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短編「違和感」


 友人の竹中君が久し振りに此方こちらへ帰って来ると云うので、駅まで迎えに行く事にした。彼女へ話したら自分も行きたいと云うので、二人して駅のホームへ立って、木枯らしに吹き付けられつつ竹中君の乗って来る電車の到着を待っていた。

 暫くすると、私たちの待つ五番線へ、ヘッドライトの目玉を光らせた特急電車が、滑らかにカーブを描いて線路を走って来た。減速が加わり、滑り込む様にホームへ到着すると、間もなくホーム側のドアが一斉に口をいた。私と彼女とは、二人して首をきょろきょろさせながら、出て来る人物の顔を一人たりとも見逃すまいとする様に、黒頭のどんどん飛び出してはホームへ散って行くのを次々と目で追った。私たちの立っているのはホームの丁度真中まんなか辺りで、割合近くに階段とエスカレーターとエレベーターとがそれぞれ用意されていて、別のホームへの移動も、改札へ向かうのにも、みんな必ずいずれかを使って一度上の連絡通路へ上がる必要が在る。


 エスカレーターを使う者が余程多い為、ホームからして続々行列が出来上がっている。私たちは段々後ろへ伸びて来る列へ遠慮しながら、それでも電車の方を見詰めて、竹中君が降りて来るのを待っていた。もう車両の中に居る人数は大分少ない。私も彼女も、まさか見逃しただろうかと、気を揉み始めた。竹中君へは、私たちがホームで待っている旨事前に伝えて於かなかったから、あるいは此方の出迎えに気が付かずに先へ行ってしまったろうか。私はホーム上の人の塊へ視線を転じてみた。すると、雑踏の中へ、まるで人の流れから孤立して立ったような一人の男が居た。私とその男とは、真っ直ぐに目が合った。やがてコートの連中がことごとく男を通り越して、ホームへは男だけが残った。私が口を開けないで居る間に、然し男の方がこちらへ歩み寄って来る。その顔は既に親しみに溢れ、懐かしい空気を味わう気質に満ちていた。

「やあ。久しぶり」
 まるで昨日の続きの様な身軽さで、にこやかに片手を上げて、歩いてこちらへやって来る。背が高くて、胸板の厚くて、だけども中年腹も立派に持った、友人の竹中君が、皮製の旅行鞄を引っ提げて、揚々と歩いて来る。
 私はつい戸惑った。それで竹中君が小首を傾げる。
「どうしたんだい、妙な顔をして。僕の顔に何か珍しい物でも付いているかい」
「あ、いや・・」
「それとも、あんまり久方振りだものだから、まさか親友の顔を忘れてしまったと云うんじゃないだろうね」
「そんなこと、勿論、憶えているとも。久しぶりだね、元気だったかい。いや、見るからに元気そうじゃないか」
「うん、相変わらずさ」
 そう云うと竹中君は空いている方の手で自分のお腹周りを軽く叩いて見せた。彼が笑うと昔から白い歯がにかっと覗くから愉快である。
「君の方こそどうだ、元気にしてたかい」
「ああ、何も変わりない。恙なく暮らしているよ」

 私は此処ここで首を動かして、自然な様子を心掛けながら彼女の方を見返った。私の斜め後ろへ立っていた彼女は、やっぱり再会を喜ぶ人の顔で、竹中君を見詰めている。私は顔を戻した。振り返ったのを合図と捉えたのか、今度は彼女が口を開いて竹中君と再会を喜び合っている。久しぶりね。ああ、懐かしいよ。ちょっと太ったんじゃない?そうかなあ。それより、わざわざここまで出迎えに来てくれてありがとう。どういたしまして。彼が、竹中君が帰って来るから駅まで出迎えに行くって張り切っていたものだから。そうか、嬉しいな。

