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「もう、これでおわかれなんだ。はかないものさ。実際、教師と生徒の仲なんて、いい加減なものだ。教師が退職してしまえば、それっきり他人になるんだ。君達が悪いんじゃない、教師が悪いんだ。じっせえ、教師なんて馬鹿野郎ば っかりさ。男だか女だか、わからねえ野郎ばっかりだ。こんな事を君たちに向って言っちゃ悪いけど、俺はもう、我慢 が出来なくなったんだ。教員室の空気が、さ。無学だ! エゴだ。生徒を愛していないんだ。俺は、もう、二年間も教員室で頑張って来たんだ。もういけねえ。クビになる前に、俺のほうから、よした。きょう、この時間だけで、おしまいなんだ。もう君たちとは逢えねえかも知れないけど、お互いに、これから、うんと勉強しよう。勉強というものは、いいものだ。代数や幾何の勉強が、学校を卒業してしまえば、もう何の役にも立たないものだと思っている人もあるようだが、大間違いだ。植物でも、動物でも、物理でも化学でも、時間のゆるす限り勉強して置かなければならん。 日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させるのだ。何も自分の知識を誇る 必要はない。勉強して、それから、けろりと忘れてもいいんだ。覚えるということが大事なのではなくて、大事なのは、カルチベートされるということなんだ。カルチュアというのは、公式や単語をたくさん暗記している事でなくて、 心を広く持つという事なんだ。つまり、愛するという事を知る事だ。学生時代に不勉強だった人は、社会に出てからも、かならずむごいエゴイストだ。学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘 れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。これだ。これが貴いのだ。勉強しな ければいかん。そうして、その学問を、生活に無理に直接に役立てようとあせってはいかん。ゆったりと、真にカルチベートされた人間になれ! これだけだ、俺の言いたいのは。君たちとは、もうこの教室で一緒に勉強は出来ないね。けれども、君たちの名前は一生わすれないで覚えているぞ。君たちも、たまには俺の事を思い出してくれよ。あっけないお別れだけど、男と男だ。あっさり行こう。最後に、君たちの御健康を祈ります。」すこし青い顔をして、ちっ とも笑わず、先生のほうから僕たちにお辞儀をした。

太宰治「正義と微笑」より

啓発するまたは洗練させるという意味でも使うカルチベート。

私は勉強をしてこなかった。学習障害を持っていて時計を理解できるまでに時間がかかり、結局時計が読めるようになったのは中学一年生の時だった。

そういうこともあり、勉強が大嫌いになった。

しかし今は後悔している。この太宰治の本を読んでいたら、幾分が違っていただろうか?この言葉を代弁してくれる大人がいたら変わっていただろうか?もしかしてもしかして、そんなことを思ってしまう。

きちんと勉強し思考が洗練され生きていく上で大切なことを自分で見つけることのできる大人になっていれば今の苦労や苛立ちも無かったのかもしれない。

私が高校生になれたのは奇跡だった。テストでは〇点を取ることが多かったからだ。しかし高校生になれた。当時の担任の先生のおかげだった。
私の両親は中学2年の時に離婚した。当然傷ついたし悩みに悩んだ。思春期真っ只中で勉強も友人も何もかも投げやりだった。生きているのが嫌で何度も死のうとした。そんなことを知ってか知らずか先生は、内申書に優をつけてくれた。(知ったのは高校の時の先生が教えてくれたからだ。)

そして半ば同情で高校生になり、そしてでも勉強はしなかった。夜な夜なクラブに行って踊り狂った。そんな時期もあったが、とうとうギリギリで卒業し社会に出た時に周りを見ていると大学出が多いことに気づく。自分より優秀だ。会社でも有利だ。後悔したのはその時。大学へ行けばよかった。勉強しておけばよかった。

そして、もっと切実に思ったのが20歳になって作家を目指し始めた時だった。
大学に行って文学を学びたい。そう思った。でもできなかった。実行力のない根気のない女だったから。カルチベートが足りなかったのだ。

私はこの年齢になって、もうこれから新しいことはできない。

年のせいにしてとか年は関係ないとかいう人もいますが、それは人それぞれの尺度で考えてもいいし自由でいいことだと思う。

だから悔しいから、なんとかする。もう感性でなんとかする。してやるんだ。

「もし高校生の時、この本を読んでいたら人生変わっていたでしょうか?」
「そうかもしれないね。」そう言う大人になった私がいる。
本が力をくれることを信じているから⋯⋯。

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