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通り魔犯の元彼女(第5話/5)

「ゾンビくん、警察に、私のこと一切無関係って言ったんだ」

 杏紗はその瞬間、元基の気持ちが、心の中が、見えたような気がした。
 別れて以来の彼の生活を知り、彼を知る人と話し、事件を起こすまでの葛藤や覚悟が、映画のように見えた気がした。
 同時に、自分の心の中にあった何か凄まじい感情が、弾けるのを感じた。

 そうだ。
 自分が火の粉をかぶるつもりでなければ、助けることはできない。

 たしか、結婚情報雑誌の間に、クリアホルダーを挟んでいた。
 中には付録についていた可愛いキャラクターの婚姻届を入れている。実際にこの届け出用紙を使うつもりはなかったが、本番前の練習として妻側の欄はひととおり書いてあった。

「夫になる人」
 もう裕翔の名前を書くことはない。
 ふとボールペンを手にすると、心臓が頭に移動したように、頭の血管から動悸がする。

 杏紗は少し筆跡を変えて名前を書いた。住んでいたアパートは実際にたしかめたので、正確な住所は調べればすぐにわかった。ほかに頼る親戚も縁者もないのだから、おそらく本籍も現住所にしているだろう。父母の氏名はまだ覚えていた。
 証人には自分の両親を書いた。近所の百円ショップで印鑑を買ってくる。わずか一時間で、婚姻届はできあがった。
 これを提出すれば、本当に結婚してしまえるのだろうか。結婚雑誌には戸籍謄本が必要だと書いてあった。ただし、本人の戸籍がある役所に行けば、謄本はいらない。杏紗の謄本はすでに手元にあるので、足立区役所に行けばいい。
 朝からずいぶん歩いた一日で、杏紗は疲れ果てていたが、立ち上がった。
 今から、やり遂げる。

 翌日の早朝。紙袋を持って病院に入ると、躊躇せずエレベーターで四階まで上がり、制服の警察官が待機する一番奥の病室まで歩いた。
「ここは入れませんよ」
 三メートル手前から声をかけられる。 
「妻です」
「はあ」
「栗原元基の妻です。下着や着替えの差し入れに来ました」
 制服警官は怪訝そうな顔で、腰につけていた無線機を耳に当てて、確認をとる。杏紗はその横を当然のように通り抜け、「いやちょっと」と曖昧な声を出す警察官に片手で留められようとしながら、病室の横開きドアを開いた。

「ゾンビくん。私、野木杏紗!」
 元基は片手で腹を押さえながら、上半身を跳ね上げた。
「野木! なんで」
「さっきゾンビくんと婚姻届出した。どうしても会って話がしたかったの」
 右手に点滴をしている青い病院着の元基、ようやく会えた。
 室内のパイプ椅子に座った警察官が、泡を食ったような顔で立ち上がる。こんなことをしたら、自分も逮捕されるのだろうか。緊張感の中で、杏紗は自分が微笑んでいることに驚いた。
「とんでもないな」
 元基も一瞬、緊張が緩んだように微笑んだ。きれいな澄んだ目をして。
 杏紗を刺す直前、やはりこんな風に穏やかに笑った気がする。大丈夫、これは計画した芝居なんだ。たいした怪我はさせないから、と。
 中にいた制服警官に、ドアをぴしゃりと閉められた。
「野木、それはすぐ取り下げるんだ。巻き込んで本当にすまなかった。どうか幸せになってほしい」
 元基の言葉を聞いて、杏紗はドアにすがるように泣き崩れた。
「やっぱり。そうだと思ったんだよ」
 制服の警察官が二人、廊下を走って来た。杏紗は病室の前から引き剥がされようとする。
 ゾンビくんは、自分の命を捨てて、私を守ってくれたんだね。

「おい栗原、あの人は本当におまえの奥さんなのか」
「何を言ってるのかわかりません。連れて行ってください。まったく関係ない人です」
 ドア越しに聞いた声は、それが最後だ。

