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気まずくならない指摘の方法

カーナビの言うとおりに右折した。Uターンみたいに折り返して、急な坂を上る道に入った。その先は、温泉街の裏の業務用の通路のような、細い道に続いていた。前の車に、すぐに追いついた。前の車は、遅かった。運転しているのは、若い男の子だった。車の動きから、ハンドルを握る掌の汗の量が伝わってきた。
河鹿橋の駐車場は満車だった。駐車場の入口の反対の車線に、車の長い行列ができていた。こちら側には、行列がなかった。どうやら、さっきの細い道は、河鹿橋に行くためのメインのルートではないらしい。行列を横目に見ながら、駐車場にバイクを入れた。駐車場の中では、言い争いが起きていた。行列のない方のルートから来た車が、対向車線の行列を無視して、駐車場に入ったみたいだった。
河鹿橋は、駐車場の出口のところにあった。赤い橋の上に茂る葉は、まだ紅葉していなくて、写真でよく見るような、京都の嵐山のような風景ではなかった。写真を撮って、景色を眺めようとした。さっきのいざこざを見てしまったせいか、駐車場の入り口の行列からイライラした雰囲気が漂ってくる気がして、落ち着かなかった。
橋の上から下を覗くと、透明感の全くない、茶色の水が流れていた。図工の時間の後で、絵の具を洗ったときの水のようだった。
伊香保温泉露天風呂に着くと、ここにも行列ができていた。人数制限をしている、と張り紙がしてあった。受付の女の人に、どれくらい待つか、聞いた。4人と7人の団体がそろそろ上がるはずだから、30分もかからないと思います、と教えてくれた。ここの露天風呂は、体を洗う設備がなくて、ひと風呂浴びたら出るのが普通だから、確かに、あまり待たなくてもよさそうだった。
整理券を受け取って、受付の前の庭のような所で待った。最近は、ツーリング中は、カーナビと、グーグルマップと、写真と、メモに使う以外には、スマホを使わないようにしている。検索もしない。ちょっとしたゲームのようなものだった。だいたい、ツーリングの初日は、気になったことがあったら、すぐに調べようとして、スマホに手をかける。そして、思い直して、手を止める。それを繰り返す。調べなくても、何も困らない。それは、普段、どうでもいいことをちょっと調べるだけのつもりでスマホを見て、そのまま脱線して、もっとどうでもいいことをダラダラと見ている自分を反省する良い機会になった。でも、こういう待ち時間のときは、少しムズムズした。周りは、全員、手元の画面を黙ってみていた。バックパックの中から、ツーリングマップルを取り出した。読めるものは、それしかなかった。
30分が経過した。4人と7人の団体は、まだ上がってこなかった。待合室にいた客の一人が、1時間以上経つけど、さっき言っていた4人と7人の団体客は何をしているんだ、と受付の女の人に聞いていた。女の人は、時間制限はしていないので、すみません、と謝っていた。30分の間にも、観光客は次々とやってきた。受付の前は、かなり混雑していた。待ちきれずに、帰る人もいた。そうしている間にも、親子連れが一組やってきた。待ち時間はわからない、と言われたお父さんが、少し迷ってから、整理券を受け取っていた。壁一枚向こうの露天風呂からは、楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
そのうち、7人の団体と思われる客が出てきた。中学生くらいの年頃の子供だった。受付の前に並ぶ大人たちのイライラが伝わるみたいで、露天風呂の扉を開けて外に出た瞬間、笑っていた顔が凍り付いた。怖いものを見たときの顔をして、体を小さくしながら、ロッカーの鍵を受付に返して出ていった。
結局、50分待った。中に入ると、奥の方に、4人の団体客がいた。20代前半の人たちが、湯船の縁に腰かけて、足首だけ湯船に入れて、ダラダラとしゃべっていた。
人数制限をしていても、露天風呂は混雑していた。スペースが空いているのは、その4人の隣だけだった。あまり近寄りたくなかったけど、それは誰も同じらしかった。もう1時間以上も入っているのだから、さすがにそろそろいなくなるだろう。そう予想して、4人の隣に入った。
伊香保温泉露天風呂のお湯は、熱くもなく、ぬるくもなかった。しっかりと体を沈めると、温泉が体にしみこんでくるようだった。湯の色は茶色だけど、さっき河鹿橋から見たような茶色ではなかった。
右側では、途切れそうな会話を無理につないで盛り上がろうとする飲み会の3次会のような会話が続いていた。しゃべっているのはほぼ1人で、2人が相槌を入れていて、1人はうんざりした顔で別の方を向いていた。5分ほどしたときに、別の方を向いていた男が、45分、と言った。時計の分針を読み上げたらしい。言いたいことがあるならはっきり言えよ、と思った。その隣の、1人でしゃべっている男が、もうこんな時間か、もう一回温まろう、と言った。そして、風呂に入ることもなく、湯船の縁に腰かけて、足首だけ湯船に入れたまま、別の話を始めた。
さっきの親子連れのことが、頭をよぎった。気まずい空気になるのは嫌だった。1分ほど考えた。それから、右斜め前の、45分と言った男に、外でたくさん待っている人がいるので風呂に入らずにしゃべるだけなら上がった方がいいですよ、と伝えた。
45分の男は、すみません、と言って、気分を害する風でもなく、すぐに腰を上げた。相槌を打っていた2人は、こっちに向かって頭を下げた。1人でしゃべっていた男は、明らかに不服そうだった。何か言いたそうな顔でこっちを見たけど、何も言わずに出ていった。
4人がいなくなったあと、左側で、大きな声でしゃべっていたおじさん二人組が、あと15分だな、と言った。じゃあ、私もあと15分にしよう、と思った。でも、10分くらいで十分だった。風呂から上がるときに、さっきの親子連れが、入口の近くの湯船につかっているのが見えた。
駐車場に向かって歩きながら、もしかしたら、7人の中学生も、4人組も、外で待っている人がいるのを知らなかったのかもしれない、と気が付いた。自分たちが入場するときに、誰も並んでいなくて、人数制限していることも伝えられなかったら、外で行列ができているのを想像するのは難しい。そう考えると、誰も悪くなかった。
それなら、ああいう言い方は良くなかった。何かもっといい方法はないか、ぼんやりと考えながら、駐車場に向かって歩いた。河鹿橋を渡っているときに、一つ思いついた。
「温泉ご利用中のお客様、おくつろぎのところ、大変申し訳ありませんが、ただいま、順番をお待ちのお客様が、多数いらっしゃいます。誠に恐縮ですが、長時間の御歓談等はお控えいただきますよう、ご協力のほど、よろしくお願いします。本日のご利用、まことにありがとうございます」
と、係員のふりをして言う、というのはどうだろうか。大きな声を出せば、露天風呂の中の客にも必ず聞こえる。受付の女の人も、周りの人も、みんながびっくりするだろうし、こっちはそれなりに恥ずかしい思いをすることになるけれど、誰も気分を悪くしないで済みそうだ。これは、悪くない。気に入った。
ただ、思いつくのが遅すぎた。考えは気に入ったので、実行できなかったのが残念だった。待っているときは、イライラしているだけで、何も考えてなかったのが、よけいに悔しかった。あんなときでも、何かできることがないか、と考えて、これくらいの機転を利かせられる、とんちのきいたナイスガイになりたい。

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