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〜夢を諦めた私の夢に向かって一直線だった時の話 中編〜

先日、夢が叶わないかも、、、と受け止め生きていくことを決めた私の話の前編を書きました。

いいねを色んな方にして頂いたり、コメントをくださる方もいてとても嬉しかったです。


芸人になる事を小学生の頃から信じて疑わず、一直線に走ってきた私は、名古屋の養成所を卒業して、新しいコンビを組むために上京しました。

環境を変えれば人生が変わる、上京したら上手くいくだろう、と明るい未来を期待していました。

上京するまでずっと実家暮らしだった私にとって、初めての1人暮らしはとてもワクワクするものでした。
自分の好きな時間に家に帰れて、毎日好きなものを食べれて、上京してすぐの頃は全てが新しくてとても楽しかったです。


そんな楽しい生活もすぐ終わり、寂しさが襲ってきます。

家に帰ったら灯りがないのはとても寂しかったし、疲れて帰っても温かいご飯なんて出てきません。

一人暮らしをして、初めて家族の、親のありがたみを実感しました。

家事なんてまともにやったことがなかった私は、お母さんが買ってくれた除湿機の使い方を全く知らず、除湿機の水が溜まる箱に水を入れて使っていました。

空気清浄機と勘違いしていたんですね、、

水いっっぱいだよってランプが点っているにもかかわらず、「空気綺麗になってるわ〜」と満足していました。

(だいぶ経ってから、「除湿機使えてる?」とお母さんに聞かれて間違えていること発覚した)

アパート暮らしが幼稚園以来の私は、隣の人の生活音が聞こえてくることにとてもびびって、自分の物音が漏れることを恐れ、そろりそろりと生活していました。

(気は使うべきだけど、多少は仕方のないことなんだ、、と知るまで気を張っていました)

今では隣の人が帰ってきてドアを開ける音がしたら、「おかえり〜」と思えるまでになりました。

上京してから急いでバイト先を見つけ、自分の生活の基盤を立てることに必死でした。

新しい相方との活動もスタートしました。

相方がネタを考えてきて、それを自分の言葉にできるまで覚える、相方は私よりも経験が豊富だったので、とても頼りになりましたが、相方の足を引っ張っちゃダメだ!と

相方がネタを考えてくれているのだから、相方の期待に応えれるようにしなきゃ!と

プレッシャーを抱えながらがんばっていました。

ネタの練習をしつつYouTubeチャンネルを開設して撮影をし編集もする、

バイトをしながら、終わったらその足で劇場(出演料払えば誰でも出れるライブ)に向かいネタを披露する、

とても充実していましたが、初めてのことがたくさん重なり疲労もすごかったです。

ライブは、想像よりもすごいものでした。
観客よりも演者の数の方が多く、観客3人に対し演者が30組なんてこともザラにありました。

投票によって上のライブに上がれたりするので、友達たくさん連れてきたら勝ちでした!

ライブが行われる劇場は、新宿や下北沢にあり、初めて新宿を訪れた時の衝撃は忘れません。

人の多さはもちろんのこと、「勧誘、客びきは禁止です」とアナウンスが流れているにもかかわらず、勧誘してくる大人。

街でアナウンスが流れていることにまずびっくりで、岐阜で流れるアナウンスなんて「熱中症に気をつけてください」とかだったので驚きでした。

相方のツテで色んなライブに参加させてもらいました。

相方の先輩なども紹介して頂き、優しくて面白い人ばかりで楽しかったです。

活動を初めてから3ヶ月ほど経ったとき、相方からラインが来ました。



「少し考えたいから、ネタ合わせ、しばらく無しにしてほしい」



少し動揺しましたが、なんとなく分かっていました。
相方も私も上手くいっていないことに。

まだ活動して3ヶ月、コンビ組んで3ヶ月だから仕方のないことかもしれませんが、
お互い焦りと疲労がすごかったです。

私は、上京してからの生活に慣れるので精一杯で余裕がなかったのに対し、

相方は、自分の同期が少しずつ売れていっているのに自分はまだまだだって焦りと、
早く方向性を決めてコンビの土台を固めたい、それなのに新しい相方はひよっこだ、、、笑いってなんだろう、と考えすぎて思い詰めた感じでした。