 杏紗は警察官に支えられて、ソファーの並ぶロビーに連れて行かれた。外来が始まる三時間も前なので、誰もいない。
 勝手に病室を開けたことで逮捕されるかと思ったら、婚姻届という言葉が聞こえていたのか、警官からは「奥さん、困ります」と話しかけられた。
「入院中の面会や差し入れは、あらかじめ弁護士の先生と相談してください。もちろん現状許可されない場合もあります。今日のところは帰ってください」
 と、言われておしまいだ。逮捕はされなかったし、差し入れの品は渡せなかった。昨日、区役所の帰りに買った、下着と普段着の上下、そして宮本武蔵の文庫本。

「幸せになってほしい」
 その言葉で、杏紗は確信していた。
 実際に鵜目工務店や元基の暮らしていた周囲を見て、情報を得て、杏紗の出した結論はこうだ。
 元基は、祖父母が失意のうちに相次いで亡くなった原因、詐欺まがいの商売をする鵜目夫妻に、復讐することを決めた。だが、グレーな商売に手を染める夫妻に真正面から挑んだところで勝ち目はない。
 元基は、通り魔として、祖父の仇である鵜目夫妻を狙うことにした。「誰でもよかった」「殺せと言う声が聞こえた」という供述と、大勢の被害者を出すことで、不特定多数を狙った中に鵜目夫妻がいたという状況を作る。
 精神科への通院歴があり、古いアパートの暮らし向きから見れば、なんらかの疾患を持っていても不自然には思われない。精神鑑定に持ち込み、責任能力がないと判断されれば、無罪放免だ。
 元基自身も今後の人生にリスクは負うが、夫妻には復讐して、自分が無罪になれば、充分仇を討ったと言える。

 しかし、元基にとって予定外のことが起こった。
 目の前に現れたのが、杏紗だったこと。
 不特定多数を狙っているのだから、目の前に立った杏紗を切らないわけにいかない。
 杏紗を切った。できるだけ浅い怪我で、すぐ治るように。しかし、杏紗を切ったことで、自分が起こした通り魔という事件が、鵜目夫妻以外の被害者にとってどれほど理不尽な出来事かを思い知る。
 被害者に詫びるつもりで、自分の腹を切った。

 その後、杏紗と一緒にいた男が婚約者だと知る。偶然事件に巻き込まれたせいで、杏紗は通り魔犯の元彼女という中傷を受け、婚約者も尊厳を損なうような映像をばらまかれている。
 元基は筋の通った男だ。
 杏紗と婚約者を守るために、出来ることを考えた。
 計画的な犯行であると供述を変えることで、世間は犯人への憎しみを募らせるだろう。鵜目夫妻は計画通り狙ったが、そのほかの被害者はまったく偶然に出会った人ばかりであるという真実を晒した。その供述とともに、被害者たちに詫びて、これ以上、中傷の二次被害を出さないでほしいと警察に訴える。
 ニュース番組は早速反応して、被害者のプライバシーを重んじる報道姿勢に変わった。
 あとは、自分が裁かれるだけでいい。
 心神喪失を訴える機会はこれで失った。責任能力はあると実証したようなものだから、厳罰も止む無し。
 死刑になる可能性もあるだろう。

 ぼんやり紙袋を抱えていると、スマホが鳴った。
「裕翔」
 着信音がロビーに大きく響き、杏紗は慌てて病院を出ようとするが、正面エントランスにはこんな時間でもマスコミが群がっているのが見える。
 電話を両手で包みながら、杏紗は駐輪場の出入り口を探した。ようやくドアを見つけて駐輪場に出たが、電話は切れていた。
 こちらから電話をかけた方がいいのだろうか。
 昨日、裕翔の母から、結婚の話がなかったことになり、杏紗はもう元基との婚姻届を出してきた。今さら、裕翔と電話でなんの話をすればいいのだろう。
 折り返し電話をするのはやめる。

 法律上の妻と言う立場を盾にしても、元基はきっと、二度と会ってはくれないだろう。
「まったく関係ない人です」
 それが元基の出した答えなら、彼はその姿勢をくずさない。
「幸せになってほしい」
 彼の望みを叶えたいなら、杏紗にできることは、幸せになることくらい。
 いつかハガキでも、自分が幸せを掴んだことを知らせたら、刑務所の中であっても、元基は喜んでくれると思う。
「じゃあどうやって、幸せになればいいの?」

