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【短編小説】公園の海に、ボートをうかべて 後編

数時間前の恭介には、今の自分が想像できただろうか?
見知らぬおじいさんと猫と一緒に、公園の小さな海原に、ボートで漕ぎ出しているなんて。


ボートは静かにゆっくりと進んでいき、やがて公園の端にある銀色のジャングルジムの下に着いた。
おじいさんはロープをすばやく結びつけると、ジャングルジムによじ登った。そして上から二段目のちょうど段になっていて座りやすい位置に、バランスをとって腰掛けた。

「お前さん、悪いが釣竿を取ってくれ。それからバケツに水汲んで」
 
恭介は釣竿を渡し、バケツを海に浸けて水を汲んだ。勢いよく汲んだので水はボートの中で少しこぼれ、驚いた猫が慌ててジャングルジムに跳び付いて登り、おじいさんの膝に座った。
そして恭介に向かって抗議するような様子で一声鳴いた。

恭介も釣竿を持ってよじ登った。ジャングルジムに登るなんて何年振りだろう、小学生以来だ。
恭介はおじいさんと並んで腰掛けた。おじいさんはもう釣り糸を垂れていた。


「何が釣れるんですか?」

恭介が聞いた。

「何でもさ」

「何でも?」

「ああ。ほら、もう来たぞ」

おじいさんが竿を素早く上げると、キラキラ銀色に輝く小さな魚が空中に跳ねた。
魚はピタピタと音を立て、おじいさんの手の中に納まった。

「すごいですね、あっという間だな。これ、何ていう魚ですか?」

「知らん」

おじいさんは魚を釣り針から外すと、ボートの中に置いてあるバケツに上から放り込んだ。バシャッという音がし、派手な水飛沫が飛んだ。そしておじいさんは素早くまた餌を付けると、釣り糸を垂れた。

「別に魚の名前なんてどうでもいいさ。釣るだけだ」

「そんなもんですか…」

恭介も釣り糸を垂れた。


いい年をしたサラリーマンの男が、ヨレヨレのおじいさんと二人、ジャングルジムに腰掛けている。
そしてトムソーヤーでも使っていそうな、枯れ枝で作った釣竿で、釣りをしている。
会社の上司や同僚が見たらどう思うだろう。

少し高いところから眺める公園の海は、また違った風景に見える。海の全体が見渡せるなんて、まるで神様のようだ。
おじいさんも恭介の姿も、誰が見ても神には程遠いが。

考えていたら可笑しくなって、恭介は少し笑った。


「ほれ、お前さんのも来とるよ」

おじいさんが恭介の糸の先を指差した。同時に弱いあたりを感じ釣り竿をあげると、簡単に釣り上げられた。
今度は金色に輝く小魚だった。
恭介はおじいさんに魚の名前を聞こうかと思ったが、知らん、と言われそうなのでやめた。針から外された魚は、ぽちゃっと音を立ててバケツの中に納まった。


恭介はそれきりさっぱりだったが、おじいさんは特別な餌でも付けているかのようにどんどん魚を釣った。やがてバケツは一杯になった。

「お前さん、ちょっとボートに降りて、魚を逃がしてくれ。」

おじいさんが恭介に言った。

「えっ、海にですか?」

「そうさ。他にどこに逃がすんだね。ああそう、一番大きいのと二番目と三番目に大きいのだけ、わしらの分とコイツの餌にとっといてくれ。」

猫がまるで「よろしく。」とでも言うように恭介をじっと見あげた。
恭介はジャングルジムを降りてボートに乗り移り、大きな銀色の魚を三匹だけ残して海に流した。
バシャっという大きな水音と共に、魚はスイスイと四方に散っていった。
ボコボコのバケツに海水を汲むと、恭介は再びジャングルジムによじ登り、釣り糸を垂れた。


しばらく二人は黙って、それぞれの糸の先を見つめていた。
時折、車がすぐそこの道路を走って来たが、公園の海や恭介達は全く見えていないのだろうか、速度を緩めることなく通過していった。


遠くのほうから轟音が聞こえてきた。見上げると赤と緑のライトを点滅させながら、遥か上空を行く飛行機が見えた。
あの飛行機に乗っている人からは、この公園の海は見えるのだろうか?
いや、でもきっと、いつか見た夜の海のように、ただの真っ暗な空間にしか見えないだろう。
飛行機はいつもと変わらない様子でゆっくりと、やがて遠くに消えていった。


「あの…この海、いつからあるんですか?」

恭介は聞いてみた。

「わしは、お前さんぐらい若い頃からずっと毎晩来ている。いつからあるかなんて、わしゃ知らん」

「そうですか…」

「お前さんは、どうしてここに来た?」

今度は逆に、おじいさんが聞いてきた。

「えっ、いや俺はいつもこの公園を通るので…今日は突然海になってて、びっくりして…」

「ああ、もしかして、これはお前さんのか?」

おじいさんは、どこからかマフラーを取り出した。恭介が会社に忘れてきたものだった。

「あっ…えっ?これ、確かに…でも、忘れて…」

「お、また来た」

おじいさんはマフラーを恭介に放り投げると、今度はオレンジ色の長細い魚を釣り上げた。
魚は水面から空中に飛び出したとき大きく跳ね、まるで折れてしまいそうな三日月のように見えた。

それからもおじいさんはどんどん釣り、バケツにいっぱいになるとまた海に流し…と繰り返していた。
恭介もそれから何匹か釣ったが、小さなものばかりだった。それを見ておじいさんは少し笑いながら言った。

