく。保健室登校、別室受験という場を設けると、それに合わせるように、そのシステムを利用する生徒が増えていく。

学校に行けない、行かないことも、ひとつの「在り方」だという考え方も確かにその通りだろう。教室に入れない生徒に学校として「場」を与えるという考え方も、当然の「配慮」だと言えば、確かに反論の余地がないほど正しい。

ただ、そこで考えてしまうのは、現場としてはそこに無限の対応を求められるのであり、それが仮に「学校は旧態依然とした”かたち”に甘んじて、対応が遅れている」「未熟な社会だ」と言われる批判は甘んじて受けなければならないが、そうした在り方が社会として健全なのかどうかという議論は欠けているように思う。

学校、あるいは地域でも会社でも社会における他者との共生の中で、人が悩み、何かを考えていくことは決してマイナスではない。それが仮に否定の対象として認識され、批判される反面教師のような存在であったとしても。

時代が民主化を歩み、民主化の考えが浸透すればするほど、社会の枠が広がっていく。それはいいことに違いないが、どこまで広げてよいのかという議論は、ある概念が聖域化されればされるほど生まれにくくなる。
・・それでは「枠」がすり替わっただけに過ぎない。

例えば仮に子供の食生活に関して、一時期「好き嫌いも個性だ」という言われ方があったが、その考え方は、それが「多様」な在り方だと言われても、そのまま受け入れることには抵抗がある。

「社会」というものが、人がその中で生きる規律をもった集団であれば、そこに「制約」が生まれる。その「制約」が、例えば古い因習や権力が人々に強いた理不尽であれば変革されなければならない。

ただ逆に、例えば「自由」や「平等」が理念として「神」のように崇められても、結局は堂々巡りに陥っているように、「多様性」ということも、きちんと考えなければ堂々巡りに陥らないか?と思う。

人は、生を与えられたものとして「所与」を生きる。同時に、存在した「社会」の構成員としての「所与」の中で生きる。社会の変革は必要だと当然に思う一方で、僕らは「所与」に対して忠実に生きることを余儀なくされている存在としての自分を感じたりもしている。すべてが「自由」ではありえない。

自由と所与と、その間にラインを僕らは引くことは、実はすごく難しいことだと思う。



もう一つの違和感の理由は、自分の浅い経験でしかないが、特別支援学校で障害を持った子どもたちを見ていたからかもしれない。その子たち、あるいは保護者の思い。僕の父も身体障害者だった。
あるいは定時制高校に勤め、貧困や社会から疎外されがちな若者たちが必死で生きる姿を見て来たからかもしれない。

差別や負の連鎖ということが、そこには如実に感じられる世界だった。そこをベースに考える時、「多様性」という言葉が「ブーム」のようにクローズアップされる陰で、見過ごされている「差別」がないか。

本当の意味でノーマライゼーションが確立されるならば、それはもっと大きなうねりであって欲しい。

例えば、女性として生を受けながら、心は男性だという生徒を迎え入れる議論は、「生物学的に男と女は同じだ」「社会として先進国では全く当然のことだ」と、当然そういう判断になろう。あらゆる検討をして対応するべきだという結論が見えている。その通りなのである。

予防線を張るわけではないが、僕は性的マイノリティーの方たちを決して否定するわけではない。ただ、「その前にすべき何かがあるだろう」とも「その先に何があるのだろう」ということを思ってみる。そう言う自分の未熟さを正直に認めながら、そう正直に言っておきたい。

障害者の人権は?
貧困にあえぐ若者の苦悩は?
今まさに戦火に命を落とそうとしている人、レイプや虐待にあっている人たちの人権は?

今、世界が「多様性」に対して肯定的に歩んでいる道筋の中に、それだけが「多様性」の問題ではなく、一緒にそうした差別の問題を同列に問題にする必要があると思う。

「おいてきぼりを許さない」ことがSDGSの発想であるのならば、そうした人権上の様々な差別を巻き込んで論じたい。そうしないと、それは単なる限定的なジェンダーの問題として語られるか、さもなくば単なるブームに終わってしまう・・。



また、こうも言える。ある言葉が「神格化」されるのは決して望ましいことではない。「多様性」という言葉が字義通り「多様」であるならば、「多様性を認めないことも多様性の一つであるという覚悟」が「多様性」の認識の中にあっていい。正しく社会が成熟するためには、そういうアンチテーゼが必要なのだと思う。
生物多様性は疑いもなく大切なことだろう。ただ、「固有種を絶滅させないために、外来種を駆逐するという発想は正しいのか」というようなアンチテーゼ。

多分、そういう衝突の中に「多様性」の意味がある。

「自由」や「平等」が、言葉だけの、理念だけのものとして「だから能力のない者の不遇は個人の責任だ」という権力側の「能力主義、メリトクラシーの詭弁」に陥っているという議論もある。



「多様性」という言葉が、ただのフレーズとして流行し、私たちが何かの「罠」に嵌ってしまうことにならぬようしたい。
何かとんでもなく「ズレた」ことを言っているような気が自分でもしているが、頭が固くて古いおいぼれの世迷言と思って勘弁していただきたい。



※「障害者」の漢字使用については、「がい」「碍」が用いられるのが適切かとも思うが、社会の未熟によって「障害」となる事態に直面している人という意味で使用した。

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