 ぐずぐずと未練たらしく病院の近くの喫茶店で時間をつぶし、ようやくアパートの近くまで戻ると、もう八時半だ。今日も仕事を休む電話をしなければいけない。だが、派遣事務所に電話するのも気が重い。

「仕事、辞めよう」

 今なら事件のことがあって体調不良という理由で、辞める踏ん切りがつく。
 派遣事務所への登録も解消する。機械じみた担当と電話で話すのも、自分が人ではなく商品として扱われているのを実感させられるのも、うんざりしていた。幸せになる第一歩は、今の仕事を辞めることだ。
 杏紗がいなくなれば、裕翔も職場復帰がしやすいだろう。
 仕事を辞めても、貯金で一、二か月くらいは生活できる。その間に、今まで考えてもこなかった資格でも取得するような勉強をしようか。
 介護の仕事ならいつでも求人があると聞くし、まったく知らない世界に飛び込んでみるのもいいかもしれない。

 ゴミ出しの人がアパートの外の集積所に集まっている。このあたりの生活ゴミ収集は、月曜と木曜の朝だ。杏紗もゴミのことを思い出した。九時過ぎに収集車が来るので早く出さないと。
 なぜか、集まっていた人々は、杏紗の部屋の前を指さしていた。
「すみません、私の部屋がどうかしました?」
「あれ、おたくの知り合い? もうずっとあそこにいるんだけど」
 ドアの前に裕翔が座っていた。
 部屋着にダウンジャケットという姿で、体を丸めて膝の上に顔を伏せていた。

 杏紗は周囲の人に謝りながら、駆け寄った。
「どうしたの、裕翔。大丈夫?」
 生活が昼夜逆転している、と裕翔の母が言っていた。朝は眠いのかもしれない。
 手を引っ張るようにして立ち上がらせて、急いで鍵を開けると、裕翔は無言で中に入った。捨てるために部屋の隅に紐がけしてある結婚雑誌を見て、目を丸くする。
「杏紗、結婚止めるって母から聞いたんだけど。嘘だよね」
「嘘じゃないよ」
 地声の低音。もう裕翔に対して可愛い女でいる必要はないのだ。
「なんで。母の説明が意味不明で、杏紗に直接理由を聞こうと思って、こっそり家を出て来たんだ」
 裕翔の顔の前で、杏紗は手を振った。寝ぼけているのかと思ったのだ。
「私が結婚しないって言ったわけじゃないよ、私は結婚を断られた側だよ。理由はそっちにあるんじゃない」
「また意味不明だ。僕に結婚を断る理由なんかない。杏紗の理由を聞いてるんだ」

 杏紗はとりあえず落ち着こうと、二人分のドリップコーヒーを淹れた。コーヒーがぽとぽとと落ちていく間、少しずつ状況が読めてきた。
「裕翔、私すっごく心配してたんだよ。事件のあと何度も連絡したのに、全然折り返しくれなかったよね。既読すらつけてくれなかった」
「僕のことネットで散々に書いてあるからって、スマホを取り上げられてたんだ。『失禁君』だっけ。仕方ないよ、宝石店に行く前からトイレに行きたかったけど、指輪を選ぶのに杏紗を待たせたくなかったし、我慢してたんだ。トイレを探そうとしたら、杏紗は写真撮ったりするし、もう限界で歌いだしてたよ」

 妙にそわそわして、急いで指輪を決めたのは、トイレを我慢していた。変なハミングをしていたのは、尿意が限界だった。
 裕翔の告白に、思わず杏紗は吹き出した。あのとき、何も知らない自分はSNSに投稿なんかして。幸せいっぱいに結婚行進曲を歌ってた。

「ごめんごめん。これ笑ったんじゃないの。ほんとごめん」
「いいよ。緊張したらトイレが近くなるのは、幼稚園のときから今に至る。それに、小三までおねしょしてた」
「裕翔、私だって歯ぎしりひどいの、知ってるでしょ。誰だってそういうのあるよ」
 これはどういう会話だろう、と思いながら杏紗は続けた。
「私もときどき変な独りごと言うし、ラーメンは鍋から直に食べるし」
「ラーメンは初めて聞いたよ。面白い食べ方だな。それ、唇が熱くないの?」
「もちろん、お箸は使うよ」
「だったら問題ない。いや、だから、知らない人が僕のことをどう言おうと僕は全然平気なのに、母はなんでも気にするんだよ。両親が寝ている間にスマホを探し出して、杏紗からの留守録聞いたよ。ありがとう」
 裕翔は眠そうな顔のまま、頬だけを赤らめた。

