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【#2】 連載小説 『美容室「ヨアケ」、開店します。』 (第1章 毛玉セーターの佐藤さん 第2話)

第1話とあらすじはこちらです。





「こちらのお席へどうぞ」

佐藤さんは鏡の前に座ると、きまり悪そうに視線を下に落とした。
フロア中のスタッフや客が、佐藤さんに注目しているのが分かった。特に隣の席に座っていた初老の主婦は、雑誌から顔をあげ、無遠慮に上から下までジロジロと眺めていた。

「ええと、担当させていただきます、田辺です。よ、よろしくお願いします。今日はどのくらい短くされますか?」

先輩の見よう見真似という感じだったが、麻衣は必死だった。ウイッグやカットモデルの人で練習はしているが、お金を取って客をカットするのはもちろん初めてだった。

「ああ…お任せで」

佐藤さんは下を向いたまま言った。

「ええとそれでは、すっきりするように少しだけ切りますね。では、シャンプー台の方へどうぞ」

麻衣はシャンプーをしながら、佐藤さんにいろいろと話しかけてみた。

「お近くにお住まいなんですか?」

「あーはい。」

「お子さんは?」

「あ、まあ。」

「お仕事は、何されてるんですか?」

「あー、はい」

「えーっと…なんで私を指名されたんでしょうか?」

「あー、まあ…」

どうにも会話にならず、麻衣は黙ってしまった。
カットも散々だった。緊張で手が震えて思うように出来ず、所々ギザギザになってしまった。横で見ていた新城が指示したり、最後は手直しをしてくれ、ようやく格好がついた。

麻衣は道具の置いてあるワゴンから、大きな二つ折りの鏡を取り出した。
合わせ鏡の要領で、客が後頭部を確認できるように掲げるのだが、その動作もぎこちなくなってしまった。

「それじゃお客様から見えないから、もっとこうして」

と、新城に角度を直してもらい、ようやくうまくできた。

そして麻衣は、恐る恐る、

「…いかがですか?」

と訪ねた。すると佐藤さんは、

「あ、はい、どうも」

と、ろくに鏡を見ようともせずに、さっさと立ち上がってしまった。麻衣は慌てて佐藤さんに着せていたクロスを外し、切った髪の毛を払った。
少し不自由な足は階段を降りるときのほうが辛いらしく、佐藤さんは一歩ずつゆっくりと降りていった。そしてズボンの尻ポケットからヨレヨレの黒い小銭入れを出し、言われた金額を支払った。手は小刻みに震えていた。

「ありがとうございました。またよろしくお願いします」

必死に笑顔をつくりながら麻衣が言うと、佐藤さんは無言で少しうなずき、片足を引きずりながら出て行った。
佐藤さんの姿が見えなくなると、麻衣はへなへなとソファーに座りこんだ。汗びっしょりだった。

「はぁー、疲れた…」

「はっははは、カットなんて、いきなりだったもんなァ!」

一緒に見送っていた新城は笑った。

「だけどあのおじさん、なんで田辺を指名したんだろうなぁ。ちょっと、気持ち悪くね?」

「そうですね…」

麻衣も最初は気持ち悪いと感じていたが、何となくそう思うのが悪いような何かを、佐藤さんに感じていた。

***

それから佐藤さんは一ヶ月に一度、来るようになった。予約はせずにふらりとやってきて、席が空いていないときは長い時間でも待っていた。麻衣が休みのときは、他の人に頼むことなく帰っていった。

何回か来る間に、佐藤さんは少しずつ、麻衣と会話をするようになっていた。
佐藤さんは北海道から出てきて、何かの力仕事をしているようだった。しかし服装や雰囲気から、あまり良い暮らし向きではなさそうなのが感じられた。

子供は十八歳の理恵という娘が一人。こちらに出てきて一人暮らしをしていると言った。

「娘とは仲が良くてねえ。時々お茶を飲んだりするんだよ」

と言っていた。いつもその前にヨアケに来ているとのことだった。
麻衣を指名した理由は、娘の理恵さんに似ているから、と言った。わざわざ慣れない美容室通いをしているのはそのためだそうだ。

時々は笑顔も見せるようになった佐藤さんが、夜中に突然ヨアケに現れたのは、通い始めて半年ほど経った頃だった。


営業後はいつも入り口の鍵を掛けているのだが、その日はすっかり忘れてしまっていた。
新城はよく残って練習をみてくれるのだが、今日は彼女との予定があるから、と早々に帰ってしまった。
麻衣は一人、夢中になってウイッグと格闘していた。

そこに階下から「ごめんくださーい」という声が聞こえたのだった。

麻衣は一瞬びくっとして、動きを止めた。

「あの声…佐藤さんだ」

麻衣は一瞬ためらったが、階下に向かって「はーい」と返事をした。
降りて行くと、佐藤さんがレジカウンターの前に立っていた。

「あの…外からアンタが見えたもんで…すみませんがね、今から髪を切ってもらいたいんだけど…ダメかな…」

「えっ?!今からですか?!」

もう夜の十時を過ぎている。カットをしても終電には間に合うかもしれないが、麻衣はためらった。
娘に似ているというだけで最初から指名してきて、名前も「佐藤さん」しか知らないこの初老のおじさんが怖くなった。得体の知れない感じがした。
一階は電気を消していたので、佐藤さんの表情はほとんど見えなかった。