 二人の会話は流れる様に、親しく交わされていく。私も笑ったり頷いたり、少しばかり照れたりしながら横で聞いていた。三人は一見するととても穏やかな空気の中に居た。無論私はこの平穏を真実の光景として受け止めていたかった。だがこの時、実際の私の心の中では、大きな疑問が渦巻いていた。

 この男は本当に、あの竹中君なのだろうか。あんまり奇天烈な事は重々承知で、しかしながら私は、先刻さっきからの事が、詰り男と目が合った時から、この最も根本的な部分が気になって仕方が無いのだった。それなら何がどう不審なのかと問われても、一寸ちょっと答えに窮する。顔形、背丈、佇まい、物云い、癖、持ち物、服装の好み、どれを取り上げても、確かに友人の竹中君である様に見える。先程試しに振り返って見た彼女は、全く疑う様子なく、当然の如くに竹中君と親しい口を利いていた。そうであるならば、矢張りこの、今私の目の前に居る男は、紛れもなく竹中君であろう。そう思いたいのだ。そう信じたいのだが、私には、どうしても男が竹中君には思えないのだった。

 五番ホームはすっかり人気が無くなって、後へ残るは我々三人ばかりであった。筒抜けの北風がひゅうひゅう吹き抜けては、悪戯にこちらを冷やかして行く。風に運ばれた落ち葉が目に留まり、私は不図思いつきを口に乗せた。
「そう云えば君は、銀杏並木が好きだっけ」
「ん?――ああ、そうだったっけか」
 おや。と思った。咄嗟に違和感を覚えた。何故竹中君は今の返答に妙な間を寄越したのだろう。その上空惚けた様に、銀杏の並木が好きなのかそうでないのかを、誤魔化しにかかったのだろう。以前の彼ならば、素直に好きだと云って笑ったように思うのだ。私の知る竹中君ならば、その後に続けて、君も好きだろうと、問い返してくれた筈である。私はそれと予想して、うん、変わらず好きだと、こうなってみると恥ずかしい次第だけれど、答える用意迄していたのだ。

 私の心の内で、不審感が募って行く。猜疑心も湧きおこる。然し同時に、このままでは竹中君に済まないとも思っている。早く疑惑を気持ちよく晴らして、三人して冬空の下を歩きながら、それとも熱いミルクティーでも啜りながら、来し方の出来事など存分に語り合いたいと思うのだ。その為には、彼女へも手伝って貰って、この私の心に生じた詰まらぬ疑心暗鬼のもやを払う必要が在る。私はもう一度彼女を見た。今度は頭を寄せて、竹中君からは見えない位置で口を動かし、そっと
「どう思う?」
 と問うた。彼女は一体何の事かしら云う様に首を傾げながら私の方を見た。
「不審を起こさないで欲しいんだが、彼は本当に、竹中君なのだろうか」
「あらなあに、違うとでも云うの?」
「いや、そう判然と云い切られては答えに窮するのだけれど、何だかどうも、別人のような気がしてね、そうかと云って、証拠を並べる事も出来ないのだけれど・・・」

「どうしたんだ、二人して。内緒話なんて、相変わらず仲が良いなあ」
 いつまでも私が背を向けていたからか、竹中君が割って入った。然しこの行動で、私は益々不審を起こした。私の知る竹中君は、私と彼女の会話に、無暗に割り込む不躾をしない人である。根っからのお人好しで、私の長年に渡る彼女への情を穏やかに後押しするべく、いつだって援護を欠かさないで居てくれる、大変人情に篤い心の持ち主の筈である。そう云う竹中君が、こんな風に人を茶化す真似をするだろうか。しない筈だ。

