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短編「書斎にて」

 平日、晴れ。所々に雲。今日は執筆に集中するからと家族へ公言して書斎に籠った。ところが筆が進まぬ。一向に言葉が降りて来ん。私は一度筆を握れば原稿用紙埋め尽くす迄書斎を出るのが嫌である。今日は朝枕に頭を着けている内から文字が溢れる予感で一杯であったのだ。だからこうして散歩に大層むいた日和であるけれど、それを敢えて遠ざけて書斎へ籠る事に決め、煎餅座布団へ尻を着けて居るのだ。それだのに、どうした事か、座った途端に此の様である。全体何が原因かと首を傾げる。筆は一旦手から離されて机の上へ、真白の原稿の上へ転がされている。部屋の小窓からは日が斜めに差し込んで、今時分は私の右肩辺りを照射する。外で雲雀が囀っている。二輪車が一台通ったようである。某かの足音もぽつぽつ聞こえて来る。右から左から行き交うようである。
 私はどうも耳目を外へ連れ出していると自覚する。此れはいかんと腕を組む。先ずは目線を机上へ移してみる事にする。要するに枕の自分を再現する積りである。私は意識と時間を遡り目を瞑った。然しこの時、家内が俄かに騒々しくなってきた。私は意識を過去へ集中させる。甲高い声が響く。私の瞼はあえなく持ち上げられた。

 先刻から下で子どもらがわいわいがやがや五月蠅くって不可ない。襖を開けて、「静かにしろ!」とどやしつけてやろうかと思ったけれど、それでは自分の集中できていないのを露呈するようで、其れは己の自尊心が許さぬ。又狭量と決めつけられるのも癪であった。ここは敢えて放ったらかしにする事に決める。胡坐を正座に変えてみる。背筋を伸ばせば気持ちも新たに筆を執れそうである。いい心持ちがして来た。そう思えた矢先、今度は書斎の戸棚の後ろでかさかさ云い出した。小動物の類か、隙間風の悪戯か。どっちにしろ気に障る音だと思う。どうも集中できん。懐から朝日取り出して、一本吸い付ける。書斎で煙草を呑むと女房が好い顔しない。私がこの家で唯一と云える、己の為の自己領域に於いて煙吐き出すのが、何故そう迄気に喰わないのか、是非問い質したいのだけれど、今の所未だ機会に恵まれん。念のため断っておくが、私は屹度機会さえ与えられれば遠慮なく己の主張を押して行く積りである。只今は残念ながらその機会に恵まれない立場に在る事を、此処に申しておくのみである。

 階下で一人泣き出した。きーきーまるで子猿の様に泣いている。どうせいつもの如く次女が三女を泣かしたのだろう。早く長女が宥めに掛からんかと思う。大体いつもこうなのだ。始めこそすわ何事かと階段を駆け下りたものだったけれど、実際現場へ立ってみれば、何の事は無い、喧嘩の原因は玩具の取り合いだの言葉の調戯いだの、人形の櫛の所有だの、実に詰まらん事ばかりである。理由を聞いた私が懐手して「何だくだらない」と口走ったがために、小事が瞬く間に大事になったことさえあった。だから私はもう駆けつけんと決めておる。男子危うきに近付かずである。
 そう述べている間に階下が静かになった。大変結構である。戸棚の向こうも知らぬ間に静かになったようである。よしよし。私は灰皿へ呑みかけを潰して、愈々筆を握る。

 外が穏やかである。風が無いのかしら。私は早々また意識を外へ持ち出し始めていると気が付き、眉を動かして机に向かう。
 静か過ぎる。静か過ぎてかえって集中できなくなった。机の周囲に視線蹴散らして不図書状袋が目に留まる。そうだ手紙を一通書こう。うん、書かねばならぬ返事が一通あった筈だ。私は早速原稿用紙の上に便箋を広げた。
 途中記憶に曖昧があって何度か広辞苑を引いた。画数の多い漢字に一寸だけ苦しむ。何故こうも手数が掛かる字になったのか、もっと簡単であれば良いと身勝手思い出す。例えばボタン一つで文字が出来上がればどれだけ楽かしらん。馬鹿な夢想した。手紙はあっと云う間に書き上がった。散歩がてら出しに行って来ようか、それともも少し後へ出掛けるか。表へ住所認めながらこう思案していると、階下で合唱が始まる。つい今しがたの喧嘩が嘘のように歌声重ねて陽気である。かえるが三匹居る。一匹が少し出遅れる。それから二度目を繰り返している。どんどん勇ましさが増す様である。遂に三度目が始まる。楽譜を好き好き外れていく。全体何匹居るのか、そろそろ耳が飽いて来た。何故子どもと云う生き物はああも繰り返しが好きなのだろうか。誰か論文でも書きやしないか、今度図書館で調べてみようかと思う。 

 どうも今日は不可ない。思考が創作を外れて勝手に雑学初めてしまうようである。然し私は不意に思い付いた。この日々の営みを其のまま原稿へ広げてみてはどうだろうか。いや味付けしても構わない、三姉妹の喧騒を愉快に認めてみるのも面白そうである。表題はそうだな、「三姉妹日記」はどうだ。駄目だ。在り来たりだから仮題としよう。兎に角それで一つ書いてみようじゃないか。
 私はとうとう筆を走らせ始めた。面白い予感に早くも胸が躍り出す。大変に良い心持ちである。私が口角を上げたまさにその時であった。
「あなた、また書斎で煙草お吸いになったでしょう。物干し場が風下ですから洗濯物へ臭いが移って困りますって云うじゃありませんか」
「あ、ごめんなさい」
 私は階下に向けて大人しく声を張り上げた。そうして先に手紙を出して来ようと決めた。

 今日は大変に良い散歩日和なのである。

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