「でも…もう営業とっくに終わってますし…」

「分かってるんだけど、仕事が思ったより長引いて…本当に悪いんだけど、これから娘に会うんだよ。娘の彼氏から呼び出されて…こんなボサボサじゃ行かれないから…何とかしてくれないかな」

麻衣は、こんな夜中に娘に会うなんて、いくらなんでも不自然だと思った。

「あの…困ります。店長に叱られますし…」

「でも、何とか…」

「だから困りますっ!!」

麻衣はつい声を荒らげてしまった。

「…悪かったね…」

佐藤さんは、ぺこりとお辞儀をして謝ると、出て行ってしまった。
営業後に勝手にお客さんを入れるのはもちろん禁止だから、麻衣は悪くないのだが、帰っていく佐藤さんの後姿を見て、なんとも後味の悪い思いだった。

***


それから佐藤さんは、ぱったり来なくなってしまった。

「そういえばこの頃、佐藤さん来ないわね」

ある日の営業後、一階のソファーに座ってその日の反省会をしているとき、店長の坂本が言った。

「はい…」

「なんか失礼なこと言った?」

「いえ…」

あの夜のことを、麻衣は店長に何となく言い出せずにいた。

「…そんなことないと思います…」

「田辺、佐藤さんといつも意外と仲良さそうにしゃべってたのになあ」

横から新城も言った。

「そういえば前のカットのときさ、バリカンが滑ってハゲ作りそうになったのを、俺が慌てて横から阻止したの、バレたのかな?」

「そんな!ちょっと滑っただけです、大げさに言わないで下さい!」

「えーなになに、そんなことあったの?」

もう一人の女性スタイリスト、荒井が、ガラステーブルに広げてあったファミリーパックの煎餅をつまみながら言った。
麻衣より十年程年上のベテランだ。服装は地味だが気さくな人柄で、特に主婦層に人気があった。

「ねえ、DM出してみたら?ヘアスタイルの調子はいかがですか、とか書いてさ」

「あ、でも、住所も…そういえば下の名前も知らない…」

「そっかあ。佐藤さんって謎に包まれてるもんねえ」

荒井が煎餅のパリン、という音を立てながら言った。
坂本は、今日来た客のカルテをガラステーブルで書きながら、顔も上げずに言った。

「じゃあしょうがないわね。まあでも、佐藤さんってなんかちょっと…ねえ、あれだったし。他のお客様もヘンな目で見てたから、丁度良かったんじゃない?」

「でも、話すと結構良い人でしたよ」

麻衣は少しムッとして言った。佐藤さんは麻衣以外のスタッフと言葉を交わすことはほとんど無かったので、坂本が言うのも無理もなかった。

「まあ、きっと急に田舎にでも帰ったんじゃないの。メンズカットさせてもらって、田辺も良い勉強になったでしょ。
あっ、ところでさー、こないだまた地下倉庫で音がしたんだよぉー」

店長の坂本が言った。

店の地下倉庫には外のシャッターを開ければ入れるようになっていて、納入されたシャンプーや事務用品、古いカット台や鏡などが置かれている。
麻衣も時々鍵をもらって入るけれど、薄暗くてジメジメしているのでいつも怖くなり、大急ぎで目的のものを探して、逃げるように出て来てしまうのだった。

首から上しかない練習用のウィッグが棚にずらっと並んでいて、その前に置かれている大きな鏡に映っているのを見た時は、

「ひっ!!」

と声をあげてしまったこともあった。

「えーっ?!ちょー怖いんだけど!もう、今度からは倉庫は新城くんに行ってもらおう」

「ええっ?!オレも嫌っすよ!」

新城が本当に怯えたような声で言ったので、みんなは手を叩いて笑った。

「まあ、とにかくさ、田辺。佐藤さんのカットで少しは練習になったでしょ。今度のスタイリスト試験、絶対合格してよね」

店長が言い、麻衣も「はい、がんばります!」と答えた。

***


それから数日後、麻衣は休日にカットの講習会を受けた帰り、友達の絵美のアパートに行こうと、近くの駅の裏通りを歩いていた。
夕方の少し暗くなりかけた時間だった。

絵美は美容師の専門学校のときからの友達で、今はメイクのアシスタントをしていた。
麻衣が生真面目でくよくよ悩むような性格なのに対し、絵美は楽天的でサッパリしているので、だからこそ今でも交流が続いているのだった。
絵美は雑誌の撮影などについていくようなのでかなり忙しい様子だったが、この日は久々のオフだった。

「えーと確かこの辺だったっけ…?電話してみよっと」

絵美とは外で会うことが多いので、アパートに行くのは久しぶりだった。
裏通りは昔からある住宅街なのでだいぶ入り組んでいて、方向オンチの麻衣にはなかなか覚えられなかった。

「あ、もしもし絵美?いまさ、コンビニの前過ぎたとこだけど、曲がるのって公園の手前だっけ?過ぎてからだっけ?」

《ああ、過ぎてからだよ。そんで、二つ目を右に行った左のアパート》

「そっか、ありがとう。あ、それから絵美の好きなプリン買ったよー」

《やぁった!ありがとー!飲み物はあるから買わなくていい…》

「あっ」

麻衣は立ち止まった。

《えっ、なに?どうしたの?》

通り過ぎるとき何気なく見た公園の中に、佐藤さんがいた。


(第1章 3話に続く)


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