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強くなんてなれなくていい

大人になれば、心身ともに強くなると思ってた。

失恋しても傷つかなくなると思ってた。
大事な人が亡くなっても笑っていられると思ってた。
失敗しても立ち直れると思ってた。
裏切られても平気だと思ってた。
転んでも痛くないと思ってた。

でも、誰だってそうはなれない。
当たり前だが、大人になっても辛いもんは辛い。

そして最近思うのだ。
「強くなんてなれなくていい」と。

自分に厳しいと傷の治りが遅い

割と最近まで私は、自分を褒めたり甘やかしたりするのが苦手だった。いや、今でも得意ではない。
努力ができない自分は無価値で、成果の出ない自分に焦って、ムチ打っては病んで...を繰り返してきた。

最近になって気付いたことは、自分に厳しいと傷の治りが遅くなるということだ。

不可抗力的な出来事は、自分を責めても状況は変わらない。
それどころか、辛くなってもっと無気力になってしまう。

もちろん、反省は大事かもしれない。「もっとこうすればよかった」「次はこうしよう」と学ぶことで、辛い経験は次の糧になる。

だからといって、自分自身を責め、自己否定をしてしまうと、状況が余計に悪化することを経験で学んだ。「自分がバカだから...」「他の人は出来るのに...」と悔やんだところで何も得るものはない。それどころか、自己効力感が削がれてしまうのだ。

努力することと自分を責めることは違う

努力は、自分をよりよい状況に導くためにするものである。
それは予測通りの結果になることもあれば、思い通りにいかないこともある。あるいは、思いがけない結果をもたらすこともある。

努力は、積み上げていくものだと私はイメージしている。
対して、努力ができない又は思った結果が得られない自分を責めることは、マイナスに向かってる感覚を覚える。

自分を鼓舞するつもりが、結果的にブレーキをかけてしまっていたのだ。

他人との比較や焦りは、自分を鼓舞するように見えて、実は消耗させているのかもしれない。

弱い自分を認める

大人になったって、強くはなれない。
辛いもんは辛いし、苦しいもんは苦しい。

それはどうあがいても変わらない『自分』なのだ。

どんなに頭で「これくらい気にしない」と思っても、心がきっちり傷付いてしまっていれば、そっちに従うのが正解なのだ。

自分は強くなんかないし、苦しんでいる。傷付いている。
それを認めてあげられるのは、紛れもなく自分自身だけなのだ。

無理に強がると、感情が適切に処理されず、いつまでも不機嫌でいる自分に気がついた。
どうせ傷ついてるなら、ちゃんと弱い自分を認め、「数日だけだから!」と自分を労る時間を取るべきだ。焦ると余計に傷が癒えないからね。

私は自分を慰める...というのはなんだか恥ずかしくてできないので、最近は好きなイケボを脳内再生して「偉かったよ」「頑張ったよ」と言ってもらっている(そっちの方が恥ずかしくない?というツッコミはさておき...)。


強くなんてなれなくていい

そもそも、「強くなる」必要なんてないと思う。

人はいろんな経験を経て、感情や対処法、人生について学び取っていく。
「強く」はなれないけど、ちゃんと「賢く」なっているはずなのだ。

傷つかなくなるようにはなれないけど、傷ついたときどうしたらいいかはちゃんと学習している。
他人が傷ついたとき、どんな感情でいるか想いを馳せることができる。
傷ついた人を、より適切に慰めることができる。

私も学生時代に「この人となら結婚してもいい!」と思える人に振られた経験があったけど、そのときは「失恋ごときでクヨクヨする女にはなりたくない」「あんなクソ男別れて正解よっ」って強がっちゃって、泣けなかった。それでめっちゃ引きずった。5年くらい人を好きになれなかった。
そして先日また大好きな人に振られたときは、学生時代の失恋を思い出してめっちゃ泣いたし、ちゃんと「好きだった」「いい人だった」って認められた。

結局大人になっても強くはなれなくて、失恋しても悲しいし辛いし苦しい。でも、経験から学んで正しく受け身を取れたし、そのおかげで少しずつ前向きになれている。

強くなんかなれなくても、そういう「経験」「知識」「感情」といった財産が、ちゃーんと身になってるからね。

強くなんて、なれなくていい。

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