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「プロセス・ドリブン」な生き方の提案 〜「ビジョン・ドリブン」な生き方へのアンチテーゼ〜

「志を高く生きよう」

「自分の人生にビジョンを打ち出せ!」

キャリアや人生を語るとき、よくこういった主張を耳にする。


たしかに、これといった志やビジョンを持っている人はかっこいい。

それらは大抵の場合、自らの経験に裏打ちされた理由があるので、

何よりとても説得力がある。


一方で、このようなビジョナリーな生き方が絶対的に是とされ、

それをある種強要するような社会の風潮に対して、

ちょっとした違和感を持つ人もいるのではないだろうか。


少なくとも私は、若干の生きづらさを感じている。

そこで、この違和感の正体というべきか、

ビジョナリーな生き方へのアンチテーゼとなりうるものの輪郭を掴んだので、

それを紹介しようというのが本記事の目的である。


本記事では、

そもそもの「仕事」というものに対する哲学的な考察を存分に行ったため、

大変長文となってしまった。


そこで、以下に本記事の主張を記しておく。

・志に根ざした「ビジョン・ドリブン」な生き方は、仕事の本質や愛の本質を鑑みると、非本質的な側面も含んでいる

・愛する技術を持ち、顧客に向き合う覚悟を決めた上で、そのプロセスの充実を求める、ある種享楽的な「プロセス・ドリブン」な生き方がより広く認められても良いのではないか。

・本議論のジンテーゼとして、愛する対象となる周りの家族、恋人、友人、を幸せにしていく中で、愛する技術を体得していく生き方を提案したい。


本記事は、上記の主張に対する少々長めの脚注にすぎない。

キャリア論に限らず、愛や仕事に関する哲学的な考察も含まれているので、ご興味のある部分から読んでいただくと良いだろう。


「愛」とは何か?

キャリア論を考える上で、

「愛」の考察から入るものは類を見ない気がするが、

これは本論の骨子になるので、ひとまずお付き合いいただきたい。


「愛」という言葉を聞いた時、皆さんは何を想像するだろうか?

おそらく最初に想像するのは、

「恋に落ちる」に代表される、激しい感情だろう。

あるいは、母親が子供に対して抱く、

無償の愛のようなものを想定する人もいるかもしれない。


まあ具体的に何を想像するかはここではあまり重要でない。

本質的に重要なのは、現代において、

愛は「対象」の問題として捉えられているということだ。


対象の問題とはどういうことか?

それは、

「この人は、私が愛するにふさわしい人だ。」

「逆にこの人は、愛するにふさわしくない人だ。」

といった風に考えることだ。


異性愛を想像するとわかりやすい。

多くの人が出会いと別れを繰り返しているのは、

愛を対象の問題と捉え、この人なら私は大丈夫だろうという、

希望を抱いては失望し、を繰り返してるからこそである。


さて、ここで問いたいのは、

本当に愛は対象の問題なのか、ということである。


ここで、興味深い観点を紹介しよう。

それは、エーリッヒ・フロムの

愛とは対象の問題ではなく、技術の問題なのではないか、

という指摘である。


フロムは20世紀を生きた、高名な社会心理学者・哲学者で、

私が最近はまっている哲学者の1人だ。


フロムは愛に関して、以下のように述べている。

愛は技術だろうか。技術だとしたら、知力と努力が必要だ。それとも、愛は一つの快感であり、それを経験するかどうかは運の問題で、運が良ければそこに「落ちる」ようなものだろうか。この小さな本は、愛は技術であるという前提のうえに立っている。しかし、今日の人びとの大半は、後者のほうを信じているに違いない。 ー エーリッヒ・フロム『愛するということ』