 私は遂に、目の前の男が竹中君ではない場合の理由を考え始めた。こんな奇妙な出来事を、そう簡単に謎解きできそうにはない。だが、例えば、第三者の介入の可能性があるとしたらどうだろうか。その場合、真っ先に思い付くのは罠である。理由は分からないが、誰かの、又は、或る組織の策略や陰謀に、竹中君が巻き込まれている。そして、彼の友人である私と彼女までをも巻き込もうとして、悪い人間が竹中君のフリをして近付いて来た。
 もしこれが事実なら、本物の竹中君の身が案じられる上に、私と彼女もかなり危険な立場に立たされている事になる。どうにか相手に、私が彼等の目的に気が付いたと気取けどられぬ様に注意して、早々此処を立ち去る必要が在ると思う。それではどうすればこの場を切り抜けられるだろう。私はまさか正義のヒーローでもあるまいし、まして刑事や探偵等でもなく、体力にも自信が無い。使えるとしたら、まだ衰えないほんの少しの脳味噌位である。これを使って、是非とも難関突破、そして、友人竹中君の救出と行きたい処である。

 私が一人でそこまで思案終えた時、彼女が、キャラメルブラウンのロングコートの前をきゅっと手繰り寄せる様にして、身を細めながら私に訴えて来た。
「取り敢えず移動しましょうよ。こんな吹き曝しの場所へ居座る必要なんてないんだもの。駅前にカフェがあったでしょう、あそこへ入らない?」
「賛成だ。僕もそろそろ喉が渇いた。熱いコーヒーが飲みたいね」
「私ミルクティーにしようっと」
 二人へ軽やかに誘いをかける視線を投げられて、私も否とは云えなかった。頭の中では疑惑と警戒とが恍惚と点灯中で、片時も気を緩める事が出来ないのだが、然し万が一偽者であるならば、矢張やはり油断はできないのだ。此処は一先ず素直に誘いに乗っておいて、注意だけは怠らない様にしよう。そうと決意して、私は彼女等へ同意を示した。

「それじゃ行こうか」
 そう云って私は、先にエスカレーターへ乗った。一定のスピードで淡々上へ運ばれながら、偽者の仲間がその辺りへ潜んでいるかも知れないと思い、辺りを注意深く観察していた。


「本当に全部忘れてるんだな」
「ええ、そうなの」
「僕の笑顔、引き攣ってなかったかい」
「ギリギリね」
 竹中は苦笑気味に引き攣った頬をごしごし撫でた。学生の時分から剣道で鍛錬した御蔭で腕に覚えはあるが、役者としては十分大根の自覚がある。ふうと息を吐き出して、小道具みたいな旅行鞄を足元へどさり下ろすと、強張った身体を解す様に肩だの首だのを順番に回した。
「然し、自分が記憶を失くしている事に気が付いていないなんて、厄介だな」
「そうね、(友人の竹中君)だって、そう聞かされたからそのまま呼んでいるだけで、実際に竹中君が友人であったか、仇であったか、彼は全然理解してないんですもの」
「一体彼は何を根拠に僕を疑ったんだろう」
「事前に私が写真を見せながら思い出話みたいに語ったのよ。懐かしいわね、竹中君はこうだったよねって」
「嘘を教えたのかい」
「そんなことしないわ。ありのままのあなたを教えてあげたの。そこに友人としてのあなたを結びつけたのは彼自身でしょう。自身が作り上げた想像と、目の前に現れたあなたが少しばかり違った。それで違和感を覚えたのでないかしら」

