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掌編「我が手のひらの使命と気儘と埒外の仕業」


 今朝シャワーを捻っているのにいつまでも湯が出ないと思ったら、給湯器の電源を入れていなかった。通りでいつまでも水である。驚いたと云うよりも、私は自分の所業に呆気にとられた。此れはいかんだろうと思う。首を捻りながら腕を伸ばし、人差し指でスイッチを押して、今度こそ湯を待つ。梅雨の癖に良く晴れて、今朝も浴室内は明るい。時を置かず溢れ出した熱いのを、生身の自分に浴びながら、人知れず己のうっかりについて向き合っている。

 こんな当たり前のこと、忘れる程の所作だろうか。ごみを持てば屑籠へ放るとか、廊下を歩く時はスリッパを履くとか、トイレに入ろうと思えば電燈のスイッチを入れるとか、右足がズボン履いたら左足を持ち上げるとか、札束が見えたら手を上げて所有権を主張するとか、そんなものは全部無意識の範疇で行われて然るべきではなかったのか。それとも私が悪かったのか。意識をあやふやにしたまま風呂場の敷居を跨いできた私が悪かったのだろうか。手桶に湯を張り顔を洗う。マスクの所為で近頃口の周りのニキビが治り切らずまた痛い。

 釈然としないまま身奇麗になって、風呂場から脱衣所へ帰還する。服を着て、頭を無造作にわしわしやる。不図鏡の自分と目が合った。訝し気な顔をしていた。先日自分で散髪したばかりの短い髪が、好き放題毛先を傾けて、なり損ないのサイヤ人みたようである。黒いけれど。

 そのまま洗濯機を回すことにして、手を動かす。両手は慣れた手つきで洗濯物を槽の中へ放っていく。ここで私ははっとした。洗濯機を回そうと思ってから後ろの行動は、全て無意識の所業であると気が付いたのだ。今まさに、無意識に洗濯機を回す段取りをしていた。無意識にネットを取り上げては、無意識に偏らぬようネットへ入れる洗濯物の量を加減して、無意識に液体洗剤をキャップで計量していた。これはと脳が騒ぎ出す。思考は宇宙へ飛び立たんとしているが、取り敢えず洗濯機の電源を入れて洗濯を開始する。そうして私は、両の手のひらを見詰めた。

 今、肘から先を重力に逆らわせて持ち上げ、己の目によく観察されるよう、手のひらを返して見詰めている。中指と薬指のすぐ下には日課の素振りで出来た肉刺(まめ)がある。頑丈にできていて痛みなどは無い。唯の厚い皮だ。血が通っていない皮だから他よりは黄色い位である。さて、全体この手は何のためにあるのだろう。丸めれば幾ばくかの水を湛えられそうな、皺を刻んだ五角形から、すっくと伸びる五本の指は、どんな理由でそこにあって、この先どうなりたいのだろう。ただ自分と運命を共にして、動かすだけの人生で、それで満足なのだろうか。自慢できるほど奇麗でもなく、長くもない。寧ろ短い。日々の酷使で、切り傷が絶えない。乾燥もしている。飛び切り熱いときもあるし、不健康そうに冷たい事もある。

 この手で、それでは自分は何がしたいのだろうと考えてみる。物を掴むには必須だ。バランスを取りながら両手で物を抱えるには、十本あることもありがたい。十本あれば可能性を広げる事もできる。仮に右手の五本にとんがりコーンを被せても後五本あるから、まだ遊べる。まだとんがりコーンを食べる事が出来る。指そのものだけでなく、指の間を使う事もできる。例えばワイングラスを持ち運ぶには、指の間が活躍する。手が小さくともそれで五脚は一気に運ぶことができる。便利な使い方である。だがそれらは本当に自分の指でやりたいことかと問われると、はてなと首を傾げてしまう。
 凝と手のひらを見詰めている。ある筈なのだ、求めているものが。もっと他に、使いたい希望が、ある筈なのだ。

 そう、触れたくっても触れられないものがある現実。ただ手を伸ばすだけでは容易にならない実際。十本もあるのに。指先までは俄然こちらの思い通りになるのに。空想と幻想と夢想と理想の中でならいくらでも叶えられるのに。それだってひどく現実的であったりするのに、触れたと思うと途端にリアリティがなくなる。全ては一斉に空虚へ旅立つ。

 埒外にあるのだ。嘆かわしいことである。虚しくっても仕方が無い。乾いた笑い零す。笑ってなんかいないで慰めて欲しいけれど、片頬を持ち上げて笑って遣る。ああ、触れられればいいのに。どんなにか、いいのに。明後日へ、夢の中へ、縋る様に、祈る様に手を伸ばす。
 洗濯機が止まった。一回水を捨てる為に止まった。私はううむと唸る。電源を押し忘れた手。そいつを引き摺る自分。情けないのは全体どちらだ。

 今朝も今朝とて暇ではないにもかかわらず、黙々思考を頭上に燻らせて、淡々と脱衣所を独占している。良い風が入る朝であると思う。

                         おわり


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 今朝風呂場でお馬鹿さんをやらかして長編の推敲すべき時間にこの無駄な掌編を書かせた思考泥棒の犯人を参考までに載せておく。お巡りさん、こいつが犯人です。釈然としない顔をしています。
 それだのにもしもここまで読んで下さる方が存在したとしたら、その人はもう世界平和の象徴だ。丁寧にお辞儀します。くだらないが大好物なのである。念のため、謝ります。ごめんなさい。    いち


※追記・・犯人が自主したので写真掲載は取り下げ、代わりに鯉を差し出しております。



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