 杏紗のメッセージが裕翔に届くのは、遅すぎた。

「お義母さんが、私との結婚は取りやめって」
 あの段取り上手な裕翔の母が、裕翔に結婚を決意させ、杏紗に破談を決意させた。
 今になって思えば、出会いだけは若干の偶然と二人の意思があったけれど、デートコースからプロポーズまで、結婚に至る道のりはすべて、彼女の思うとおりに決められていた気がする。
 だから、これが恋だとは思えなかった。
 裕翔のことを見ているようで、ちゃんと見えていたのだろうか。
 鍋のままラーメンを食べる女を、問題ないと言ってくれる人なのに。地声でしゃべっても、普通に会話ができる人なのに。
 勝手に可愛い声を作ったり、少しでも可愛く見えるように演じていたのは、自分の方だった。裕翔はいつも素のままで、最初から変わっていない。
「なんで僕のことを思って結婚を止めるのか、意味不明なんだよ」
「それは、私が通り魔犯の元彼女だからでしょ。お義母さんとしては、大事な息子の奥さんに、そういう属性は相応しくないんだよ」

 今は、通り魔犯の妻になってしまった。婚姻届は受理されている。
 二度と会えないだろうが、書類上は元基の妻だ。
 裕翔とは結婚できない。取り返しがつかない。

 裕翔があと一日早くスマホを取り返していれば。杏紗がもう少し粘って、破談について一日考えさせてもらっていたら。
「結婚相手を決めるのは、本人の気持ちだろ。親だろうが、他人はどうでもいいんだよ」
 ああ。その言葉を一日早く聞いていれば。

 杏紗はコーヒーを飲みながら、目の潤みが落ちないよう、まばたきを繰り返した。
「あのね、裕翔。実は私、謝らなければいけないことが」
 スマホが鳴った。
 見たことのない電話番号だった。
 杏紗が電話に出ると、初めて聞く男性の声で『野木さんですか』と尋ねられた。
「そうです」
『こちら足立区役所です。昨日お預かりした書類の件で、今よろしいでしょうか』
「はい」
 婚姻届けの件だ。杏紗は裕翔の前で打ちひしがれた。よろよろと床に腰を下ろし、膝の上に額をつけて相手の声を聞いた。

『まことに申し訳ありませんが、昨日の午後に提出いただいた婚姻届なんですが、証人の印鑑に不備が認められまして受理できません。これね、ご両親など姓が同じでも、ご結婚される本人と同じ印鑑ではだめなんです』
「はあ」
 相手の言葉がうまく呑みこめない。
 杏紗の生返事を聞いて、相手はさらに詳しく説明を続ける。
『印鑑は、一人につきひとつ、別々のものが必要なんです。証人の方はサインでも結構ですよ。よろしいですか?』
「わかりました」
 婚姻届けは、受理できなかったという相手の言葉が、今ようやく心に響いてきた。
『昨日は日曜日のため、受理ではなくお預かりということになってますので、まことに恐縮ですが、お急ぎなら今からでもご足労いただけますか』
 杏紗はスマホを握りしめながら、涙が頬を落ちていくのを感じる。

 婚姻届けは受理されていない。

 相手には見えないだろうに、返事の代わりに何度もうなずいた。
「大丈夫、杏紗?」
 電話の相手と、心配そうな顔の裕翔に交互にうなずいた。
 いいのだろうか。
 裕翔と別れることで「ほっとした」なんて思った、こんな愚かな自分が、もう一度、裕翔の手を取ってもいいのだろうか。 
『本日書類が整い受理することができれば、婚姻の日付は本日になります』
 あとで、またかけなおします、と杏紗はなんとか言うことができた。
 電話の相手は、驚くほど晴れやかな声で、最後に言った。

『ご存じかもしれませんが、今日は大安なんですよ』



 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

通り魔犯の元彼女(第1話/5)
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