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西成のおっちゃんに負けた話

6月、西成にやってきた

2022年春、噂の的になっている西成を歩いて以来なんか気になる。
知的好奇心とか、まとわりついている刺激の強い話とか。そういうのに一切関係ないかと言われれば間違っていないけど、ただ純粋に気になった。たぶん、地に惹かれた。

話は変わって、4月に地元高松へ帰ってきた。

「最近やたらロジカルに考えすぎじゃない?」「じゃあもと感性を高めよう」。
そんな簡単な流れで地元に戻ってアートイベントのスタッフやって、いろいろ考えた末にもっとたくさんの世界を知りたくなった。旅のきっかけはそんなところ。

そして、現在6月12日。
釜ヶ崎のとあるゲストハウスで滞在しながら生活している。


「ちがうけど、おなじ」

西成の噂はいろいろと聞いた上でやってきた。
三大ドヤ街の一つ、日本のスラム街、もしくは国内のインド。

(念の為、暴動を起こした年代層の人達はすでに高齢化していて治安はかなり安定していることはインターネットで調べてから現地に来ている)

いろいろ言われてるけど、現地を見たわけではないしな。

データで知っても自分の目で見たかった。身体で土地を感じたかった。なんで場所に惹かれるのかをどうしても知りたかった。

6月初日に現地を歩いて、見て、暮らして。
感じたこととしては、「ちがうけど、おなじ」ということ。

危ない話がある土地でも、そこで暮らしてる人は普通の人だ。

歌が上手い人。
人のお金でお酒を飲む人。
「怒ってる?」が口癖の人。
憎まれ口をたたく人。
幸せそうに珈琲をすする人。

みんな変わってるけどそれはどこにいても同じことで。
自分とは全然ちがう人間であって、自分と同じこの世界に存在して生活している人たちに変わりない。

インテリアではかないっこない

西成の人達はアーティストだ。
それは、本人たちがアーティストを名乗っているとかじゃなくて、表現が素晴らしいという意味で。

西成にあるひと花センター(公民館みたいな場所)で、詩の時間があった。

詩の時間は、みんなでお話してその内容を詩にしましょう、という時間。
詩人のかなよさんが音頭をとって、それぞれペアでテーマにまつわる話をして詩を作った。

私とペアになったおっちゃんは、耳が聞こえにくい人。
なるべく大きな声で話すようにして、お互いが描いた絵を見せ合いながらテーマの「雨の想い出」についてお話した。

「これはおうちで過ごしてるの?何してる時?」
「部屋で珈琲を飲みながら雨音を聞いてるの」
「どんな気持ちだった?」
「切ない、けど嫌な気持ちじゃない?」
「好きな時間?」
「好き」

「これはどんな時だった?」
「BBQの買出しで大雨で風もすごくて一キロ以上歩いた。その時、助けてくれ!って念を送って、仲間が誰も来れないってわかってたけど」
「この時にどんな気持ちだったの?」
「つらくて泣きそうやった。泣くの我慢してね。途中で「3日食べてないからなんかくれ」言われたけど断った」
「ちなみに当日は楽しかった?」
「当日は楽しかったよ!」

他愛のない話をしたあとに、詩を作った。作った後の発表の時間でショックを受けた。と、同時に思った。

(ま~たインテリアみたいな文章作っちまった!!!!!!!!)

西成のおっちゃんたちはすごい

詩の発表で、ハッキリ「負けたな」と思った。
西成のおっちゃんたち(別におっちゃんじゃない人もいるけど敬意を表してこう呼ぶ)は、ほんとにすごかった。

即興が入ってセリフが飛び出してきたり、しっとりと昔の想い出を振り返って語ったり。聞かせる力がすごいのだ。しかも、リズム感とかそういうのじゃなくて、彼らはあるがままにありのままに語る。
皆が皆、本気だし素直だしそのまんまの自分だ。伝えようとする意志があるし、飾らない美しさがある。
「詩ってものはこういう感じかな?」なんて小手先の考えと字面のキレイさで勝負しようとした時点で負けだった。心底悔しい。

私に雨の日の想い出を話してくれたおっちゃんは、私の想い出に素敵な詩を作ってくれた。

好き。

外は雨。こんな時一人でボーと
しているのが好き。雨の音がキレイ
雨音で落ち着く
人と話をするのも好きだけれど
こうして一人でいる時間が好き
人生の中でこうしているのが大切だと
そう思う 自分が好き。

はるトラ


おっちゃんの詩を聞いたときにじーんとくるものがあった。お飾りの言葉じゃない、この人の中にあるものが形になったもの。それがおっちゃんの詩なんだと思った。

言葉は飾らなっくてもあるがままで美しいってわかってたはずなんだけどなあ。
頭で筆を執っていたことに、西成のおっちゃんにこの日気づかされた。

表現って難しいだろうか

詩の時間が終わって、ゲストハウスに帰ってきた。

Tさんに「西成のおっちゃんたちに表現で負けたと思った」と話したら、「それがわかるのはええことや」と言われた。

私は一方的に「負けた」と思った。
文章を書いている人間だから、これが奢りになった。

でも、西成のおっちゃんたちにとっては詩で負けたもへったくれもないんだろう。
おっちゃんたちは感じたことをそのまま伝えてるだけで、言葉の体裁なんて気にしてない。
その正直さが心を揺さぶってるんだ。

これまで文章を書く人に会ってきたし、自分もいくつかの名乗り方をした。

物書き、ライター、字書き、文筆家、詩人、新聞記者、ストーリーテラー。

どれも文を扱う人だ。
だけど、名前が違えば意味合いも違う。

西成のおっちゃんたちは、おそらくこれらのどれでもない。それでも、優れた表現者だと私には思えた。

世界には言葉が溢れている。
私は言葉の可能性を信じているし、大事にしている。だから、いつも言葉と向き合って生きてる。
思慮深く吐く言葉をなぞって触れて考えて。慎重になるあまりに本当に表したいことから遠ざかったりもした。

表現はそんなに難しいだろうか。

歌いたいから歌って、描きたいから描いて、書きたいから書く。
私が西成で出会った人達は、生きてる延長線上でその時にやりたいことをしてるだけだ。

文章を書くことは難しいけれど、そんなに難しくもないのかもしれない。

別にショックを受けたから西成のおっちゃんたちに倣って表現を変えよう!というわけでもなく、自分なりに言葉を連ねていこう。

そんなことを考えながら、今これを書いている。


ちょっとした余談。

詩を作ってくれたおっちゃんに「素敵な詩を作ってくれてありがとう」とお礼を言ったら、「好きだって言えるのはすごいことだと思います。大事にしていってほしい!」と笑顔で返された。

おっちゃんたちに勝ち星を挙げるとしたら、それが鍵なんだと思った。


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空峯 千代
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