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「それじゃみんな自分のクーラーボックスを椅子代わりにしてね。キャンプの話を始めるよ。」



 夏の長い一日の終わり、海岸沿いの砂浜は、まだ少し熱を持っている。寄せては返す波の向こう、漸く日が沈み始めた。松林からはヒグラシの声。辺りのテントからも、ちらほら煙が上がる頃合いだ。ぱち、ぱちと燻る炭の音。バーベキューの香ばしい香り。火を囲む人々の談笑。不図気が付けば夜の海。自然の風に囲まれると、ここはもう、社会じゃない。様々な人生の交錯する、着飾らない一夜の始まりである。

 さあ、わが家のテントにも火が熾った。折角の御縁だ、一つ懐かしのキャンプの話をしようか。


 私が物心つく前から、わが家は毎年キャンプに出掛ける家庭だった。そんな家だから、テントに飯盒、浮き輪にバーベキューセットなど、道具は一式狭い自宅にも関わらず揃っていた。両親が浜辺のキャンプが大好きだった御蔭で、私の夏休みは毎年キャンプ色に染まっていたのだ。

 大体ひと夏に二回は計画するのだが、年に拠っては三回行った。ただ三回目はお盆過ぎになるのが常で、お盆を過ぎると海には決まってクラゲが出る。家族みんな順番に刺された。

「これがもう、痛いのなんの、ミミズ腫れ」  

 他にも水不足の年、鮫騒動の年もあった。どれも私が小学生の頃の思い出だが、夏が来ると、熱い太陽の陽射しを浴びて、思い出す。波音耳の傍に聞いて、鮮明にテントの匂いを呼び覚ます。足裏に、砂浜の居心地を甦らせる。浮き輪で揺られる、波の居心地を思い出してしまう。

 それに、記憶の鍵を開ける手段はもう一つある。母は写真が大好きな人だったから、わが家には大量の家族写真があるのだ。子ども一人ずつにアルバムを用意してくれて、こつこつ、生まれた時から作ってくれたアルバムが、何十冊も。これを一冊広げてみてもよいのだけれど、そうするとこの火が消えてもまだ話し続けなくっちゃならないだろうから、今夜は自分の記憶を頼りに語る事にしよう。


 自家用車でキャンプ場に到着すると、荷物を下ろして、サイトへ運び、テントを立てて、ご飯の用意をする。という流れが主流であったが、子どもの私は一刻も早く大海原へ飛び出したいのである。なにしろ海がこっちだぜと呼んでいるのである。テントさえ立ててしまうと、着替える場所が出来たとばかり、あっという間に水着姿となって、浮き輪をぜえぜえ云いながら膨らましている。私には上に兄がいる。いつだって兄の方が先に浮き輪を完成させる。悔しいので板ボートも膨らまして持って行ってやろうと算段するものの、波に浚われても対処できないから後にしなさいと止められる。私は泳げない人であるから、母の云い分は最もである。仕方が無いので自分の浮き輪だけを身に着け、もういいか、遊びに行っても良いか、準備体操は終わった、兄とは離れず遊ぶから、妹からも目を離しません、勝手に沖には出て行かないから、もういいか。

「気を付けるんよ」

 よっしゃーOK出ましたー!!とばかり砂浜に飛び出す子どもたち。踏み締めたサンダルの端から焼けた砂粒流れ込んで「熱っちい!」を連発する子どもたち。波に浚われない場所でサンダルを脱ぐと、えいや!と海へまっしぐら。真っ青で、どこまでも続く広い、広い海が、今年も目の前にあって、どこからでも掛かって来なさいと云わんばかりに迎えてくれる。そんな気がして、跳ねる様に嬉しかった。

 暫く遊んでいると、お昼だよと一度浜へ引き上げられる子どもたち。サンダルを砂まみれにしながらテントへ戻ると、ラジオが流れている。わが家のキャンプの定番であった。それから父が完成させたテント基地で、母の作ってくれた素麺やカレーを味わう。どんな味よりも舌に馴染んだ母の味が、一歩外へ出て食べるだけで、一層美味しくなるから不思議だ。

 お昼ご飯を終えると、愈々本番とばかり、今度はみんなして海へ繰り出す。テントは空っぽ。貴重品は母がビニールバックに入れて持ち歩いていたようだけれど、それにしても大胆だと、今にして思う。けれど何だか、仮令明日キャンプに出掛けても、おんなじこと、していそうだ。

 浮き輪を付けた私はいつだって怖いものなしの気分で、あっち迄行ってもいいかと、沖にある遊泳区域のネットを指差して強気発言。
「浮き輪外したらいけんよ」
「あのネットを越えたらいけんよ」
 と云われて、兄と一緒にいざ挑戦。バタ足で威勢よく、時々振り返って家族に手を振りながら、波に戻されつつ沖の方へ。バタ足に疲れて海水にちゃぷんと足を浸けた時、

