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現像と加工の違いって何だろう? 20210429

さっき、PENTAXのQで撮影したRAWデータをLightroomに取り込んで、色々と触っていた。
その一部について、PENTAXのQというカメラの視点からnoteにアップしたばかり。

noteにあっぷしてから、PENTAXのQで撮影した他のRAWデータもLightroomで色々といじり始めた。
「Lightroomを使ったら、どんなことができるのだろう?」
と、考えながら。

いつものベランダから撮影した日没後の画像をいじっていた。
「そういえばYouTubeの上田家のチャンネルで、夜景をいじっていたのがあったなぁ。あのときの色味って作ることができるのだろうか?」
と、思って触ってみる。

そうしたら、こんな画像ができた。
YouTubeの上田家のチャンネルでの方向性とは違うかもしれないけれど、自分の中での方向性は同じかもしれない。

画像1

ベランダから見える風景。

カメラの撮って出しのJPEGはこんな感じ。

画像2

なんだか、全然違う。
見た目の感じは、どちらかというと元々のJPEGの方が近いかな?。
PENTAXのQは撮って出しのJPEGの画像は素直という印象がある。
それと比べると、Lightroomで現像したものは、全然違う画像になっている。
最早、カメラだけでは作ることのできない世界かもしれない。

そう、「カメラだけでは作ることのできない世界」

そこで、「??????」
と、?がいっぱい頭に浮かんだ。

「カメラって、とにかく何か写っていれば良いのか?それだけの役目なのか?」

カメラマンの方のお話をYouTubeなどで見ていると、
「カメラによってデータをいじることのできる幅のあるカメラとそうでないカメラがある。」
みたいなことを言っているのに何度とも無く出会ったことがある。
仕事で撮影するときは手を入れるのが前提なので、RAWで撮影するのもそのため。
自分が、こうやってLightroomで手を入れてみて、カメラマンの人が言っていることの意味がほんの少し理解できたという感じがある。

とすると、良いカメラの条件というのは、
「写っているものをイメージ通りに操作できることのできるデータを得ることのできるカメラ」
ということになるのか。

プロの人は、そうしたことができるスキルに対して対価を支払ってもらうので、そうしたカメラ選びになるだろうし、データを処理することのできるコンピュータ選びにつながってくると言うことなのだろう。
それが、仕事だから。

じゃあ、果たして趣味の程度の人間がどこまでするのか?というところになってくる。
自分は、これまでとにかくシャッターを押して写っていることがとてもうれしく感じていた。
そこに趣味性があった。
写っているものを鑑賞するという行為はあまりしてこなかったし、どちらかというと、その時・その瞬間の空気感を切り取りたい、閉じ込めたい、手に入れたい、残したいという欲求に対して、ストレートに反応することのできるカメラが良いカメラと思っていた。
だから、あまり機能がたくさんあって、それでセッティングしてというような撮影をするよりも、素直にカメラから出てくるものをありがたくいただく感じで撮影していた。
偶然性がとてもうれしい訳で。

しかしながら、RAWで撮影すると言うことは、現像を前提にした撮影になる。
現像とは言いながらも、ほぼ加工と言っても良いものが出来上がる。
おそらく、この辺の議論というのは、デジカメが当たり前になってというところで議論があったはずなんだろう。
自分は、全く門外漢ではあった。
しかし、自分が撮影したものをどうするのかというところに、目を留めるような惹かれる画像を作ることができるのかもという欲求みたいなものが出てきた。
そこにエネルギーを使い出すと、果てしないかもしれない沼が存在しそう。

そうしたところにはまってしまうだけのエネルギーは無い。
視野が広がるというのは良いことなのだろうけれど、はまることによってエネルギーを使って苦しむことにもつながりそうな考えが浮かんでくる。

自分の中では、危険サインが出ている感じがある。

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