羽生善治「上達するヒント」

「将棋は、ゴルフ以上にバンカーの多いゲームです。(中略)しかし、基本の考え方・方向性を知っていれば、バンカーから抜け出すリカバリーショットは打ちやすくなるはずです。(まえがきより)

雑誌「Number」1010号「藤井聡太と将棋の天才」が大きな話題となっています。同誌が将棋を特集するのは創刊40年で初。それがサッカーW杯ドイツ大会直後に発売した660号「オシムの全貌」以来となる23万部超えとなったそうですから驚きです。藤井二冠の活躍はもちろんですが、ニコ生やAbemaTVによる中継時の棋士による解説、TwitterやYou TubeなどSNSを活用する棋士が増えたことで、棋士のユニークなパーソナリティが見えやすくなったことも現在の将棋ブームの一因でしょう。また、かつての「ヒカルの碁」までのブームとはなっていませんが、「ハチワンダイバー」や「三月のライオン」、「となりの渡辺くん」などの将棋マンガや、ロリ萌え設定の裏に綿密な取材と著者の将棋愛が脈打つライトノベル「りゅうおうのおしごと」なども忘れてはいけません。こうした一連の事象によって、将棋を楽しむ、語るハードルはぐんと下がったように思われます。渡辺三冠は早くから将棋も野球やサッカーを観るときのように、気楽に自由に見て欲しいと訴えていましたが、ようやくその時代が到来しつつあるのではないでしょうか。おかげで将棋ウォーズ1級レベルの、お世辞にも上級者とはいえない私が棋書についてレビューする、という暴挙を行えるようになったわけです。

さて平成以降、藤井二冠ブーム以前で将棋棋士の象徴的存在といえばなんといっても羽生善治九段です。羽生九段にはベストセラーとなった「決断力」をはじめ、様々な分野の著名人との対談や、近年ではAIに関する考察など、将棋界の枠を超えた著書が多く、将棋愛好家ならずともその柔軟な知性に惹かれている人は多いのではないでしょうか。もちろん優れた棋書も多数著しています。代表作を1つあげるとするならば、執筆当時の将棋界で広く指されていた戦法を幅広く取り上げ、解説した全10巻の大作「羽生の頭脳」でしょう。なにせ30年近く前に書かれた本ですから、そこに取り上げられている定跡は現在のプロの将棋ではおめにかかることはめったにありません。しかし、先手・後手、居飛車・振り飛車等の一方に偏ることなく、公平な視点で明晰に語られた本書は、今なおこれから将棋を学ぼうとする人への恰好の定跡書として、多くの将棋愛好家やプロ棋士が推薦するものとなっています。

今回取り上げた「上達するヒント」も、「羽生の頭脳」と同様、これから将棋を学ぼう(観る将・指す将問わず)と考えている人に推薦できる一冊。もともとは日本に比べて将棋の本が少ない海外の将棋ファンに向けて書かれたもので、高段者なら自然と身につけている、指すときの指針や感覚について解説しているのです。将棋には「形成判断」や「構想」、「さばき」、「厚み」など解説で頻繁に出てくるものの、初心者のうちはなかなかどういうことなのかピンと来ない用語がいくつかあるのですが、それらを具体例を示して分かりやすく説明しているのです。ユニークなのは具体例がすべて海外のアマチュアの対局を用いているところ。もともと海外の将棋ファンに向けて書かれたのですから当然なのかもしれませんが、強い人から見ると「なんじゃこりゃ」とか「こんなんもう終わっとる」と言いたくなるような局面から的確にポイントを拾い出して丁寧に解説すること、まして感覚的なテーマについて平易に言語化していくのは並大抵のことではありません。今回改めて読み直してみて、この本での羽生九段はまるで赤ペン先生みたいだと感じました。単に〇×をつけるのではなくて、生徒一人一人の実力に応じて気づかなかったことや見落としていた点を優しく解説してくれる先生。読み返す度に「ああ、これはそういうことだったのか」と気づきを与えてくれる、ずっと手元に置ける一冊です。

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