―あ、地面に足が届かない。しかも、冷たい―

 その衝撃たるや、途端に恐ろしくなる私。不図振り返ってみれば砂浜が随分遠い気がする。沖のネットまでもう少しのはずなのに、怖い。先刻まで親しんでいた大海原が、手のひら返したように恐ろしい怪物に思えて来る。ひょっとしたら自分はこのままアメリカまで流されてしまうんじゃなかろうか等と、途方も無い想像を逞しくする。そう思い出すと、もうその先へは泳いで行けない。浮き輪にしがみつく私。兄はそんなびびりな私に構わずバシャバシャと軽快に進み続けている。海の底の方の海水がとっても冷たいのに気が付いてないのかな。そんな心配抱きつつ、叫んでみる。
「お兄ちゃーん」
 ちらっとこちらを振り向く兄。バシャバシャ派手に水飛沫。
「お兄ちゃーん」
 バシャバシャ。駄目だ、行く積りなんだ。悔しいけど仕方が無い。自分だけで戻ろう。よく見たら浮き輪無しでずっと向こうまで泳いでる人が居るし、万が一兄が危なくなったら、ビール飲んでるけど泳げるお父さんか沖のあの人たちに助けて貰おう。勝手にそう決めて私は一路浜辺を目指す。結構急いで戻る。真顔のバタ足。

「おかえり」
「下の方はね、すっごく冷たかった。それとね、足になんか当たった」
 立ち上がって浮き輪を掴んだまま報告する。まるでそれを確かめるのが自分の使命であったかのように。畢竟大地に足を付けて生活できるって素晴らしい事なのである。足元が見える暮らしは素晴らしいものなのである。

 キャンプ場は、年を追うごとに色々と整備されていった。自然のままが好みのわが家には、あんまり整い過ぎたキャンプ場は合わず、何度か場所を変えた。米子の海に通った数年もあった。そこは波が高い場所があって、浮き輪で挑んだ小学校高学年位の私と、中学年位の妹は、浮き輪ごと引っ繰り返されてしまった。波に揉まれ海水を飲んで訳の分からぬうちに浜へ押し戻された私たち。自然の偉大さを身をもって知った瞬間であった。

「波高く 子を打ち上げる 米子の海(み)」

 中学時代にそんなキャンプの光景を詠んだ句である。記憶の一端から零れ出て来たので、今夜久し振りで広げてみた。

 それから他に、遠浅の海にキャンプへ出掛ける数年もあった。何処までも浅い砂浜が続くと聞いた私は、安心して歩いて沖へ向かう。浮き輪は外さない。けど、遠浅の海は、或る箇所まで来ると、がたんと砂浜が一段深くなり、やっぱり急激に冷たくなっていた。年々そのひやりとする感覚を味わうのが楽しくなってゆく私。今度は下の子らが恐る恐る海を歩いている。怖いと云って引き返してくる。泳ぎに全く自信の無い私は、弟妹を無理に沖へ連れていく事はしなかったけれど、各々の浮き輪を合体させて、せーので沖へ泳ぎ出す事は何度もやった。「冷たくなってきた!」上の子が盛り上がってくると、下の子が段々怖がり始める。仕方ないなあと云いながら、またみんなで泳ぎ戻る。そんな事を繰り返すうち、「今度はあそこまで一緒に行ってみよう」と、下の子が言い出すようになって。少しずつ、いつの間にか、海遊びに慣れて行く。帰る頃には、浜に上がっていてもみんな波に揺られている様な感覚が抜けないで、遊び疲れてぼーっとしている。

 一泊二日か、二泊三日のキャンプは、海に遊び、砂浜に風呂を掘り、テントで夜更かしをして、翌朝にはラジオの声で瞼を閉じたまま手足を曲げ伸ばし、松の幹によじ登ってお菓子を食べ、蝉に無用な挑戦を吹っ掛け、ピーマンを切って、頬を真っ赤にして炭火の守りをしてみたり、紙コップのUCC珈琲に憧れて、火を囲んで肉を焼き、手持ち花火で燥ぎ、西瓜割りで燥ぎ、喧嘩をして、お菓子の交換で仲直りをして、思い出の貝殻を拾う頃には、家へ帰る時間がやって来るのだった。

 立てたテントを、今度は畳む。小さかった時分はすっかり遊び疲れてしまって何も出来なかったけれど、大きくなるにつれ両親と共に動ける様になった。荷物を車へ詰め込んで、何にもなくなった浜辺へ戻ると、落とし物はないか、ごみは残っていないか、みんなで歩いて確認する。
「よし、帰るか」
 振り返って海を見つめる。海はそこに在る。来た時と変わらぬ様子で、沢山の人々を迎えて、寄せては返し、出会い様々、思い出様々、全て受け止めても屹度青いまま、ずっとそこにある。私は波の音を耳に刻んで、日に焼けた顔や背中をひりひりさせながら車へ向かった。

 キャンプのいろはは全部両親が教えてくれた。キャンプが最高に楽しい夏の過ごし方だと、両親が教えてくれた。



 そこの薪を取ってくれるかい。すっかり火が小さくなってしまった。おや、水平線の彼方が紅く染まり始めたようだ。そろそろ潮時かな。それじゃ今夜はこの辺りで解散としよう。みんなすっかりお尻が痛くなったでしょう。最後まで聞いてくれてありがとう。
 そうだ、ひと眠りしたら、砂浜でまた一緒に夏しようじゃないか。待ってるよ。


                       おしまい



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