斎藤幸平『人新世の「資本論」』

資本論、マルクス、コミュニズム・・・これらの単語を目にしただけで反射的に「読む価値無し」と判断する人もいるかもしれません。まだそんなものにこだわっているのか、と思う人もいるでしょう。しかし、この本は右や左といった思想的立場を超えて、文明の行く末に危機感をもつ多くの人にとって知的興奮を与えてくれる得難い一冊です。先入観にとらわれず、虚心坦懐に著者の声に耳を傾けて欲しいですね。

「人新世」とは耳慣れない言葉ですが、本書によるとノーベル化学賞受賞者のパウル・クルッツェンが提唱したもので、人間たちの活動の痕跡が、地球の表面を覆いつくした年代という意味です。端的にいえば、人類の経済活動が地球の気候に大きな影響を与え、人類の繁栄を脅かしている年代ということになるでしょう。
そうした言葉を知らずとも、地球の環境が気候変動により現在、深刻な危機に直面している、それを何とかするために小さなことでよいからできることをやっていきたいという気持ちは私も含め、多くの人に通じるものだと思います。また、政府や企業も近年「SDGs」を掲げて活動を行っています。しかし、著者はきっぱりとそれは目下の危機に目を背ける行為、現実逃避に他ならないと言い切ります。見せかけの環境対策にうつつをぬかして安心している間にも気候変動は進んでしまう。なぜなら、そうした行動はすべて、環境破壊をもたらしている根源である、資本主義のフレームの中での立ち居振る舞いに過ぎないからです。

資本主義の発展により私たちは豊かな生活を享受することができるようになりました。しかし、それによって生じた負荷や問題点はすべて私たちからは見えない「外部」に転嫁されてしまっています。そして、資本主義は人間だけでもなく、地球環境からも搾取を続けて発展していったが、いよいよその負担を押しつけてきた「外部」も使い尽くされてしまおうとしている、というのが第1章で著者が提起する問題です。第2章ではそうした問題に対して従来取られてきた手段、「グリーン・ニューデイル」や「緑の経済成長」そして「SDGs」といったものが本当に有効なのか、経済の発展によって生じる環境負荷を技術の発展によって解消できるのかといったことが論じられ、否定的な結論が導かれます。では、どうすればよいのか。成長をやめればよいとか「清貧」を唱える人たちはこれまでにもいましたが、私にはこれらの発言は既に「持てる者」である人たちだからいえるのだろう・・・という思いを禁じ得ませんでした。では、どうすればよいのか。どこに進まなくてはならないのか。

著者が提示するのは「自由、平等で公正な脱成長論」に基づいた「脱成長コミュニズム」です。そして、その礎となったのがこれまでの通念から解き放たれた新しいマルクス像なのです。「資本論」以降のマルクスが、若き日の生産力至上主義、西洋至上主義から脱却し、到達した思想を、著者は読書ノートなどの資料を精緻に読み解くことで浮き彫りにしていきます。この過程は本書の中でもスリリングなところで、優れた人文知とはこういうものなのだと唸らされます。そしてそれだけに留まらず、導き出された新しいマルクス像をスプリングボードとして、公共財(コモン)を回復した「脱成長コミュニズム」の可能性が熱く、しかし強靭な論理性をもって述べられていく終盤の流れは圧巻です。単なるヴィジョンではなく、現実に胎動している多様なローカル運動も見据えている著者の視野の広さが、ここで展開されている「資本主義を乗り越える」という壮大な議論を地に足の着いたものにしています。本書は情熱と論理を両輪に読者を動かすエネルギーを秘めた、力強い警世の書なのです。

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