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通り魔犯の元彼女(第2話/5)

 両親は個室でまんじりともせず過ごし、夜明けの四時に、父は病院近くの販売所から朝刊を買ってきた。ほかの被害者も入院しているのか、マスコミの記者らしき人が病院前に数人待機しているらしい。朝刊を読んだ限りでは、犯人の経歴はまだ最近のものしかわかっていないようだ。
 犯人が通った学校などの経歴はすぐ調べがつくだろうから、杏紗は両親と相談して、事情聴取に来た若い女性刑事に連絡することにした。

 要点は三つ。

 通り魔犯の栗原元基が、もし大池元基のことなら、中学二年と三年の途中まで、杏紗と同じ中学だった。高校受験の前に、大池元基は埼玉から都内に引っ越している。
 中学時代の一時期、杏紗は大池元基と友人であった。
 転校後は、二十年間、一度も会っていないし、連絡もとっていない。病気のせいか中学時代と容姿がかなり変わっているので、ニュースを見て母親が先に気づくまで杏紗は気づかなかった。
 最後の点が肝要で、今回の事件と杏紗はなにひとつ関係ないことを、信じてもらわなければならない。

「なんでよりによって、おまえの結婚前にこんな事件起こしやがるんだよぉ」
「向こうは私の事情なんて知らないよ」
「ゾンビくんは杏紗のこと、本当に気がついてなかったのかな」
「やめてよ、絶対ないから。中学以来全然連絡ないし、私だって気づいてたら刺すわけないし。あ、スマホ取って。コートのポケット」
 着信音が一度も鳴らなかったから予想はしていたが、充電が切れていた。父にコンビニでモバイルバッテリーのレンタルを頼んだ。
「親父使いの荒い娘だなぁ、よぉ」
しかし、父は父で病室にじっとしていられる性分ではないから、お使いに行かせる方がいいのだと、母も言った。充電して生き返ったスマホには、残念ながら裕翔からのメッセージはなかった。

 代わりに、友人グループのラインに、杏紗を心配するメッセージがたくさん入っていた。朝早いのはわかっていたが、申し訳なくて「私は大丈夫」と送っておく。
 ひとり、気になるメッセージをくれた子がいたので、あらゆるSNSの中で『#銀座通り魔事件』を辿ってみると、「ゾンビ君、元カノの結婚で大荒れ」の画面を見つけた。
 通り魔犯がうずくまり、その向こうに杏紗が倒れているニュース映像をキャプチャーした写真だ。ゾンビ君というタグが付けられている。引用する数がどんどん増えている。
「誰がこんなことを」

 個人が運営している炎上系の動画ニュースサイトには、『犯人の卒アル早よ』『元カノ死んだ?』といった無神経な投稿で溢れかえっている。
『元カノの婚約者、もしかしてお漏らししてる』
『婚約者はどれ?』
『拡大したら足もと濡れてる男発見』
 杏紗の手からスマホが滑り落ちた。ベッドの上でバウンドし、慌てた母が受け止める。
「なによこれ、まあ、ひどい。ニュースの写真を拡大してるの」
「誰がこんなこと拡散するわけ!」
 杏紗は両手で布団を叩いた。
「誰がこんなこと書きこんでんの!」
「ちょ、落ち着け、杏紗」
「同じ人間のすることだと思えないよ!」
「杏紗、まだ朝早いから。シーッ」
「もうネット上にゾンビくんって名前出てる。私のこと元カノって出てるし、裕翔のことまで書きこまれてる。昨日の事件だよ。同じ中学だった子しか知らないことだよ」

 結婚式に招待しているのは、中学を卒業してもずっと仲の良かった五人だ。互いの結婚式に出席し合う彼女たちがこんなことをするわけないが、五人にもそれぞれ地元の友だちや、仲良くしている別のグループがあるだろう。その中に、知人の知人から聞いた話をネットに書き込まずにいられない人間がいたのかもしれない。
 両親は顔を見合わせて、それから時計を見た。六時半。連絡しようと考えていた朝一番よりは早いが、杏紗はもらっていた番号に電話をかけた。