これだけではよくわからないと思うので、

身近でわかりやすい結婚を例にあげてみよう。


現代を生きる我々からすると、

結婚相手を自分の意思で選ぶことは自明である。

これは日本国憲法でも保障されている通りだ。


しかし、恋愛結婚の歴史は意外と浅いのである。

とある論文調査によると、日本において

恋愛結婚が見合い結婚を上回ったのは、1970年頃のことだという。

今でこそ当たり前の恋愛結婚が優勢になったのは、

たったの50年間の歴史しかないということだ。

それまでは見合い結婚が多かった、ということである。


つまりこれは、

愛を「対象」の問題として捉えるイデオロギーは

現代において台頭してきたものにすぎず、

長い歴史を見ると、決められた相手といかに愛を育むか、

という「技術」の問題として捉えられてきたということになる。


フロムはまた、次のようにも述べている。

誰かを愛するというのはたんなる激しい感情ではない。それは決意であり、決断であり、約束である。 ー エーリッヒ・フロム『愛するということ』

つまり愛とは、とある対象にのみ抱く激しい感情ではなく、

決意、決断、約束のもとに成り立つ感情であるということ。

そして、その中で継続的に育んでいく技術の問題であるということ。

本記事では、このフロムの愛に対する捉え方を前提に論を進めていく。


「仕事の本質」とは何か?

「仕事」ということばを聞いた時に、何をイメージするだろうか?

人によっては、お金稼ぎの手段、と思うだろう。

もう少し意識が高くなってくると、

理想的なキャリアを描くためのものとか、

自己実現の手段とか、そういうことをイメージするかもしれない。


自己啓発本をよく読んでいるあなたは、

仕事は「仕える事」、つまり他者貢献でしょ、と答えるかもしれない。


確かに、それは大正解だ。

名著『嫌われる勇気』にも下記のような記述がある。

もっともわかりやすい他者貢献は、仕事でしょう。(中略)労働とは、金銭を稼ぐ手段ではありません。われわれは労働によって他者貢献をなし、共同体にコミットし、「わたしは誰かの役に立っている」ことを実感して、ひいいては自らの存在価値を受け入れているのです。 ー 『嫌われる勇気』


この通り、仕事の本質は他者貢献であるのは間違いない。

しかし、ここで思考停止することなく、もう少し深掘りをしてみたいと思う。


上記で指摘されている通り、労働は金銭を稼ぐ手段ではない。

その本質が他者貢献だというのなら、

もっと踏み込むと、それは愛ということにはならないか。


ある人に対して愛を感じているから、

何か貢献をしたいとおもうのが自然な人間的感情というものだ。

なぜ家族が、恋人が、友人が困っていたら無償で助けたいと思うのか?

なぜボランティアをする人がいるのか?

それは、人間が本質的に貢献することに喜びを感じるからである。

そして、その「貢献したい」という想いを呼び覚ますのは、

間違いなく愛であろう。

本記事では、「仕事の本質 = 愛」という前提のもと、論を進めていく。


「ビジョン・ドリブン」な生き方とは何か?

ビジョナリーな人、といえばどんな人を思い浮かべるだろうか?

ソフトバンクの孫さんはすぐに名前が上がるだろう。

「志高く」「情報革命で人々を幸せに」が彼のビジョンである。


もしくは、前田裕二さんも有名だろう。

彼は自分の過去のストーリーから、

努力が認められる世界を創りたいと思って、Showroomを立ち上げた。


さて、志ややりたいことという文脈でよく語られるのは、

「誰にどんな価値を届けたいか?」ということだ。


「私憤を公憤に変える」とはよく言ったもので、

自分が過去にされて嫌だったことを、他の人には同じ想いをして欲しくないというところでモチベーションが湧いてくるという構図だ。

何より過去の体験に基づいた話なので、ほとんど誰もが納得してくれる。


しかし、この考え方には落とし穴があると私は考える。

お気づきだろうか、これは愛を対象の問題として捉えている典型例である。


誰にどんな価値を届けたいか、それはつまり、

誰を相手に仕事をしたいか、そしてそれはつまりは、

誰を愛したいか、というロジックが成り立つ。


つまり、愛する対象( = 仕事の対象)を、

自分の過去の体験から探し当てようとする営みなのである。


そしてまた、ここにも一つの落とし穴があるのだ。

自分の経験から捻出した価値を届けたい相手というのも、

結局のところは赤の他人である。


つまり、対象を探してみても、

愛する技術をしっかり持っていないとあまり意味がないのではないか。

全身の勇気を振り絞って、この生き方を選択しても、

「あれ、意外と違った」なんてことも起きかねないのだ。


では、どう生きればいいのか。

「ビジョン・ドリブン」な生き方へのアンチテーゼとして、

私は以下の「プロセス・ドリブン」な生き方を提案したい。


「プロセス・ドリブン」な生き方とは何か?

