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ペトリコールの夜

夜の坂道、バケツをひっくり返したような土砂降り雨の後。
街灯の光で地面はキラキラと白く光っている。
さっきから口元のマスクが苦しい。
僕は梅雨が嫌いだ。

「苦しいね」

隣にいた彼女がふふと笑った。僕の上司だ。

あまりにも苦しいので、僕は思い切ってマスクを下にずらした。
その瞬間、懐かしいような雨の匂いがした。

マスクをするだけでこんなにも匂いがわからなくなるんだ…僕はすごく驚いた。
どうりで、今年になってから日々が無味無臭なわけだ。


「雨の匂いに名前があるんですけど知ってます?」

僕は先日知った知識を披露しようと考えた。

「そうなの?」
「『ペトリコール』っていうんです」
「『ペトリコール』」

初めて聞いたのか、彼女はキョトンとした顔をした。

「そんなものにも名前があるんだ」
「僕も最近知ったんですけど」
「ふうん…何でも名前がついてるんだね」

確かに、と僕は思う。

大昔から人は分からないものを研究し、名前を付け、全てのものを分類してきた。いまや人間の周りにある全てのものに名前がついていると言っても過言ではない。それどころか最近では人間の性格を事細かに分類し、その種類や繊細な感情にも名前が付けられ、名もなきものを探す方が難しかったりもする。


ふいに、雨の匂いに混じって、嗅いだことのある花の匂いがした。
僕はその花の名前を思い出そうとする。

「私は、名前のないものに惹かれるけどな」
「何でですか」
「何でだろう。でも…大事なものが多い気がする」

彼女は首を傾げる。

「……僕は全てに名前があったらなんて楽なんだろう、って思ってますけどね」
「え、なんで?」
「だって便利だし。色々考えるの面倒くさいじゃないですか」
「はー。どうして男はみんなそうなんだろうね」
「えーちょっと」
「冗談だよ、冗談」

彼女は楽しそうに笑った。




駅に向かう彼女を見送った後、僕は歩きながらずっと考えていた。
彼女は何も分かってない。
この問いは、もう何年も共に。


好きとは違う。
単なる憧れでもない。
尊敬だけじゃない。
僕はずっと、これに名前が欲しい。




「だって、名前があればこの気持ちを伝えることが出来るから」





一人、呟いてみた。
花の名前を急に思い出す。
それはペトリコールと混ざってついさっきの記憶の中に溶け出した。




この感情に名前はまだ、ない。





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