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たとえ穴が埋まらなくても
子供って 乾く前のセメントみたいなんですって
落としたものの形がそのまま跡になって残るんですよ
漫画をほとんど読まない私が読み続けていた作品の映画化。そのうち観に行こう〜と思っていたけど、予告を見ていたらこの台詞にハッとした。
人の記憶って、曖昧だね。ちゃんと読んだのに、どうして覚えていなかったんだろう。当時の私はこの台詞にどきっとしなかったのかな。まるで自分に言われているみたいだった。誰かにそう言ってもらいたかったかのような言葉だった。
人は弱くて 壊れやすくて
病むことも 倒れることもある
だから修復する 治そうと思う
それができると信じてる
翻って日本では 弱さを認めない
弱い者は負けで 壊れないのが正しい
壊れたら退場で 悩むことすら恥ずかしい
弱くて当たり前だと 誰もが思えたらいい
整くんがぽつぽつと誰かに向けてそこに置く言葉たちは、綺麗事ばかりではなくて、物語として綺麗にまとめるためだけの言葉でもない。私たちが生きる現実世界に程近くて、その距離感が心地良い。そしてどこかに希望を持たせてくれる、そんな優しい言葉たち。
大丈夫
困難な時こそ 希望に向かえる大人になれるよ
幸せになれるからね
お父さんが汐路に贈った言葉。
なんでか分からないけど、涙が出た。
人前で泣くことのなかった私が、体調を崩してから自分の意思とは関係なく涙することが増えた。それは何の涙が分からなかったけど、いつも心がぎゅっとなった。その感情に少しでも触れるような言葉を発した瞬間、いつも勝手に涙が出てくるから余計に自分が嫌いになった。弱いみたいで、泣き虫みたいで。だけど我慢するとかコントロールするとか、そんなレベルはとっくに過ぎていたみたい。
そんな時期を昨年末ぐらいにようやく一旦乗り越えて、春を過ぎたあたり、感情のコントロールがまた少しずつできるようになった。
だけど気づいたら、1人でいるときにも泣けなくなった。
人前で泣かなかっただけで、人に弱音を吐けなかっただけで、身の回りで起こる消化できないような出来事と自分の感情を擦り合わせて1人になったときには泣けていたはずなのに、それができなくなったことに気づいた。
恥ずかしくない自分でいたかった。情緒不安定だと思われたくなかった。だからその自分でいるために、感情が揺さぶられそうな出来事すべてに耳をふさぐみたいに、目をとじるみたいにして過ごしていた。そうしたら嫌いな自分のひとつは消えてくれたけど、感情がどこかに置いてきぼりになった。心が鈍感になってしまった。だけど結局、耳は聞こえているから、目は見えているから、起こった出来事はちゃんと私に降り注いでいるわけで。
この日、観に行って良かったなぁと思った。
汐路を私自身に重ねるみたいに、整くんの言葉もお父さんの言葉もしっかりと受け止めて、なんだか簡単な言葉すぎるけど、心が元気になった。
映画館を出たら外はすっかり陽が落ちていた。
映画って、タイムトラベルみたい。
私たちの世界では2時間ぐらいなのに、物語の中では人の人生が数日間描かれていたり、数ヶ月だったり、1年だったり、数年だったり。フィクションとはいえ他人の人生がぎゅっと詰まってる。他人の時間を覗き見して、現実に戻ってくるみたい。
実際は物語のように決められた時間にまとめられるほど簡単ではないし、結末がはっきりしている人生を歩むことだって難しい。だけど私はきっと、綺麗な人生を目指したいわけではないんだろうな。いろんな人や物からの言葉を心で受け取ることのできる、そんな私でいたい。きっとその結果が私の人生をつくってくれると思うから、結末を決めなくたっていいはず。
やっぱり、言葉って偉大で、心強い。
だからこそ簡単に凶器にもできてしまう。
人にあたたかい言葉を贈り続けられる私でいたいし、
たくさんの言葉を受け取り続けられる私でいたい。
セメントに落とされたものがたくさんあったとしても、そのまま大人になったことで固まってしまったとしても、その穴があるからこそ人の優しさとあたたかさをより感じることができる。人の痛みに気づくことができる。
穴を恥ずかしく思うことなんてないんだよ。
ずっと、私にそう言いたかった。
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