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仕事をなくして失意の私を突き動かしているのは、『怒り』なのかもしれない。


長くこのnoteを続けてきました。

noteは今までアメブロやはてなブログ(ちょっとだけwordpress)を使ってきた私にとって、革新的な媒体でした。

文章に特化したUI、一切ない広告表示、味のある文章を書くnoter、どれをとっても他のブログに引けを取りません。


そしてとにかく意識の高い人が多い。noteを読んでいると、人様の生き様やかっこよさが透けて見えて、時がたつのを忘れてしまいます。


そんな文章を書くことが好きで、誰かに読んでもらうのが好きな私にできた夢が文筆家でした。だって私には、もう失うものなんてないから。

それでも、普通に働けてお金を稼げてそれなりに安心して生活していける人たちが羨ましいという気持ちが抜けていませんでした。


鬱鬱とした気分でnoteを読んで励まされていた時に、Natsumiさんのエッセイを読みました。



週5日会社員として働ける方が幸せ?執筆ができない苦痛、普通に生きれないことへの葛藤


似てると言ったらおこがましいですが、正社員のライターとして働いていたNatsumiさんは2020年6月末に、4年間働いていた場所を去ったのだと言います。

そして派遣として週5で働き始めたものの、残業ありきでプレッシャーのある生活に耐えきれず、1カ月で辞めたと書かれていました。


私はライターではなくただのIT企業でおじちゃんと一緒に2年働いていただけの存在だったけれど、週5で働いていると執筆の時間が取れないことが辛かったという話に、大いに共感しました。


元々ライター業でも、コロナ関係なく経営が悪化してからは週5から週3で働いていたらしいですが、自分にのしかかるプレッシャーに耐えきれなくなったのだそうです。


あぁ、私と似ているなと、思ってしまいました。私も、耐えられなかった。おじちゃん達と働いてこのままどんどん自分が埃被っていくのも、死んだ目でエラー対応し続けるのも、もうたくさんでした。

残業があまりなく、そんなに仕事内容としては大変ではなかったです。障害が起きたらSEに投げるだけ、報告書書くだけ、おじちゃんと二人きりで土日のどちらかは働く必要があっただけ。


良い人たちだったけれど、それでも私は、エンジニアの道を選ばず運用部署に逃げた自分を恥じた。「お前はこの部署の方が合ってるよ」といって私を呼んだあの先輩の口車に乗せられたけれど、私という一人の人間の可能性をつぶしたのは、『どこのどいつだよ』と思います。

未だにむかついて仕方がない。逃げた自分も、あの先輩も。

このことについては、以下のエッセイに書いてあります。運用部署に初めに入った方がエンジニアとしても成長できるなんて言っていたくせに、何も教えてくれないまま「楽だから入ったんだろ」と言われた私の、切なる怒り。


周りの人を羨む日々、隣の芝生は青く見える、惨めで陰鬱な日々から抜け出したあの日


どんなに恵まれていても、どんなに素晴らしい環境だったのだとしても、私は、やっぱり嫌だった。あの時辞めたのは、『逃げ』だったかもしれない。けれど私は、あのまま残っても幸せになれなかった気がする。他の部署の動揺が羨ましかった、キラキラした後輩が羨ましかった


閉鎖された運用室が大嫌いで、事務室で仕事をしても良い日は滅多に下に降りませんでした。それでもあのとき、すぐにでも「やっぱりもともと行く予定だった開発の部署に行きたいです、ここを抜け出したいです」と言えなかったのは、私の落ち度でした


我慢すればよかったかもしれない、事務や経理になれるまで。それでも、経理の部署に入った同僚はパワハラで激務だし辞めたいと言っていたし、ジムの先輩は忙しそうでした。

会社自体が嫌いになってしまったのは、半年間の研修が終わったころからだったと思います。運用部署の仕事を始めた初日に、私は既に後悔していました。その時から転職を考えていたのだから、もっと早く動くべきだったでしょう。


ただ私は、書きながら感じたのは、自分に対しての怒りでした。私はやっぱり、あの時開発部署に行くのが怖くて逃げた自分を、何より許せないのでしょう。


やりたいこと探しの日々と、ようやく掴んだ『答え』のような何か


そうしてやりたいこと探しが始まりました。会社を辞めてから無為に時間を過ごしたけれど、これを書いていて気づいたのは、どうせ同じ生きるなら、やりたいことを全力でやって死にたい


今度はこの怒りを文章を書くという行為にすべてぶつけて、誰かの心を揺さぶるようなものを書きたい。私はもっと強くなりたい。今度は挑戦もせずに折れるなんて嫌だ。私はどうしても、やりたいことをやりたい


途中から怒りで我を忘れて『ですます』調でなくなっていたので、あとから直しました(笑)あえて残している部分もありますが。

それだけ、当時のことは私にとっては苦々しい過去なのですが、それでも、優しくしてくれた人たちには感謝してもしきれません


ちなみに、一か月で辞めた派遣の仕事も運用部署だったので、前職と似たような仕事で、しかも前職よりもはるかに仕事量が多くストレスやプレッシャーのかかる仕事でした。しかも周りと馴染めず孤立する自分に嫌気がさしました。

さらに適応障害と診断されてしまい、私は結局派遣の仕事をすぐに辞めるに至りました


それから、適応障害と診断されたので、就労移行支援施設に通いながら仕事を探すことを決めました。焦るとよくないと言われ、待ち続けて3カ月以上経過しています。派遣は9月中頃に辞めたので、ブランクは長くなる一方。私がきちんと自分の芯を決めるまでは動かない方がいいと言われていましたが、そろそろ、動かねばなりません。

※新卒で入った会社は2年で辞めているので、2020年3月まででした。



ただ施設に通う人はほとんど精神障碍者手帳を持っています。手帳がなければ障害者雇用で入社はできません。私は手帳がもらえるほどの病気ではなく、今もそこまで精神的に病んでいないので手帳をもらえません。

6カ月以上は重い精神疾患で同じクリニックに通いつつづけないと、手帳の発行はできません


そんななかで、仕事を探して普通の人と同じように働くのがずっと不安でした。それでも私はやっぱり、憧れていたライターになりたい


この気持ちはすぐに揺らぐかもしれないし、どこも雇ってもらえないかもしれない。それでも、副業でも何でも、文章でお金を稼げるようになりたいと思っているのです。


すべてを諦めて運用部署に行ったあの日。無職になってから色々な専門学校を探し説明会に通った日々。正社員を辞める前はアニメ業界、派遣を辞めてからはフラワー、栄養士、福祉、公務員等、色々な職について調べました。


それでもずっと続けてきたのは、ブログでした。大学時代から書き始めたブログ。この程度の文章しか未だに書けず、書きやすいのはエッセイだけれど、それでも、やっぱり文章を書き続けながら、これからも生きていきたい。食べていきたい

改めて過去を振り返り、そう思いました。


※「かがみよかがみ」に、今月初めてエッセイ2作掲載されました。書き下ろしです。良ければ読んでいただけると嬉しいです。


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