 二人組の刑事は、昨日と同じ服で三十分後に現れた。家に帰る時間もなかったのだろう。
 両親も立ち会ったが、要点を三つ、杏紗の口から話した。栗原元基が大池元基であることは、すでに判明していた。中学三年時に、両親の離婚によって東京に転校し、姓が変わったのだ。
「昨日伺ったお話では、婚約者の方と銀座に、結婚指輪を買いに行かれたんでしたね」
「そうです」
「そのことを、容疑者の栗原は知る可能性があったでしょうか」
 今日も質問するのは主に女性刑事だ。中年の男性刑事はただじっと杏紗を見つめているだけで、昨日は何も感じなかったが、今日はひとことも話さないのが不気味に思えた。
「ないと思います。連絡先とか、まったく知りませんから」
「間接的にはどうでしょう。友だちの友だちで繋がっていたとか」
「どうかな。大池くんは友だちの少ないタイプでしたし、孤立主義っていうか。転校後に誰かと連絡を取り合っていたとは考えにくいです」
「野木さんは、SNSはよく使われてますか」
「ときどきは使います。身内のみ公開のアカウントですけど」
「最近ではいつごろ、投稿されましたか」
 いつだっけ、と考えてスマホを見る。昨日だった。

 事件の直前に、『指輪買った』と投稿している。その前は、『今日招待状を発送。指輪は来週買う』とホテルのロビーからネイル写真とともに投稿している。
 親しい友人にしかアカウントを公開していないので、フォローもフォロワーも少数だ。
「アカウントを知るお友達の一覧はいただけますか」
「いいですけど、みんな結婚式に来てくれる子たちなので、あまり、迷惑がかかるのは困ります」
 杏紗は、「結婚式」という言葉で顔が熱くなるのを感じた。こうしている間にも、裕翔からはなんのメッセージもこない。裕翔がニュースの画像を観ていなければいいが。悪意に満ちた動画や二ユースサイトを見なければいいが。
 顔を覆った豆粒のような人影。小さい写真なので、足もとが濡れているのか、ただの影かはわからないけれど、裕翔が「気が動転して卒倒した」とは、そういう意味だったのだ。
 ただでさえ間近に通り魔の犯行を見てショックを受けたのに、無神経な言葉の数々は被害者に追い打ちをかけている。

「もし私が結婚することを大池くんが知っても、腹を立てたり邪魔をしようとか、まして刺してやろうなんて、そういう気持ちは全然ないと思います。本当に中学時代はいい友だちだったので、私が結婚することを知ったら、おめでとうって祝ってくれるはずです」
「野木さんを『元カノ』と書きこんでいる人がいますね」
 母が小さく息を呑み、口を挟んだ。
「だって刑事さん、田舎の中学生ですよ。ノートの貸し借りだけで、はやし立てるんです。ゾンビくんは可愛い顔してましたしね。ほかの女の子からも、もててましたよ」
 女性刑事は、母の言葉に二度ほど深くうなずいた。
「ゾンビくんというあだ名は、どういう由来なんでしょう」
「それは俺も知りたかったんだ」
 父が、自分も黙ってられないように口にした。
「本人が自己紹介で、元基って名前はお墓から出てくるゾンビに似てるって言って、ゾンビの絵を黒板に描きました。白と赤のチョークなのに、すごいリアルなゾンビで、みんな驚きました。というのが一番大きな理由です」
「別の理由もあるんですか」
「大池くんは、足がちょっと悪くて、股関節があまり開かないんです」
すり足で歩くので、グラウンドを歩いてもアスファルトの上でも、靴がずるずると音を立てる。ただ、目に見える身体的な欠点をあだ名にするのは中学生でも良心が咎め、本人の言葉や得意分野にあとから理由をつけたのだ。
「それでクラス内でいじめられたとか」
「ないです。例えば、普段ほとんど話さない人がたまたま面白いことを言ったらウケるし、親近感がわくでしょう。大池くんはそういうタイプです」
「栗原は教室でほとんど話さない。たまに面白いことを言うので、嫌われてはいない」
「というより、一目置かれてました。不思議な存在感があったので」