「プロセス・ドリブン」な生き方とは何か?

私はそれを、

「愛する技術を持ち、対象に向き合う覚悟を決めた上で、

そのプロセスの充実を求める、ある種享楽的な生き方」

と定義する。


先述の通り、「ビジョン・ドリブン」な生き方とは、

自らの過去の経験から、仕事の対象、

つまりは愛の対象を選択する生き方だとした。


一方、「プロセス・ドリブン」な生き方では、対象の選定は行わない。

ただ、決まったらその対象を愛することを決め、仕事を熱心にやるのだ。


「ビジョン・ドリブン」に生きたところで、

赤の他人が対象になることに変わりはないのだから、

それなら誰に価値貢献するかは、

決まってから覚悟を決めることも、また重要なのではないか?

そして、どんな相手でも愛をもって仕事をする、

「愛する技術」を磨く方がむしろ本質的ではないか?


さて、「プロセス・ドリブンな生き方」では、

一体何を判断基準に仕事をしていくのか?


理想的なのは、

個々人に眠っている「天才性」を活かせる仕事を探すことだ。

天才性とは、
「仕事という文脈に限らず、気がついたらやってしまっていること」
というのが私の解釈である。


もう少しわかりやすい指標を持ってくると、

ストレングスファインダーの上位14個をすべて活かせるような活動、

というものだろうか。


これはいわゆる、「人の話を聞くのが好き」

とかそういうレベルの話ではなく、もっともっと繊細なものなのだ。

まあでもこれは、何にしろ経験をたくさん積まないと見つからないし、

それこそ10年20年というスパンで探すものなのかなと思う。


もし天才性の発見がままらななくても、

たとえば優秀な仲間と仕事をすることだったり、

自分の好きな商材を扱う会社で仕事をするなど、

他にも色々プロセスを充実させる手段はある。


プロセスを充実させていく。

純粋な「楽しい」から動く。

それが結果として顧客に向き合う原動力になる。

そしてその中で、愛する技術を磨いていく。

なんだかそんな生き方もまた、本質的なのではないだろうか。


本議論のジンテーゼはどこにあるか?

さて、この議論には、

一つ見落としている観点があることにお気づきだろうか?


そう、それは

「対象も選べばいいし、プロセスも大事にすればいいじゃん」

という極めて簡単な指摘である。


確かにフロムも、愛において対象が重要でないと言った訳では全くない。

ただ、見逃されがちな愛する技術こそが、

実は重要なのだということを示したに過ぎない。


ではこの二つを両立させると、どんなジンテーゼが生まれるか?

それはひとえに、周り大切な人、家族や恋人、友人たちを、

自分の得意なことで喜ばせることではないだろうか?


半径5m以内の世界を幸せにできない人が、

仕事で赤の他人に愛をもって価値提供できるはずがない。

まずは身近な人に貢献することを通じて、

愛する技術を磨くことが重要なのではないだろうか?


世界平和を達成するためにはどうしたらいいか、

という質問に、マザーテレサがこう答えたのはあまりにも有名だ。

「あなたの家に帰って、あなたの家族を愛してあげてください。」

まずは、自分の周りの人を愛することから始めていこう。


まとめ

本記事は、

「ビジョン・ドリブンな生き方を過剰なまでによしとする世間の風潮」

に対してアンチテーゼを叩きつけたいという、

個人的な衝動から生まれたものである。


正直これは、人によって合う、合わないがあるのだと思う。

ビジョナリーな人もいれば、プロセス重視型の人もいる。

そういう多様性があるよねって話なのではないか。


そして本記事が、ぼくのように、

「ビジョナリーな生き方にしっくりきておらずモヤモヤしている人」

にとって勇気になったなら、それほど嬉しいことはない。

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