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「三位一体」から始まって、キリスト教、ヴェーダ、仏教、神道の同じ核心を見る。

群盲象を評す

「群盲象を評す」とは、多くの盲人が象をなでて、自分の手に触れた部分だけで象について意見を言う諺です。

ある人を語る時に、

・医師は身長、体重、血圧、血糖値から、内視鏡、胃カメラ、CT,lFMRIなどの客観的な数値と医学的な見地から見るでしょう。

・心理士は、その人の感情状態や、どんな認識や認知能力があるのかと見ます。

・家族や友人は、日常生活の趣味、趣向、人間関係や近況についてがもっともな関心事になるかと思います。

それぞれの視点はどれが正しいか、間違いかではなく、日常生活的な視点、医学的観点、心理学的観点などなど、その人を見る観点の座標が異なるだけです。

その個人を語るにあたり、すべて医学的観点で語ろうとしたり、心理学的観点、日常的観点のみだけで語っても、その人をすべて語っているわけではありません。

一つの観点で、すべての現象を説明しようとすることはできません。しかし人間の脳は、どうしても一つの観点に慣習的に執着してしまう癖があるのでしょうがないのですが・・・。

宗教や哲学、科学という分野にもそれが当てはまるのではないかとずっと考えていました。

宗教、科学、哲学とは、「この宇宙とは何なのか?」「私とは何なのか?」「意識とは何なのか?」「神とは何なのか?」というアプローチをそれぞれの分野で行ってきています。

時代は進み、人間は、それぞれの真理の探究は入口こそ違えど、求めるところは同じで、その過程でそれぞれのアプローチで重なり、等しい現象があることに気がついてきました。

今回は、キリスト教、仏教、神道、ヴェーダ哲学、そして認知科学というそれぞれの窓から見える宇宙の光景を眺め、実は同じことを指し示している、ということを見ます。

そしてそれが何なのかキリスト教の三位一体から始まって紐解きたいと思います。

キリスト教の「三位一体」について

キリスト教の重要な教義として「三位一体」があります。キリスト教の本質と言えば「三位一体」ともいえるでしょう。それは、父・子・精霊としてあらわされ、

・父というのは、「天の父」との名でお馴染みの、一神教の神様のこと。

・子というのは、「油注がれたもの」との二つ名でも知られる、イエス・キリストのこと。

・聖霊とは、『神と人間をつなぐ働きをする存在』

それで、この三つが「一つの体」として合一してる、というのが、「三位一体」です。

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・父=神 ・子=神 ・精霊=神

で、

・父≠子、父≠精霊、子≠精霊

という点も重要です。これは、例えばサザエさん一家で考えると

・浪平=磯野家

・サザエさん=磯野家

・カツオ=磯野家

ではあるけれど、浪平≠サザエさん、浪平≠カツオ、サザエさん≠カツオ

という当たり前の関係性として考えてみるとよいかもしれません。

非二元では、よく「私」という「個」が「海」という大海の「波」の一部として例えられます。

これを図式化すると、

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というような感じになります。

三位一体とは、偶像崇拝禁止に対する解答としての教義とも見られますが、つまりは「神」とは見たり、触ったり、触れられたりするものではなく、「全体」といいますか、「現象」のような決して捉えられず、つかめないものです。

ヴェーダの核心「サンヒター」について

私は20年以上、ヒンドゥー教に由来する瞑想を行っています。ヒンドゥー教は『ヴェーダ』を原型としています。ヴェーダとは、リシ、デーヴァター、チャンダスのサンヒターとして要約されるといわれます。

TM瞑想創始者、マハリシ・マヘーシュ・ヨギは『意識は、それ自身の主体(知る者)です。この状態においては、意識は、知る者(リシ)、知る過程(デーヴァター)、知られる者(チャンダス)の統一状態(サンヒター)です。自己指向的な意識は、リシ、デーヴァター、チャンダスのサンヒター(統一)であり、それがヴェーダです。』と述べています。