 杏紗の想像だが、元基は集団に括られるのがいやで友人関係を築かなかった。でも、文化祭では請われるまま展示の絵を描く。孤立主義だが排他的ではない。
 決して卑屈にならない堂々とした態度には筋が通っていて、不良たちにも格好よく見えたのだ。たまに、足を引きずって「ゾンビくん歩き」とからかってはいたが、元基はゾンビくんと呼ばれるのも楽しんでいたと思う。

 あの年頃は、人とは違う特徴があれば喜び、闇や死を連想させるものに妙に惹かれる。特に傾倒する人を中二病と呼ぶが、当時まさに中学二年生だったのだ。
 元基とやりとりしたポエムとイラストはどうしただろう。
 杏紗は命と星をテーマにした「千年の樹」というポエムめいた小説をノートに書いて、よく元基がイラストをつけてくれた。元基が創作したキャラクターに、凝った名前を付けたのは杏紗だ。杏紗をモデルにしたキャラクターもあった。
 妄想が炸裂し放題だった中学時代の黒歴史も、二十年経てば懐かしい。

 ふと、目を細めて優しい顔をしていた自分に、杏紗は気づく。もうずいぶん長い間、こんな表情を忘れていた。
 ひとりで東京に暮らして十数年、地元に戻りたくない一心で、どんな派遣先も仕事を早く覚えて失敗しないよう緊張して生活していた。元基もそうだったのだろうか。いつ仕事がなくなるかもしれないフリーのデザイナー暮らしで、将来のことを考えると叫びたくなるような夜を過ごしたのだろうか。あの毅然とした元基が精神科に通院していたというなら、よほど辛いことがあったのだろう。
「でも、たとえ精神的に追い詰められてても、あのゾンビくんが人を傷つけるって、信じられないよ」
 母がそっと、パジャマの裾を引っ張り、杏紗は慌てた。独り言を口に出していた。
 年配の刑事が、わずかに眉を上げて、杏紗を見た。

 父は、携帯の充電以上に出来ることはなさそうだと言って、店の仕込みに帰った。母はもう一日病院に残るつもりで、果物店にリンゴやみかんを買いに行ったが、杏紗が帰宅を促した。
「杏紗、ゾンビくんのことはいいかげん忘れなさいよ」
「忘れるもなにも、今まで何年も考えてなかったよ」
「裕翔さんはいい人だよ」
「わかってる」
 昨日病院に駆けつけてくれたときは嬉しくて泣いたのに、母がずっとそばにいるのは鬱陶しかった。生まれた時から自分を知っている相手がいると、余計に子どもだったころのことを思い出してしまう。

 元基が家に遊びに来たとき、母は初めて杏紗の部屋のドアをノックしたのだ。妙なことに気を遣う母が憎たらしかったし、わざわざ駅前でドーナツを買ってきて、おやつに出す気合いの入れようが、恥ずかしかった。
 ただの友だちだと、ポーカーフェイスを装っていたけれど、きっと母は杏紗が初恋に夢中だったことに気づいていた。

 だからといって、結婚を目前にしている娘に、中学時代のボーイフレンドを「忘れなさい」とは、見当違いも甚だしい。三十五歳の娘が、どれほど自分の人生を冷静に見つめて、今の結婚相手を選んだと思っているのだろう。
 真面目さがとりえで、大企業に派遣されて働くうちにわかった。
 美貌もなく愛嬌もなく積極性もない女は、社内恋愛などできない。男にとって空気のような存在になってしまう。
 恋愛には自己プロデュース力が必要だ。スクールカーストの上位にいた可愛くてコミュニケーション上手な女子は、恋の鱗粉を撒きながら男を絡めとっていく。

