倫理とは何か考える



昨今、何をするにも倫理が求められるようになってきた。過去の発言や行動、身内同士の冗談でさえ、道徳やモラル、コンプライアンスなど、様々な形で高い倫理観が求められる。これは、SNSの普及によって人間同士の相互監視が活発になったことにより加速したのだろう。世間一般の求める倫理観から外れた発言をすれば、他者から強く否定され、居場所を一つ失う。



そもそも倫理とは何か。辞書には、「人として守り行うべき道。善悪・正邪の判断において普遍的な規準となるもの。」と書かれているが、当事者によって善悪・正邪の規準が異なるため、普遍的な規準を明確に設定することは難しいだろう。全ての判断は、当事者の主観を基に行われる。「客観的に」とか、「第三者の視点で」といった考え方は結局、第三者の視点に立った場合のその人の主観であり、客観的とは言えない。多角的に主観で見ているだけだ。多角的に物事を捉えることは重要だが、あくまで主観であることを忘れてはいけない。



要するに、倫理という概念は存在するが、それ自体が善悪・正邪の判断という曖昧な観点から生まれた概念であるため、その存在が確立されているわけではない。不確かで、存在しているかも定かではないが、何となくそういうものであるとされているのが倫理だ。高い倫理観を求めている人は、主観に対する共感の強要をしているに過ぎない。こんな行動が倫理観の高い行動とは思えない。



SNSで散見する、高い倫理観や道徳心を求める人間に対して思うことは、世間一般で言う倫理観とは違う価値観を持っている人間や、その倫理観が育まれていない人間に対する配慮や理解が足りないということだ。私の中にも善悪・正邪の判断規準があり、嫌悪感を抱く発言や、行動を目にすることはあるが、その発言や行動に至るまでの経緯、その人間の善悪・正邪の判断規準が確立されるまでの背景を理解するまでは、それ自体を否定しない様に心掛けている。



SNSでは、この否定までのストッパーが外れている人間を多く目撃する。私はこういった人たちに、嫌悪感を抱くものの否定はしない。否定するには理解が足りないからだ。「行動は否定しても、人格は否定しない。」という考え方があるが、行動も人格もその経緯や背景を理解した上でしか、否定も肯定も出来ない。



この文章については、私がこの考え方に至る経緯や背景も含めて書いているので、それを踏まえた上で否定される分には、一意見として受け取ることが出来る。私の考え方に否定的な意見があれば、ぜひ聞かせて頂きたい。



しかし、「SNSでの一言や、動画の一部分だけを見て、それを否定するのは考え直した方が良いのではないか」というのが、私の主観的意見だ。

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