1週間ほど経った頃、相方から「話がしたい」とラインが来ました。

ああ、解散するのだ、、と思いながら相方に会いに向かいました。

思っていた通り、「解散したい、お笑いが嫌いになりそう」と言われました。
せっかく人生で好きだと思えることに出会えたのに、嫌いになってしまうのは悲しい、、と思い解散を了承しました。

相方は、「今の彼氏よりもいい人見つけたからそっちに乗り換える。その人に、「いつかタワマンに一緒に住もう」と言われたから、タワマンに住んだら招待するね」とも言っていました。


まだタワマンには招待されていません。元気にしてるかな…


解散してからの私は、夢を失ったも同然でした。

上京したら上手くいくはず!と(甘い考えでしたが)思っていたのに上手くいかず、
友達も誰もいない土地で一人ぼっち。

他に相方を見つける気力を失い、あんなにも大好きだったお笑い番組を見るのでさえ嫌になってしまいました。

光も入ってこない真っ暗な終わりのないトンネルをずっと歩いている感覚。

夢を失うのってこんなにも辛いことなんだ、、、と実感しました。

その頃の私を救ってくれたのは、弟との電話でした。
弟は当時暇を持て余した大学生で、暇さえあれば電話をしていました。

私のオチもなければ終わりも見えないような暗い話を、一切否定することなく「うん、うん」と聞いてくれるのがとてもとても救いでした。

(今思えば、すげー優しい男じゃん〜)

前向きになったり、自分を否定して落ち込んだりを繰り返しながら毎日を過ごしていました。


全てを投げ出してしまいたい、とも思いました。

本当に本当に辛かったです、当時は。


でも、このままじゃダメだ!!という思いもあって、ひたすら自分と向き合いました。



私ってなんで芸人になりたいと思ったっけ?
芸人じゃないとできないことなの?
自分は何が好きで、何が苦手で、何ができて、何ができないか。
どう生きたくて、どうなるのは耐えられないのか。

ひたすら自分と向き合いました。

その結果前向きになれました!なんて事はなく、自分のことが分かってきただけで、
答えなんて出ませんでした。

その間も、誘われたらユニットを組んでライブに出てみたりはしていました。
しかし本気で組もうという気にはなんだかなれなかったです。



そして、解散して一年もたたない頃、新型コロナウイルスが流行しました。

私は、一時地元に帰省することとなりました。
(コロナで自粛期間に入る数週間前にたまたま岐阜に戻る用事があり戻ってから、コロナの感染者数がものすごく増えたので、そのまま実家にいました)

地元で自粛生活を送っている間は、お金の心配しかしてなかったです。

バイトで生活していた私はお金を稼げなくなることの恐怖と、働けなくて社会から必要とされていない感じに絶望しました。

家を引き払って、地元に戻る。

そういう選択肢も出ました。

夢を失って、何をしたいのか答えが出ていないのに、一つだけ心が決まっていたことは、

「今地元に戻ったら、後悔する。もっと都会で学べることがある気がするから家は引き払わない」

でした。

なぜそう思ったのか、わかりませんが絶対後悔する!!!と思い、

自粛期間があけ、バイト先が再開したのを機に神奈川の家に帰ってきました。

その頃に夢を失ったことを受け入れれるようになったかというと、そんなことは全くなくて、まだまだお笑い番組を見る気にもなれてはいませんでしたが、

少しずつ、自分のことを受け入れていこう、、、そう思えるようにはなりました。


自分を受け入れていこうと思えるようになった頃には解散して1年が経っていました。


1年も、受け入れようと思うまでに時間がかかりました。


そうです、受け入れれるようになったのは最近の話で、数年かかりました。


受け入れれるようになるまでの、この続きは、また書こうと思います。


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