 その点、裕翔は楽だった。裕翔自身も恋愛慣れしていないので、草食系同士なんとなく流行りの店に行って、なんとなく映画を見て、なんとなくデートを繰り返すうちにホテルにも行った。
 大きな感動はなくても、いつもご馳走してくれたし、母親のアドバイスにしろ、付き合って一年とたたずにプロポーズしてくれた。これ以上の結婚相手はいない。
 結婚式では、大恋愛の末に結ばれた二人と紹介されるのだろうか。
 これを恋愛と呼ぶのは違う気もする。縁あって結ばれた両親の見合い結婚に近いと思う。
「私は裕翔と結婚するって、自分で決めたんだよ」
「うん。そうだね。でも……なんか、さっきのあんたを見てると」
「式まで二か月だから、マリッジブルーってやつだよ」
「ああ、そういうのあるよね。マリッジブルーか、ほっとした。じゃあ一旦帰るよ。また連絡ちょうだい」
 母はようやく安心したのか、剥いたリンゴを杏紗に渡し、みかんは自分が持って帰った。

「そうよ。自分で決めたんだから」
 杏紗はうなずいて、裕翔のラインにメッセージを送った。
「裕翔、大丈夫だった? 私なら大丈夫」
 ピースサインのスタンプを付けた。既読がつくまでテレビと交互に見守っていたが、裕翔は見てくれない。早朝送ったメッセージに対する友だちからの返信が入るばかりだ。
『杏紗無事でよかった』
『仕事の帰りにお見舞い行こうか?』
『変なこと言ってるやつは無視しなよ』
『卒アル出したやつは未来永劫同窓会省くって幹事が言ってる』

 友人の言葉に少し元気が出て、派遣事務所に欠勤の電話を入れた。
 杏紗はどうも派遣事務所に電話するのが苦手だ。みな口調は丁寧なのだが、登録者を商品と認識しているのが態度に透けて見える。担当者が不在だったので勤務先とフルネームを名乗ったが、通り魔事件とのかかわりは連想しなかったらしく、何も問われなかった。

 朝の番組は、放送時間のほとんどを銀座通り魔事件に費やしている。昨日よりも視聴者提供映像が増えていた。元基のことも詳しい情報が出ていて、両親が離婚してからの東京の生活についても報じられていた。父親はすでに再婚していて元基に関する取材は一切断っている。母親は離婚後にできた恋人と家を出て音信不通になり、今もどこに住んでいるのかわからない。元基は母方の祖父母と暮らしていた。
 その祖父母も数年前に相次いで亡くなり、現在暮らしているアパートの大家の女性は、家賃の滞納もトラブルもなくおとなしい青年と言う。
 元基の仕事ぶりは真面目で、質の高いものだったらしい。

 五年勤めていた印刷会社の社長は、
「デザインやアイディアの才能がある子でした。真面目で評判もいいし、仕事が続かないのは、怠けるとか人間関係じゃなくて、体力がもたないって理由なんですよ。有休使い切ったあとも欠勤していいから、って言うんだけど、それでは申し訳ないって辞めて、外注で仕事してもらうことになりました。あんな事件起こすなんて、今も信じられない気持ちです」
 と答えていた。
 写真はその会社で撮られたものらしく、真新しい作業着姿ではにかんだ笑みを浮かべ、中学時代の面影が残っていた。
 テレビによく出る犯人の写真は卒業アルバムや証明写真が多く、瞬きしないよう正面を睨んだ顔が多いが、元基は仕事中のよく撮れているスナップだ。通り魔事件の容疑者が、冷酷非道なだけの人間ではないことがわかる。
 社長が本当に元基を惜しんでくれていたのが忍ばれて、杏紗は歯がゆくなった。
「なんとか我慢して、ここにずっと勤めていればよかったのに」
 人間関係は良い会社だったのだろうが、新人のうちは覚えることが多く残業も多い。体育の授業を見学していた元基には、激務に耐えうる体力がない。五年勤めて体を壊したのが、転落のきっかけだったのだろう。

 考えてみれば、杏紗も短大を卒業して地元病院の事務に正社員として就職したものの、上司のパワハラについていけず三年で退職した。
「こんなんじゃ人のこと言えないよね」
 杏紗の地声の低さを、上司は反抗的と感じたらしく、ことあるごとに叱責された。
 退職後はしばらく鬱状態で寝込んでいたが、家が食堂なので忙しい時間帯は無理やり手伝わされる。
 最初は皿洗い、次はご飯を盛り味噌汁を注ぎ、いつしかホール係になっていて、失業保険を受け取り終わったころには、家の手伝いを辞めたくて次の仕事を探していた。

