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"好き"から離れていく感覚

好きになればなるほど、知りたくなる。
知れば知るほど、好きになる。
しかし、求めれば求めるほどどこか遠ざかっていくような気がする。
けれど、その遠くなる距離にどこか安心感を覚えるのだ。

そんな感覚に見に覚えはないだろうか?
恋?ロマンス?そんな生半可なものじゃない。相手は人間じゃないのだ。

私の感覚で言えば、対人間であれば、遠ざかることはないように思う。むしろ近づいてくる。近すぎて、「うわ…、離れろや…」ってなる恒例のやつだ。どこにも私の望む安心感はない。

そんな風に考えている私がこの夏で特に感銘を受けた文章の話をする。

私が人間以上に好きなもの

一部の私と親しい人はお察しかもしれないが、私が好きでいろいろ調べ回っているのは”宇宙”である。
その理由などは追々詳しく書ければと思うが、ひとまず過去にstand.FMで話してるのでこちらご視聴下さいませ。

とある日を境に今に至るまで再熱しており、その関連で佐治晴夫さんの本を読んでいたり、その他、天文学系の本を読んでいる。ぶっちゃけそんな詳しくもないし、単に私が美しいものが好きなだけだ。

その好きが暴走して、現在は宇宙に関連したイラスト(主にぼいじゃーくん(仮))だったり、曲や詞をつくっていたりする。

けど、概念としてはあんなに身近な宇宙のはずなのに​思ったような宇宙を創ることができない。どんなに藻掻いても、足掻いても、近づくことができない。

うーん…ってなっていたときにある本を読み始めた。

そんな中、響いた本

ここ最近、何度か話題に出している本。アメリカの作家・思想家・詩人・博物学者であるヘンリー・デイヴィッド・ソローの日記である。
ある記事と出来事をきっかけに読み始めたのだが、こちらについてはまた追って話をしたい。絶対に書くから待って。強い意志で書くと決めている。

日記を読み終えてから、"孤独"や"愛"、"今"について考えることが多くなった。

この『秋』の中で特に強く印象に残った文章がある。

 私は星を見る。天文学者が言ってきたことはどれも星に愛をいだいていない。彼らは鈍感で、よそよそしい。天文学者たちの知識はまったく世俗的であり、地球にのみ関わっているように思える。どれほど精通していても、このようである。いわゆる知識というものは、卑俗でよそよそしい。
 望遠鏡や顕微鏡を通してみたものはすべてまったく幻影を見るようである。というのも、見る者が自分はそこにいると思っているが、それは目によってだけであり、他の感覚によるものでも、ひとりの全体的な人間によるものでもないからである。見る人にとって、これを見ることの崩壊である。

"ソロー日記 秋 H.G.O.ブレーク 編・山口 晃 訳"より

量子は観測しようとすると、なぜか挙動が変わったりする。それも連想されるような文章だ。

自分が感じている感覚と似ているような気がしてならなかった。「え?なんで昔の人が私の感覚を言い当てるの?」ってものすごく驚いてTwitterにもボソボソと書いたほどだ。

人間相手であれば、知れば知るほど深くなる。その分、思い入れや情も湧くわけだから引きつけ合う。それが好き同士であったり、恋やロマンスとなれば尚の事だ。
(その次のステップが愛じゃないかな…と個人的には思っている)

けれど、自然相手はまた別で、知れば知るほど視野が狭くなる。
これはもしかしたら人間相手も同じかもしれない。何かのあまりよろしくないレッテルを貼ることでそうとしか見えなくなってしまうような…アレだ。
頭でっかちになればなるほど、目や耳、鼻、舌、皮膚…五感で感じることが疎かになっていく。知識を得れば得るほど、何か大切なものを縛るような感覚があるのだ。

大切ななにかを知識だけで抱けるだろうか。その存在を感じられるだろうか。

私は本を読めば読むほど、動画を見れば見るほど、イラストを描き、音楽をつくろうとすればするほど、宇宙が離れていくような感覚がある。私がつくるもので宇宙を縛り付けているような、けど、宇宙はそんな檻に縛られるような存在ではないのだ。
スルリ…と額縁から逃げていく。

この感覚はわかりあえないだろうと思っていたから、ソロー日記に近しいことが書いてあって、鼓動が早まるような感覚があった。

宇宙はとても身近だけど私のものにはならない

追い求めれば追い求めるほど、遠くなっていく。それは更に知りたいことが増えたり、新たなロマンが生まれたり。光を当てられたかと思えば、また次の影が現れる。そのようにして、本当の姿は一向に見せてくれない。

宇宙のことを少し知り始めると、身の回りの全ては星のかけら、宇宙の一部であることを知る。とても身近なのだ。
遠くはあるが、近くもある。誰のものでもなく、誰かのものである。それが"宇宙"なのだ。

けれど、どこまでも遠くて、どこまでも私のものにはならない"宇宙"に、どこか安心感を覚える。
私のものにならないということは、私は何の責任も取らなくていい。次の進展だとか、関係を維持しなきゃいけないとか、余計なことを考えなくていい。

私にとって、"宇宙"は適度な距離感でいられる、唯一の存在だ。だから、私と"宇宙"の邪魔をしないでほしい。
絶対に"宇宙"は私のものにはならないけれど、ずっと追いかける対象として想い続けたいんだ。

大切ななにかを知識だけで抱けるだろうか

少々、性的な話をするが、知識だけで人を抱くことはできない。抱かれることもできない。身体の構造・仕組み・反射を知っているだけじゃ、満足の行く一夜を共にすることはできないでしょう?
きっと愛したいと思える人と行う行為だからこそ、満たされるような感覚があるんだと思う。たぶん。

しかし、そういう経験がないだけかもしれないが、心と身体を同時に満足させることはできないと思っている。私の場合、お互いに愛し合っているわけでもないのだから心が満足するわけはない。けれど、身体は勝手に刺激に反応するわけだ。
こうすればこうなる、ああすればああなる、そういったくだらない知識だけが先行する。感情は伴わない、虚しい行為になる。
(単に私が相手を信頼していない、愛していなかったのは大きかったとは思う)

結局、人間の性の営みで例え話をしちゃうのは私の悪い癖だ。けれども、そういうことだと思うんだ。

大切ななにか、それは人かもしれない。物かもしれない。概念かもしれない。
知識の前に、それらに対する感情がある。それらを愛したいと、好きだと思ったきっかけ・理由が存在するはずだ。ありのままの"大切ななにか"を感じるための準備。

知識をつけてドヤァ!!ってするよりも、"大切ななにか"の存在を感じて抱きしめたい。想いを馳せたい。そう思うんだけれど、私だけかな。

最後に、あなたへ

これが普段私が考えていることだ。宇宙には想いは届かない。けれども、私なりに向き合いたいなと思って、今に至っている。

近づけば離れる宇宙へ、離れていくあなたの存在にどこか優しさのようなものを感じます。この距離があなたと私を繋ぐ、唯一の道です。見えないへその緒かもしれません。
この距離を信じて、私なりのあなたを表現しようと思います。


May the wind be ever at your back

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