ここで、

・「リシ」=知るもの

・「知られるもの」=チャンダス

・「知る過程」=デーヴァタ―

・リシ≠チャンダス≠デーヴァタ―

という関係は、私はキリスト教の三位一体に見えるように思えます。上図に当てはめると、

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という関係性が見えてきます。

この場合「リシ」というものは、普段の私たちの認識主体である「私」という意識です。

そして、「チャンダス」とは客体のことです。そして、「デーヴァタ―」とは、見られるものが認識されるまでの過程のことを指します。

例えば「私(リシ)」という主体が、「花(チャンダス)」という客体を見るとき、

物理的・生態的な現象レヴェル:意識が花を捉え、花から反射する光が網膜に到達します。眼の「網膜」で見た情報は、「視床」を経由して、「視覚野」に送られ、ここで初めて「見ている」として意識されます。

この場合「眼」が「リシ」であり、「花」は「チャンダス」、そして、「視床」を経由して、「視覚野」に送られ、ここで初めて「見ている」として意識されるこの全過程を「デーヴァタ」と呼ぶということです。

心理的なレヴェル:「花」という過去からの経験から「花」を認識し、「花」について「美しい」とか、「卒業式の思いで」とか「プレゼントに何の花を持っていこうか」という思考が生まれます。

このように「私」という主体は、物理的、心理的な「過程(デーヴァタ―)」、つまり「働き」があって、私たちは「花」という客体を認識できます。

これは人間だけはなく、動物や植物でも何かを知覚(動物なら餌、植物なら光や水)したときに生じるリシ・チャンダス・デーヴァタという過程です。

つまりサンヒターは生命現象のアルゴリズムを書き出したようなものであり、宇宙を生命現象の一旦と捉えるならば、万物の法則や、生命の法則を担うような基本的な意識のしくみのようなものとして考えられます。

この仕組みから動植物が発展し、人間の分化と文明が展開されるというのがヴェーダ文献に表現されているとされています。

現代の用語で説明すると、ヴェーダのサンヒターとは人間を含む生命現象の『「認識フレーム」の仕組みについて』述べているということになります。

神道の「造化三神」について

神道は、それを作り出した教祖もなく、キリスト教における聖書やイスラム教のコーランにあたる教典もなく、組織化あるいは体系化された教団もありません。そのため、神道は宗教ではないとさえ言う人もいます。

神道 の古事記によれば、この宇宙が創造された時の最初にあった、造化三神という考え方があります。

それは、最初にアメノミナカヌシという創造神が誕生し、次いでタカミムスビ、カミムスビという神が現れ、万物を形成したといわれます。

その後に天照大神を含む様々な神々が誕生したといいます。

そして、

・最高神アメノミナカヌシは:中今であり、それは『時間の永遠の流れのうちに中心点として存在する今。単なる時間的な現在ではなく、神代を継承している今。』というマインドフルネスや仏教の縁起思想に繋がる概念です。

・タカミムスビ:未来からの流れ

・カミムスビ:過去からの流れ

を表しているといいます。

時間という概念では物理学ではそもそも存在しない概念で、人間の認識(思考フレーム)から生じているという話は聞いたことがあると思います。

また、時間の流れがあると仮定して、過去の積み重ねがあってこそ、現在の自分があるというカミムスビの視点も取れれば、

未来に叶えたい夢や目標があるので、現在の環境が形成される(例:将来に船を作りたいと思えば、現在に造船所という「環境」が出来る)というタカミムスビの視点も存在します。

それは現代で言う認識のゲシュタルト(意味のまとまり)、ヴェーダでいうサンヒターを過去に向けるか、現在に向けるか、そして中今の今この瞬間に向けるかで、展開される宇宙が異なってくることを意味します。