 ためしに派遣会社に事務で登録すると、都内の決算期経理補助の仕事がすぐに決まった。交通費は出ないが、時給は地元アルバイトではありえない額だ。一か月の短期仕事で三十万円近く稼ぐと、杏紗は鬱陶しい親元を出て、東京での一人暮らしを始めた。

 独立できる資格を取ったり貯金をするほど、将来を考える余裕はない。
 真面目に静かに一日一日生きて、少し余裕があるときに、長く使えそうな定番のバッグや靴をご褒美に買った。
 目の肥えた裕翔の母が、杏紗を受け入れたのも、流行を追わず良質のものを大事に使っている様子に気付いてくれたからだろう。
「私も、裕翔との結婚が決まるまでは、いつまで東京で暮らせるのかギリギリな気分だった。眠れなかったり蕁麻疹が出たり、心療内科に行こうかって思ったもんなぁ。お金がもったいないから行かなかっただけで」

 被害者の鵜目夫妻は子どもがなく、近所の人が取材を受けていた。工務店と名はあるが、鵜目氏の会社には正規雇用の職人はなく、仕事が入るとその都度知り合いの職人に声をかけて面子をそろえる、いわば手配業者だった。

 テレビに映った自宅は三階建てのデザインビルで、一階と二階が事務所で三階が自宅らしい。ガラス越しに見える駐車場には黒いベンツと赤いBMWが並んで、テレビ画面ではその上に鵜目夫妻の若かったころの写真が並んでいた。バブル時代らしい胸元の緩いダブルのスーツの社長と、金色のアラベスク模様の服にソバージュヘアの夫人だ。
 いい写真ではないな、と杏紗は感じる。七十年以上生きていれば写真はたくさんあっただろうに、どうしてこんなに派手で胡散臭い写真を映されるのだろう。写真提供者の小さな悪意がそのまま報道されている。
「でも、奥さんの方は助かったんだよね。よかった」
 杏紗自身も被害者の一人だが、死者が一人か二人かは、元基にとって大きいと思う。
「脳内に変な声が聞こえるとかゾンビくん言ってるし、精神科への通院歴もあるし。精神鑑定によっては無罪になる、はず」
 しかし被害者が多いなど社会への影響が大きい事件の場合、病気を抱えていてもある程度の責任能力が認められれば厳罰を与える傾向がある。裁判員だって、死者の数で受ける印象が全然違うだろう。

 派遣会社の担当者から電話がかかってきた。
 けがの具合を尋ねられ、今日の欠勤は有給休暇で処理することを淡々と告げられた。
 「お大事に」と言うだけで、事件については特に何も聞かれなかった。
 商品に対する機械的な応対が、今日は逆にほっとした。

 午後からの医師の回診で傷口を見て、実際に切れたのは左手の親指近くの甲から斜めに手首の小指側の骨(尺骨茎状突起というらしい)に向けての十センチほどだった。ナイフを見てとっさに左手を前に出し、体をかばったのだろう。
 皮膚は医療用テープでしっかりと固定されたおかげで、一日経って膿もなく、そのままふさがりそうだ。こんな軽い怪我で個室に入院しているのが恥ずかしい。
「痕は残りませんよ。傷が浅くてよかったですね。あのコートのおかげかな」
 ハンガーにかかっているのは、今年買ったばかりの黒いウールのコートだ。十一月には少し早いけれど、帰りが遅くなることを見越して着たのだ。左の袖に赤い汚れが付いている。
「ほかにけがされた方は、この病院にいらっしゃるんですか」
「いえ。昨日は野木さん以外にも軽傷の方がふたり搬送されましたが、応急手当を受けられて、すぐ帰られましたね」
 病院名と同じ苗字の名札を付けた若い医師が教えてくれた。すると、今朝まだ病院にいたマスコミの記者は、杏紗が出て来るのを待っているのだろうか。
「野木さんも、昨日はご家族が心配されて入院になりましたけど、今日退院しましょうか。抗生物質の飲み薬を三日分出しておきます。傷の経過は通院してもらうか、ご自宅近くの医院に通われるなら紹介状を書きますよ」
 杏紗は、仕事の帰りに通院することを医師に告げた。大したけがではない、と派遣会社に伝えたので、明日からは仕事に戻らないと。