「お前さんは釣り方を知らんな」

「あの…コツは何でしょう?」

「ハハ、コツなんて無いさ。だがあえて言うなら…」

おじいさんは釣竿の先を見つめたまま言った。

「なんにも考えないことじゃな」


考えないのがコツなんて…と恭介にはよく分からなかった。

「ここは良いぞ。おまえさんも毎晩釣りに来るといい」

おじいさんは左手で膝の上に丸くなっている猫の背中をなでながら言った。

「そうですね。でも毎晩ここは真夜中、海になるんですか?」

「そうさな、来たいと思えばな」

「来たいと思えば…」

「ああ」

「そうですか…」


恭介は公園を見渡した。
非現実的な公園の海。その向こうには相変わらず現実の世界の家々や道路が見える。
ここに毎晩来れば、仕事の嫌なことなんか忘れられるかもしれない。
おじいさんの横顔を見る。
ただ魚を釣り上げ、バケツにいれ、餌を付けた釣り糸を再び垂れる。魚を釣り、バケツに入れ、餌を付けた釣り糸を垂れる。


海は先程よりも凪ぎ、恭介たちの斜め前にある滑り台の横に、月が映って見えた。

足もとの暗い海に、何か赤いものが流れて来た。よく見てみると、誰かが公園に忘れていったのだろうか、砂場用のかわいらしいジョウロだった。
ジョウロはしばらく船のようにぷかぷか浮かんでいたが、ジャングルジムの足にこつんと衝突すると斜めに傾いて中に水が入り、そして最後にプクンと泡を一つ出すと、公園の海の底に沈んでいった。

恭介はジョウロの消えた場所を覗き込んだ。しかし真っ暗で何も見えなかった。もしジョウロのように自分も落ちてしまったら、公園の海にどこまでも深く沈んでしまい、二度と上がってこられないのではないだろうか、と恭介は思った。


今、何時だろう。
子供たちは寝ただろうが、妻はまだ起きているだろうか。そういえばスマホの電源を切ったままだったな。遅いと心配しているかもしれない。
恭介は先程座っていた波打ち際を見た。恭介の書類がたくさん詰まった黒いカバンと、その横にぽつんと置かれた革靴が見えた。


そのとき、さっと風が吹き、恭介は急に寒さを感じた。身震いした恭介を見て、おじいさんが言った。

「ああ、寒いか?」

「あ、はい。あの、そろそろ帰ります」

「そうか、帰るか」

おじいさんは特に引き止める様子も無く言った。

「じゃ、岸まで送ろう」

おじいさんが身じろぎすると、膝に乗っていた猫が二人の会話を聞いていたかのようにスルスルとジャングルジムから降り、トン、とボートに乗り込んだ。
そしてすぐに、船底においてあった魚の一番大きなものに飛びつき、むしゃむしゃと食べ始めた。
恭介とおじいさんも、続いてボートに乗り込んだ。


ボートは静かに、小さな海原を進んでいく。


幼い頃、水溜りに葉っぱを浮かべて、その上にアリを乗せて遊んでいた。
俺たちはまるで水溜りのアリンコのようだ。神様から眺めたらきっと、それ以上にちっぽけだ。
恭介は、おじいさんの漕ぐオールの軋む音や水音を聞きながら、そんなことを思った。


やがてボートは波打ち際に着いた。恭介はボートから降り、浅瀬に足を浸けた。海の水は氷のように冷たく、心臓まで固まってしまいそうだった。
恭介は水を派手に跳ねさせながら、慌てて靴が置いてある岸に上がった。

「お前さん、これ持ってけ」

何か大きなものが空を舞って恭介の足元にドサッと落ちた。それは銀色の、さっき恭介がバケツから出した魚だった。


「ありがとうございました…」


恭介は振り返りお礼を言ったが、おじいさんはもうボートを漕ぎ出していた。猫だけが船べりに前足を掛けてこちらを見ており、恭介に挨拶するようにひと声、にゃー、と鳴いた。

恭介はベンチに腰掛けて靴下と靴を履いた。冷たい水に浸けたので、つま先までジンジンしていた。見るとおじいさんはもう、左の奥のほうにあるブランコに座り、釣り糸を垂れていた。

「魚…どうするかな」

カバンを探ると、昼間コンビニでパンを買ったときのビニール袋が、クチャクチャになって出てきた。恭介は三十センチくらいある魚を波打ち際で軽く洗い、袋に無理やり押し込んだ。
妻にはなんて言おう。会社の同僚が釣りに行ったから、とでも言おうか。
妻の困った顔が目に浮かんで、恭介は苦笑した。


恭介は立ち上がり、空を見上げた。さっきまで星座が分からないほど出ていた星も、今はいつもと変わらない程度になっていた。
今日見たようなきれいな星空を、子供たちにも見せてあげたい。妻も疲れた顔をしてたな。今度少し休暇をとって、どこか田舎の方にでも旅行に行こう。

コンクリートの歩道を歩き、大回りで公園を突っ切って家の方に近い出口に向かう。端まで行くとそこには細い階段があり、恭介は靴音をコツコツ立てながらゆっくり登った。
公園の外に出、少し歩いてから再び、恭介は振り返ってみた。


公園の海は、果たしてまだそこにあった。

波の砕ける音が聞こえ、自分がその上にいたときよりも暗く、闇のように見えた。
木々の隙間からブランコが見え、猫と、おじいさんの背中を丸めた小さな後姿が見えた。少し風が出てきたようで、ロープで括り付けられたボートが波に揺られて飛沫を上げ、ブランコのポールにぶつかっていた。


恭介は少しの間おじいさんの後姿を眺めていたが、二、三歩後ろに下がるとそのまま踵を返し、今度はまっすぐ前を見て歩き出した。


(おわり)

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