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十分に注意してください

朝6時に足寄を出発して、R273で三国峠に向かった。山の中のまっすぐな道を走っているときに、タウシュベツ、という看板を見つけた。タウシュベツ。その単語は、インターネットで北海道のことを調べているときに、どこかで見た気がした。何なのかは、思い出せなかった。ちょうど、そろそろ休憩しようと思っていたので、道路の路肩の駐車場にバイクを止めた。
駐車場の向こうは、深い森だった。北海道の他のところとは、少し違っていた。いかにも、深い山の中、という雰囲気がした。駐車場の端に、看板が立っていた。展望広場まで180m、と書いてあった。矢印は、まっすぐ、森の中を向いていた。その看板の上には、車上荒らしに注意、というのぼりが立っていた。看板の下には、国道を横切る熊の親子の目撃情報が書いてあった。世の中には、いろんな種類の危険がある。
看板の下の、熊の目撃情報の後には、こんなことが書いてあった。
「展望台をご利用にある際は、十分ご注意ください。特に、早朝、夕方の薄暗い時間帯は出合いがしらに十分注意してください」
今は、朝7時だった。薄暗くはないけれど、R273を通る車は、まばらだった。十分注意してください、と言われても、どう注意すればいいのか、わからなかった。
カムイワッカで熊を見てからは、木がたくさん生えているところを見ると、どこを見ても、木の影に熊がいるような気がした。カムイワッカからここに来るまで、そういう場所は、何カ所もあった。その中でも、ここはダントツだ。絶対に、熊がいる。ようにしか見えない。タウシュベツが、何のことかも知らないのに、熊が確実にいる、ようにしか見えない森を通って、展望台に行く意味があるのか。展望台に向かう遊歩道の入口で、考えた。慟哭の谷の、あんなシーンとか、こんなシーンが、頭の中によみがえった。
「葦が一面に踏み倒され、得体のしれないものがはずれに横たわっていました」
得体のしれないものと化す危険を冒してまで、見る意味があるのかタウシュベツ。たぶん、ないと思います。
それはわかっていた。でも、行ってはいけない、とは、どこにも書いてなかった。それが、引っかかった。十分に注意すれば、行けるのだ。行かなかったら、それはお前が十分に注意できない奴だからだ、となるのが、気に入らなかった。できないわけじゃないんだ、思い出せ、慟哭の谷の教えを。後ろを向いて逃げない、目をそらさない、体を大きく見せる。あと、スマホでにぎやかで勇気の出る曲を流す。ボリュームは、最大だ。
なんだかわからないタウシュベツを見るために、どうでもいいところで引っかかって、何をやっているのかよくわからないままだったけど、森に向かって踏み出した。
この180mは、長かった。四方に目を配りながら、慎重に足を進めた。敵が待ち伏せしているかもしれない森の中を、決死の覚悟で突破する兵士のような心境だった。
長い180mの先にあった展望広場は、小さかった。展望広場のところだけ、木が少なくなっていて、すき間から、糠平湖が見えた。糠平湖の対岸に、朽ちかけた白いアーチ橋が、小さく見えた。タウシュベツって、あれのことか。確かに、その橋の写真は、どこかで見たことがあった。湖の対岸のアーチ橋は、とても小さかった。しっかり見るには、目を凝らさないといけないけれど、そうすると、周りへの警戒が、おろそかになる。展望広場、といっても、実際は、木の隙間から湖が見える平らな場所、というだけだった。数メートル後ろには、熊が十頭くらい隠れてもおかしくない深い森が広がっていた。湖の方を向いている間は、森の中の熊に、背中を見せていることになる。アーチ橋に気を取られていると、熊が来た時の反応が遅れる。その数秒が、致命的な差になりそうな気がした。
しかし、ここで、チラチラとアーチ橋を見るだけで終わったら、何のために、命がけの180mを歩いてきたのか。出会いがしらに気を付ければいいはず。熊は、好んで人間とは接触しないはず。向こうが先にこっちを見つけたら、近寄ってこないはず。慟哭の谷に、そう書いてあった。バックパックから、双眼鏡を取り出した。
ぬおー。双眼鏡で見たら、橋はよく見えるけど、それどころじゃないくらいに、こーわーいー。視界が狭くなっただけで、めちゃくちゃ怖い。これじゃ、真横に熊が立っていてもわからない。俺は、こんなとこで何やってんだ。わけわかんないから、もう帰ろう。

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