 看護師が通用口にタクシーを呼ぶように教えてくれたので、杏紗は紙袋ひとつの荷物を抱えて、そっと退院した。タクシーで通り過ぎたあと振り返って病院の玄関を見ると、やはり記者が張り込んでいた。杏紗は座席に深く座り、大きくため息をついた。
「お客さん、もしかして銀座の事件に遭った人ですか」
「ええ。私はかすり傷ですけど。記者の人がたくさんいましたね」
「大きな事件だもんねえ。軽傷でなによりでしたね。あ、通り魔犯の方は、少し先の病院に入院してますよ。前を通るから見てごらんなさい」
 永井総合病院という看板が見える。警察車両が数台、マスコミの記者も大勢いて、レポーターによるテレビ中継も行われていた。元基はここに入院している。

「あ、私、忘れ物が」
 杏紗は運転手に、退院したばかりの病院に帰ってほしいと頼んだ。
 受付で、通院する病院を変えたいと伝えた。
 医師は午後の回診を終えて休憩に出ていたが、一時間ほど待っていると、紹介状を書いてくれた。宛名は永井総合病院だ。
 通用口から出るという看護師の助言を忘れて、うっかり病院の玄関を出た瞬間、杏紗はフラッシュを浴びた。

「野木杏紗さんですね」
「栗原容疑者の元恋人だったというのは本当ですか」
「あなたのことは今回の事件にどういう関係があるんですか」
「ご結婚されるそうですが、栗原容疑者はそのことをどう思っていたんですか」
 杏紗は、向けられたカメラとマイクの前で一瞬立ち尽くす。
「あの、すみません」
「婚約者の方とは、今回のことで話し合いされましたか」
 事件後連絡の取れない裕翔のことを尋ねられて、頬が一気にのぼせた。
 杏紗は顔を背けて駆け出した。病院の警備員や事務員が、追いかけようとする記者たちを制止する。
 病院前に停まったタクシーに、杏紗は急いで乗り込んだ。

 裕翔の母に電話をするが、繋がらず留守番メッセージになっていた。
「お義母さん、杏紗です。先ほど無事退院しました。お気遣いありがとうございました。裕翔さんの具合はどうですか。連絡がなくて心配しています」
 アパートに帰ると、婚姻届を出すために請求していた戸籍謄本がポストに届いていた。
 結婚式関係の書類の上に置いて、まずは入浴する。包帯を巻いた左手にビニール手袋をはめたので、シャンプーに時間がかかった。
 タイミング悪く、その間に裕翔の母から電話がかかってきたらしい。
『杏紗さん、退院できてよかった。裕翔は眠っていて電話できなくてごめんなさい。今日は遅いのでこれで失礼します。おやすみなさい』
 まだ夜の六時だが、暗に連絡を遠慮するように言われた気がして、杏紗は裕翔とのラインにメッセージを送るのをやめておいた。

 翌朝出社すると、男性は、まるで触らぬ神にというように杏紗に近寄らなかったが、今まで話したこともない女性たちから「野木さん、もう出社して大丈夫なんですか」と声をかけられた。
「大げさに包帯してますけど、幸いほんのかすり傷なんです」
「事情聴取とか、マスコミ対応とかも、結構大変だったんじゃないですか」
「そうでもないですよ。もっと大怪我の方もいらっしゃるし」
 これまで杏紗の存在を考えもしなかっただろう他部署の若い女子までが、懐に飛び込むように机の周りに集まってきた。
 大企業に新卒採用されるような子は、髪も目も輝きを放ち、凛とした姿勢とよく通る声を持っている選ばれた女子だ。急に自分が話題の中心になったことに気後れする。