造化三神は想像の「場」のことを言っているのであり、人間の思考は一つの認識フレームしか取れないので、過去か未来にさまよいます。

しかし、過去と未来を微分して今この瞬間に収束すると、「中今」であるアメノミナカヌシが現れます。

その時に、すべての創造物が思考のフレームから外れる。つまり過去や未来という時間から外れると、すべての創造が始まる0の地点、無、空を体感し、それは人間の言葉で表すと「感謝」という状態になります。

そのため神道ではすべての万物にアメノミナカヌシ、霊が宿り、結果としての感謝、畏敬の念、愛という情動が喚起されます。それを形式しかした儀式や建物、作法の総称を神道と呼べると考えます。

仏教の「縁起」について

“無我”と並んで仏教の根本概念をなすものが“縁起”です。

ウィキでは、縁起とは「他との関係が縁となって生起するということ。全ての現象は、原因や条件が相互に関係しあって成立しているものであって独立自存のものではなく、条件や原因がなくなれば結果も自ずからなくなるということを指す。」と在ります。

つまりすべての現象が相互関係性に生じている「現象」であって、独立して存在されていると見られたり、感じられる現象はこの世には存在しません。つまり、「私」という「個」は存在しないという非二元、ノンデュアリティの主張一致し、これが「我」が「無い」という「無我」の概念と表裏一体の概念であることが分かると思います。

「現象」は上記の三位一体の図式から考えてみると、「神」であり、「サンヒター」という言葉でも表せますね。

縁起は関係性についての哲学で、上下関係や序列関係のような概念を否定します。

例えば、家族間で「子どもは親の言うことを聞きなさい。何故なら親がいるから子どもが生まれたのだから、感謝しないといけない。」という「親子」という言葉の中にそのような上下関係の束縛が潜んでいます。

しかし、関係性を逆さまに捉えることもできます。

つまり「子どもが生まれたから、親にならせてもらった」という図式も成り立つのです。

先ほどの時間が過去から未来に流れる認識フレームも、未来から過去に流れる認識フレームも、どちらを採用するかで、起こってくる現象への解釈が異なってきます。

実はどちらも正解で、どちらの考えが優れている、劣っているというわけではないのです。

しかし時に「親子」という概念に絶対的な序列を求めると、世にいう毒親が誕生したり、子どもに依存する親や、子どももそれを甘んじて受け入れるという共依存の関係性が生まれてしまいます。

これには夫婦や上司と部下、先輩、後輩、師弟関係にも当てはまります。

関係性の向きを自由自在に観れる菩薩を観世自在菩薩といいます。

このように、関係性の束縛(呪縛)による縁の苦しみを、古来から修行僧や聖職者、現在では医師やカウンセラーがこの概念の牢獄を「錯覚である」と救い、本来の命である仏性に目覚めさせることを人類は行ってきています。

縁起という観点では、父も子も精霊も、自由自在に展開させながら観ることが出来ます。

三位一体、サンヒター、造化三神、縁起、そしてゲシュタルト

キリスト教の三位一体、ヴェーダのサンヒター、神道の造化三神、仏教の縁起、そして現代科学の認知科学は、同じものを見て、表現しています。

それはそれぞれの言語や慣習が異なるだけで、宇宙=生命=神という現象についてのそれぞれの見解です。

これからは人事られない演算能力とスピードでAIが人間の全ての発見や智慧、教義の情報を収取し、選択し、構築しなおすことでどんな状況や問題にも対応できる、それこそ「神」のような存在が誕生してもおかしくありません。

しかし、それは情報の処理能力が上がっただけで、「生命現象」とは呼べるのかと言えば、意見はさまざまです。

私たちは、そのようなAIの想像を超える存在だと思っています。

今回の記事は、ちょっと分量も多く、複雑だともいます。

もっと簡潔に今後も描いていこうと思います。

また、この見解に数学の概念を取り入れた記事を、UPしようと思います。

それによって、目の前に広がる日常生活―人間関係、健康、経済、生きがい―がどのように「見える」のかをお伝えしたいと思います。




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