ノアのお泊まり

ノアが泊まりに来た。久しぶりだから、大泣きをするかもしれないと覚悟してドアを開けると、あっけらかんとうれしそうに、我が家に入ってきた。
「ハロー!トト!私、トトの家にお泊まりするの!明日の朝にお父さんがお迎えに来るの。」
彼女はきちんとわかっている。しかも随分、ご機嫌だ。
ご機嫌なのはノアだけじゃない。我が子たちはノアが大好きなので、今か今かと待っていたのだ。
私が料理をする間も、我が子たちがしっかり面倒を見ていてくれるから助かる。彼らは私から遺伝したかのように、赤ちゃんや小さい子供というのが、大好きなのだ。いつも楽しそうに面倒を見てくれる。

3才のノアが一人いるだけで、我が家はなごむ。
いつも食べているのより柔らかくておいしい肉を使ったステーキライスを、ディナーに出す。ノアはたいてい、私の作るものを、喜んで食べる。テーブルを囲みながら、我が家族の意識は、ノアが気持ちよく楽しそうに、そしておいしそうに食べているかに集中する。
「ノア、お肉食べないの?おいしいよ。」
「いらない。」
「じゃあ、トトソースをかけようか。」
「うん。」
好んで食べたがらない時は、しょうゆをちょっと垂らすと、ノアは食べる。トトの家、つまり私の家で、魔法のように何でもおいしくさせるしょうゆを、ノアはトトソースと呼ぶ。
「ニンジンのスティックを食べようよ。」
「いらない。」
「じゃあ、セロリのスティックを食べようか。」
「好きじゃない。」
「食べないの?じゃあ、トトが食べるからね。」
私は何でも食べるように勧めてみる。でも、食べたくないと言われれば、それ以上の無理じいはしない。

我が子たちが小さい時、同い年くらいの子供たちが、いつも何人も我が家に遊びに来ていた。そんな子供たちの言葉から、好きでないものは食べなくていいんだよと、家庭で親からしっかり教えられている子供が、結構いることに驚いた。私の子供時代にも独身時代にも、そんなコンセプトは聞いたことがなかった。

大人でも、非常に限られた幅の食生活を、シンプルにしている人たちがいる。50年前にここアイルランドにあったものだけを、今でもテーブルに載せている感じだ。
何を食べないとはっきりしている人も、知り合いに多い。ベジタリアンもいる。卵や牛乳といった動物性のもの全てを食べない人もいる。宗教上から、信念の上から、アレルギー上の理由から、好みの上から、家庭の習慣上、そして健康法としても、いろいろな食生活を選んでいる人がいるのだ。
娘は学校の家庭科で、それらいろいろな食生活のシステムを習っている。知識もかなりのものだけれど、それ以上に、そういった食のシステムが、個人のチョイスであると、当たり前のように認めている。私が受けた教育や環境とは違う中で娘が育っている事を、私に実感させる一つでもある。

私は子供の時、好き嫌いを言わずに、何でも出されたものは食べなさいと教育された。その時代、当たり前に大切にされていた価値だったと思う。学校でも家庭でも、私の受けたそれは、日本の平均的なスタイルより、厳しかったように思う。
苦痛を感じながら、吐き気をもよおしながら、目の前の食べ物が消えるまで、テーブルから離れることを許されなかった日もある。子供の時にはそれが本当に苦痛で、日々のストレスだった。
アイルランドに来てから、全く違う食べ物への姿勢がある事に、私は何度も驚いた。

今の私は、かなり変わった食べ物も楽しめる。子供にもいろいろなおいしさを知って欲しいと思うので、ひとまずは何でも勧めてみる。そして確かに、何でも食べられる人に食事を出すのは、食事を用意する立場から言えば、楽なのだ。
でも、人には好みというものがある。
好き嫌いを言わずに、何でも食べきるまで席を立てないなんていうのは、よく考えてみると、好きでもない人と結婚させられるようなものだ。この人と結婚すれば、健康的で安定した生活ができ、周りの人も余計な労力をかける必要がなく、社会の中の調和も保てるから、だから好き嫌いを言わずに、この人と結婚しなさいと言われたら、私は拒絶するだろう。
ノアが残した野菜のスティックは私が代わりに食べ、彼女はしょうゆを垂らしたステーキライスを、おいしそうに食べきった。