「でも、吉倉裕翔さんは当分お休みされるから、いろいろ大変だったんだろうなあって」
「そうなんですか。私入院していたので連絡がとれなくて」
「体調不良でしばらく休むって、昨日ファクシミリで診断書が来ましたよ」
 杏紗は胃のあたりが重くなるのを感じた。自分はずっと裕翔からの連絡を待っているのだ。
「野木さんに連絡しないなんて、吉倉さんひどい。あ、ごめんなさい」
「いいんです。私より会社に連絡してくれてよかった」
「犯人の栗原って、本当に野木さんの元カレなんですか」
 突然レポーターのように迫ってきたのは、よく裕翔をからかう子だ。気の強さが伺えるので、杏紗は身構えた。
「友だちでしたよ。二十年ぶりにこんな再会になるなんて、びっくりしました」
「きっと不思議クンすねてるんですよ。栗原ってちょっと痩せ過ぎだけど、格好いいタイプじゃないですか。それに愛する女のために命を張ってくれそうな感じ。ナイフ持って『結婚なんて止めろ』って言われたら、私グラッときちゃいそう。不思議クンにはそんな雰囲気ないし」
 苦笑で返すと、彼女は周りの女子社員から「もう」と小突かれていた。
 しかし、彼女は核心を突いている。
 もし、元基が通り魔でなく、突然杏紗の前に現れ、結婚を止めさせようとしたら。『いいから、俺についてこい』そんなマンガみたいな話が本当にあったら、自分はどうしただろうか。
「野木さん、私だったら栗原いっちゃうな」
 それが若さなのかもしれない。
 彼女は杏紗より十歳は年下だろう。二十五歳の杏紗なら、安定した裕翔との結婚を振り切って、元基と逃げたかもしれない。

 仕事が終わるとすぐ裕翔に電話をかけた。留守番メッセージになっている。
「裕翔、私。具合はどう? しばらく会社を休むって聞いて、心配になって」
 メッセージの途中で、言葉が出てこない。連絡をくれない恨み言で裕翔を追い詰めてはいけない。
 英語ならこんなときは「アイラブユー」で〆ればいいのだろうが、今どんな言葉が相応しいのかわからない。ふと、元基の顔が頭に浮かんだ。中学時代の自分なら、自然に言葉が出てくる。
「声が聴きたかったの」
 頭から湯気が出そうなほど熱くなった。

 裕翔からの連絡を待って、あまり眠れなかった。
 土曜日の朝、杏紗はニット帽と眼鏡をかけて病院に向かった。
 永井総合病院の正面エントランスには警察車両とマスコミが待機しているが、駐輪場から入る狭い出入口には誰もいなかった。杏紗は形成外科の外来窓口に紹介状を出した。

 犯罪に詳しいサイトを調べてみると、元基は事件時に負傷したため、一旦釈放されて入院し、退院後に再逮捕されるらしい。
 もちろん周囲には逃亡や自殺を防ぐため警察官が見張っているだろうし、仮に危篤状態であっても、親兄弟などのごく身近な近親者しか面会は許されないだろう。

 杏紗は、形成外科の待合室にいる人を数えた。先に座っている人が十数人いる。患者の状態による多少の前後はあっても、しばらく自分が診察室に呼ばれる順番は来ないはずだ。
 椅子には座らずロビーを通り抜けて、入院棟に向かった。エレベーターを使わず階段を上がり、踊り場からそっと各階の廊下を覗くと、四階の奥に制服姿の警察官が立っているのが見えた。
「あそこだ」
 病室のドアが開き、中から誰かが出て来る。
 顔をもう少し廊下に出して覗き見た。杏紗の病室にも来た、女性刑事の姿が見えた。
 見張りの警察官がこちらを振り返り、杏紗は慌てて防火扉のうしろに座り込んだ。間に合ったと思う。見られてはいないと思う。
 カツカツ、と革靴の足音がこちらに向かってくる。
 見つかってはいないはず。
 けれど、エレベーターホールを通り過ぎて、足音はこちらにやって来る。   
 ドン!
 廊下側から、いきなり防火扉を押された。



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