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掌編「博士の憂鬱と時子さんの手袋と助手の高木」


 スチール机の上から目覚まし時計が落ちた。書類やファイルで複雑な山となっていた机上は、これで雪崩を起こして次から次へと足元へ散らばって行く。リノリウムの床を一際遠くへ滑って行ったのはピンクの蛍光ペンであった。


「博士、大変です!起きて下さい!!」
「うるさいよ、もう起きとるよ」
「そうですか?目覚まし時計が鳴らなかった時は起こせといつも仰るから」
「見てわからんか、それ以上に大きな音が今ここで発生したんだ。これで起きない奴の気が知れんよ」
「はあ」
「ぼうっとしてないで君も早く拾い集めんか」
「分かりました!何から拾いますか?」
「全部だ!」
「元に戻せますでしょうか」
「いいから手を動かせ。全くもう、どうして君みたいなのが私の助手をやってるんだ」
「・・・時子さんの方が良かったですか?」
 足元へしゃがみ込んだまま悪戯な顔を上げた助手の顔へ、博士は拾ったばかりのクリアファイルを叩きつけた。


 時子さんは真っ白な雪の中でも際立って眩しかった。きらきらしていた。空からただ降って来るだけの、水の固まったり結晶化したものになど全く興味の無い博士であるけれど、この時生まれて初めて季節だとか天候だとか云うものへ関心を寄せた。地球は自転しながらこんなにも美しく色を変えていたのかと、震える程に感動したのだ。しかし博士の心を揺さぶった大きな要因は、世界の織り成す色彩美ではなく、その中へあって決して引けを取らない、時子さんが放つ純潔な輝きの方であった。

「あの人の名を気安く呼ぶな。馬鹿者」
 叱責しながらも心は簡単に思い出へと浮遊する。


 それはもう一年も前のこと、雪の積もった日の思い出であった。博士はピンクの蛍光ペンを手に、書類相手にぶつぶつ云いながら雪道を歩いていた。危うい足元を疎かにして、案の定躓き、拍子に蛍光ペンを落としてしまった。あ、と思った時にはペンは雪の中へかくれんぼ、さあ見つけてみろの一騒ぎとなった。博士は風情の欠片もなく無暗に清潔な雪を散らしながらペンの在り処を探した。手荒な真似した所為ですっかり見つかりにくくなってしまった蛍光ペンを、むきになろうか諦めようかと思った矢先、
「もし、お探しの物はこれじゃありません?」
 と美しい声が掛けられた。雪に埋もれた博士は、瞳を見開いたまま声も出せずに、ただ己の掌を差し出した。蛍光ペンが手渡された。冷たい指が触れて、博士ははっとした。
「誠に済みません、助かりました」
「雪上に梅の花が咲いたのかと思いましたわ」
「あ、はははは、いやどうも、済みません。いやはや、雪ですか、あはは」
 博士の称号失くする程の支離滅裂であった。心が浮付いて、重力に抗って立っているかも怪しい博士の後ろから、剽軽な顔がいきなり飛び出して口を開いた。
「もしかして恵子さんですか?」
「いいえ、私は時子です」
「そうですか、失礼しました。人違いでした」
 時子さんは雪道を静かに歩いて立ち去った。その足跡の清らかなること、誠に冬の華であった。
「博士、あの御婦人は時子さんと云うそうです。これは僕の手柄じゃありませんか」
「うるさい」
 博士は鼻の頭を滅茶苦茶に擦って首を振った。振り回した御蔭で雪上の落とし物に気が付いた。それはボルドー色の皮手袋であった。女性向けのものであると無粋な博士にも分かりやすかった。博士は慌てて足跡の先を見詰めたが、既に後ろ姿なく、白き世界のみ広がるばかりであった。


 以来博士は手袋を大切に保管して、お返しできる日を長々待っている。ただ、時子さんが何処の人だかまるで知らなかった。唯一残された手掛かりは、ピンクの蛍光ペンに触れる度蘇えるあの人の優しさであった。冷たい指先であった。


 机上の山を着々と元へ戻しつつある二人だが、博士は不意に気が付いた。
「ない、高木、無いぞ」
「何がですかー」
「蛍光ペンだよ、ピンクの蛍光ペンが見当たらないんだ」
「ええ、デスクの上に残ったんじゃありませんか」
「いや違う、このファイルの横へ置いていたんだから。これはいかん、他のは全部後でいい、蛍光ペンが最優先だ!探せ探せ!絶対この部屋にあるんだから」
「本当ですか?」
「助手が先生を疑ってどうするんだ」
「お言葉を返すようですが、研究者たるものいつだって疑問を持つ事は大事ではないでしょうか」
「む、言えとる」
 博士のいさぎよさに、高木はにっこりと大きな歯を見せて笑った。
「探しましょう、屹度きっと見つかります。そう遠くへは行ってない筈だ」
「だから私がさっきからそう云ってるんだ」

 二人して四つん這いになり、真剣に冷たいリノリウムの床の上を探し回っている。書きかけの論文の原稿も、キリンの形のクリップも、これしか信用しないと云って聞かないアラビックヤマトの糊も、足元へ置き去りのままにされている。
「早く渡せるといいですね、手袋」
 またしても顔面にクリアファイルを浴びそうになった助手の高木が大きく後ろへ仰け反った時、彼の左足のスリッパの踵が、ピンクの蛍光ペンを弾いた。ピンクの蛍光ペンはスチール机の下の、一層奥深くへ転がっていった。


おわり


お読み頂きありがとうございます。「あなたに届け物語」お楽しみ頂けたなら幸いにございます。