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第278話:YouTuberになりたい?

■『十訓抄』という説話集に二人の歌人の歌が逸話とともに載せられている。

能因法師
都をば霞とともにたちしかど秋風の吹く白河の関
都を春の霞が立つとともに出発したが、ここ白河の関に着く頃には秋風が吹く季節となってしまった。

待賢門院女房、加賀
かねてより思ひしものを伏し柴のこるばかりなるなげきせんとは
前々から予想していた事です。柴を樵って投げ木する様に、懲り懲りする歎きをしようとは。

最初の歌は能因が東北への旅の感慨を歌った歌だが、都にいながら作った歌だったため、暫く不在を装って家に籠り、黒く日焼けし、あたかも陸奥へ旅したと見せかけて世に出したものだと言う。
次の加賀の歌も数年前に作ってあたためていたものを、どうせなら実際に失恋してから歌った歌にしたいと考え、貴人男性と親しくなり、その後忘れられてからその男に贈った歌だと書かれている。

言葉は悪いが、要するに歌の価値を高めるために「でっちあげた」ということになる。別に歌が実際の経験である必要もなく、同種の話は別の「本」にも載っているが話の真偽も定かではないから辛辣に考える必要もない。
人間は「作為」する生き物だから、むしろこうした話は「ああやっぱり人間だなあ」とほのぼのと庶民的な笑いのうちに味わえばいいのだと思う。


■「作為」などということは僕らの日常に溢れていて、自分をカッコよく見せたいとか高く評価されたいと思うのは人間の性だから、学歴や年齢の詐称は昔からよくあったわけで、僕でさえ年齢は大体10歳くらい誤魔化し、身長は2cmくらいサバを読むことにしている。

それに昨今では、ネットやスマホの普及に伴ってSNS上の記事や写真に加工や作為がしやすくなり、誰かになりすましてでっちあげを書いたり、婚活アプリで自分の顔を修正したりすることも、もはや当然の「作為」としてお互いに認知、共有されているかにも見える。

「作為」というからひどく悪いことに聞こえるが、考えてみれば芸術でも小説でも恋であっても、それらは「作為」なのであって、それによって自分を表現したり、人を楽しませたりするわけだから、むしろ「作為」は人間になくてはならない営為だとも言えるのだろう。


■ただ最近のネット上の発信には、うまく言えないが、「作為」しているつもりが「作為」の「罠」にはまりこんでいくような「病」を感じてみたりする。

例えば「映える」。ある面白いもの美しいものに接して、それを「映える発見」として発信するが、逆に僕らは「映える」ネタを作り出すためにどこかを訪れたり、珍味を探したり、ネタを捏造したりもする。

そんなことは至って普通のことだろう。
でもさらに、「映える」という目的は「いいね」をたくさんもらうためだったり、あるいはフォロワーを増やすための手段として意識されやすい。

それは自分の感銘を誰かと共有したいという元々の目的が、「映える」という目的のための手段に一度転落し、さらに「いいね」をもらうという目的のための手段に再転落してしまうことを意味しているとも言えなくもない。

さらにひょっとしたら、「いいね」やフォロワーの数という目的の先には収益という目的があって、「いいね」をもらうことさえも収益のための手段に転落してしまうかもしれない。

単なる屁理屈であって、「転落」という言葉もいかにも不穏当な言葉であるかもしれない。
ただ、「いいね」をもらえたりもらえなかったりすることが自分の目的になってしまうことへの違和感に悩む若者も多い。道具でしかなかったものに束縛されていく本末転倒の違和感と言えばいいだろうか。


■でも本当の問題なのはそこではない。

そうした本末転倒に鈍感になるうちに知らぬ間にネット社会が作る「罠」に取り込まれてしまっているかもしれないということである。

例えば、あの芸能人の不倫を暴露して面白がった元国会議員や、面白おかしく選挙妨害をした動画をアップして広告料を稼ごうとする都議会議員候補を思い出せば分かりやすい。
それは明らかな「転落」である。自らの「作為」の迷路に迷い込む「病」。

YouTuberになりたいという若者も多いと聞くが、それはそういう「病」との戦いになることを知る必要があるだろう。
少しズレるかもしれないが、東京都知事選は明らかに民主主義の根幹である選挙が「道具化」してしまっている姿であって、「病」としか言いようがない。

本来の目的を見失い、手段が暴走して欲望の仕掛けた「罠」に陥るという構図

■もっと危険な問題が進行している。

ウクライナもガザも「未来」が見えない状況が続いているが、このさなかドローンが人を殺す道具に「転落」し、しかもそれが大量に生産されることでどこかで誰かが利益を手にしているという事態。
ここに同じ構図が見えたりしないだろうか。

あるいは、「人を殺す」ための技術(道具)が人類の科学の進歩につながっていくという極めて矛盾した過去の構図、やがて道具でしかなかったAIが戦争をも支配し、僕らは誰かよくわからない「もの」に支配される「もの」に「転落」していく未来の構図が見えたりしないだろうか。

だから、僕らはいつも仕組まれた「罠」や「流れ」の中に生かされいることを疑う必要がある。
そのためには、自分にとって何が大切なのか、自分は何がしたいのかという極めて単純な問いを自分に問う必要がある、と思う。

いつものことだが、回りくどい話になってしまった。


■土竜のひとりごと:第278話




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