 ううむ。と竹中は腕を組んで唸った。腕っぷしに自信はあっても脳味噌はからきしである。人の頭の中で全体どれだけの働きがなされているか、彼にはさっぱりである。
 二人はたった今彼が上って行ったエスカレーターへ視線を運ばせた。
「どうすれば彼の記憶が元に戻るのかしら」
「原因は、やっぱり謎のままかい」
「ええ。健康診断にかこつけて色々と検査したけれど、何処にも異常なしって」
「科学で解けない謎なんて、僕には尚の事無理だろうな」
「日常生活には、今の処支障無いけれど、ずっと私が付いてるわけにもいかないわ」
「そう云えば、君の事フィアンセか何かと思い込んでいるのかい」
「さあ。彼は何も云わないから。でも、親しい人間と思っているみたい」
「ふうん」
 竹中はちらり視線を運んで彼女の様子を窺った。別段困っている風でも、嬉しがっている風にも見えない。
「もしも突然記憶が全部元へ戻ったら、どうするんだろう。やっぱり驚くかな」
「時と場合によるでしょうね。見知らぬ女が同じ部屋に居たら、やっぱりそれなり驚くでしょう」
「見知らぬ女って、母親の云う台詞じゃないだろう」
「そう?でもあの子、私の事はもう親とは思わないってはっきり言ったのよ。不倫するような人間は親として認めないって」
 云って竹中の瞳を見上げる。竹中は思わず目を逸らした。
「そう云う目でこっちを見ないでくれよ。これでも反省してるんだから」
「どうかしら。どうしたって、私たち同罪よ。彼を悲しませたことは事実。例えその事実を彼が忘れてしまっているとしても、私たちの罪は消せないわ。一生涯ね」

 竹中は口を結んで頷くと、彼女の肩へそっと手を掛けた。
「もう、終わってるのよ」
 容赦ない口振りに再び苦笑した竹中は、大人しく手を下ろした。いつの間にか二人して線路の先を見詰めている。
 二人共、或いはその原因に心当たりが在るのかも知れなかった。心臓をちくちく刺す針が抜けない理由を、分かっているかも知れなかった。だがお互いに、口には出せなかった。そう云う議論を持ち出す資格が、既に自分達には無いのだと、思っていた。
「そのコート、よく似合ってるよ。自分で買ったの?」
「彼が買ってくれたの。日頃の御礼ですって」
「――そうか。君に似て趣味が良い」
「ありがとう」
 ホームのスピーカーから、常よりも大きな音でメロディが流れた。続いて貨物列車が通過するアナウンスがあった。竹中はそれを合図にする様に彼女を見た。

「知らないままで、ここからまた新しい彼の始まりでいいのかも知れない」
 彼女は眉を寄せて竹中を見上げた。
「考えてもみたまえ、自分の知っている事を、例えば全部紙に書き出したとして、それは多分、この世界の知識や理の一割にも満たないだろうよ。つまり言い換えれば、世界の九割の事は、おそらく自分の知らない事なんだ。知らない事の方が多いんだよ、我々は。知らない癖に、知ったふりをして生きているんだ、強がったり、粋がったり、泣きながらね」
 竹中はエスカレーターへ視線を飛ばした。
「彼は此処から始められるんだ。新しく、自分らしく、今度こそ、自らの幸せの為にね。君も実は、そう思っているんじゃないのかい。自らの贖罪の為に、敢えて息子の前に戻って来た。違う?」
「買い被りだけど、彼が過去で私を切り捨てたとしても、私にとっては息子である事に変わりないから、責任を果たす為にここへ居るのよ」
「うん、相変わらずかっこいいね」
「何言ってるの、あなたもこれから責任を負うのよ」
「え?どういう意味だい?」
「あなたは彼にとって、友人の竹中君でしょう」
 竹中は漸く彼女の魂胆を知る事となった。
「同罪って云ったでしょう」
「ああ、そうだった」
 下りエスカレーターへ人の気配がする。五番ホームへ向かってくる足音は勇んでいる。不審を募らせて待ち切れなくなったのだろう。顔向ければ矢張り彼であった。
「どうしたんだい二人共。後ろ振り返ったら誰も付いて来ていないから、何かあったのかと心配したじゃないか」
「やあ済まない、ちょっと風が気持ち良かったものだから、ついね」
「この木枯らしがかい?」
「ああ、冬の冷たい風、僕は好きだな」
「・・・」
 彼は不意を突かれた顔できょとんと竹中を見詰めて、それからふっと笑みを零した。
「ああ、そうか、君は寒い季節が好きだったね」

 五番線を、長い長い、貨物列車が通り過ぎて行く。


                         終


                    

お読み頂きありがとうございます。「あなたに届け物語」お楽しみ頂けたなら幸いにございます。