お泊まりをすると、夜が更けていく中での、なんとなく親密な時間を共有する。お風呂に入れてあげ、髪を丁寧にとかしてあげ、爪を切ってあげ、私はすっかり、小さなノアのグルーミングに集中する。我が息子まで、楽しくおしゃべりしながら、ヘアドライヤーでノアの濡れた髪を乾かしてあげるほど、優しさを見せる。
小さなマットレスをノアの為にひいてあげ、ふわっと掛布団をのせると、ノアはうれしそうにその中に入り込む。ベッドサイドの優しいライトのもと、私はノアに絵本を読んであげる。静かに時間が流れる中、並んでゴロンとして一緒に絵本を読んでいると、ノアは楽しそうであり、安心しているようであり、本当に幸せそうだ。

小さなノアが一人、我が家に泊まりに来るだけで、我が家の夜の時間は、なんとなく、ほんわかとあったかい空気に包まれる。我が子たちが小さい時に、いつも家の中にあった空気だ。懐かしさを感じながら、今またこうして、その時と同じ空気に包まれている事が、不思議な感じだ。子供たちが大きくなっていく中で、もう、戻っては来ない、過ぎ去ってしまった時間だったけれど、なぜか不思議な縁で、その時間が戻ってきたのだ。

我が子たちが小さい時、私は毎日、彼らの体をきれいにしてあげ、優しいランプの光の中、絵本を読み、マッサージをしたり優しく頭をなで、静かに話しかけ、私はベッドタイムをとても大切にしていた。
体を大切にケアされ、ストーリーの世界を楽しみ、気持ちが良くて、安心と静けさの中で眠りにつくことは、小さい子供だけでなくて、大人だって求めるベッドタイムだ。子供たちに、与えられる時に与え続けたことは、本当に良かったことであるし、何気ない毎日が、限りなくあたたかい思い出になり得ることを、私に教えるのだ。

ノアは一晩中、静かに寝ていた。
明け方、まだ真っ暗な中、ノアが目覚めたのは、彼女の布団が動く音ですぐわかる。ライトをつけると、案の定、しっかり目を開いて、私の方を向いていた。
「おはよう、ノア。」と私が笑顔でささやくと、ノアも幸せいっぱいな笑みを浮かべて、「おはよう、トト。」と私にささやいた。
「よく眠れたの?」
「うん。」
小さな声でお互いにささやきながら、なんとなく優しい会話を交わす。気持ちよく起きたそのまどろみの時間を、ささやく声が、とても柔らかくしてくれるのだ。

朝ごはんをしっかり食べ、ノアのお父さんが迎えに来る時間まで、気楽に遊ばせる。私が自然に楽しんでいるそばで、ノアも、とても自然に楽しむ。
私は、ノアが集中して何かに取り組んでいるのを見るのも好きだ。歯ブラシを強く握って、強烈な真剣さで歯を磨く時のノアの姿は、まるで全力疾走に臨んでいるようだ。ペンを握ってお絵描きをする、そのゆっくりなペン先の動きにも、ノアの全てが込められる。私は時にノアの真剣さに引き込まれ、時に純朴さに頬をゆるめる。

楽しく遊んでいると、ノアは突然、リップスティックが欲しいと言い出した。
「え?リップスティックが欲しいの?」
「うん、欲しい。」
「ノアはもう、持ってるんじゃないの?」
「持ってない。ピンクのが欲しいの。」
3才といえど、女の子だ。お母さんやお姉ちゃんがお化粧をする時を見ているのだろう。ノアは私に何度も、真剣な顔で、リップスティックが欲しいと言った。私は自分のバッグの中にあった、ほんのりピンクの色をしたリップバームのスティックを、ノアにあげることにした。ビーズワックスでできていて、色も香りも優しい。3才のノアが使っても、何ら問題はないだろう。
私はノアにわからないように、そっと、そのリップバームをプレゼント用に包んで、ノアの名前を書いた。
「ノアへのプレゼントが隠してあるよ。探してごらん。」
ノアは興奮しながら、しばらく「見つからない。」と言って辺りを探し続け、やっと、小さな小さな包みをつかんだ。
「ほら、ノアって名前が書いてあるよ。」
ノアは小さな手で、 その小さな包みを、一生懸命開けた。
「リップスティックだ!リップスティックだ!トト、ありがとう。」
ノアはにこにこしながら、そのリップバームを口につけ、指にもつけ、うっとりと匂いも嗅いでいた。本当にうれしそうだ。
彼女のお父さんが迎えに来ると、ノアはリップバームの優しく甘い香りをプンプンさせて、帰っていった。

3才のノアのお泊まり一つで、我が家には、ほんわかした空気が流れる。家族の、そして自分自身の、柔らかい心にも触れる。自分が大切にしてきた事も、ふと見えてくる。懐かしい時間まで、「久しぶりだね。」って、立ち寄ってくれる。

ノアのお泊まりは、私にいろいろな事を感じさせる。次のお泊まりが楽しみだ。


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