見出し画像

油断大敵

延暦寺、というと、仏教の中でも、タフなイメージがあるけれど、その本堂の根本中堂には、タフな延暦寺の象徴ともいうべき「不滅の法灯」がある。毎日、朝夕に、菜種油を継ぎ足して、明かりの絶えたことのない法灯。その期間、788年から、2021年現在で、1233年間。1233年間、明かりが灯り続けている。タフだ。毎日、朝夕、菜種油を足す、というのが、いい。巨大菜種油タンクを三つ接続して、電動で給油、タンクの残量が50%以下になったら、スマホでお知らせ、って、そんな簡単な世の中じゃ、つまらない。そんな法灯、きっと、停電なんかに足元すくわれて、すぐに消えちゃうんだ。
朝夕に菜種油を足す、という仕事は、たぶん、そんなに難しくもないし、大変でもないだろう。そこに、1233年の重みが乗っかると、責任の重さが、大変なことになる。万が一でも、火が消えたら、1233年の歴史が、終わり。これは、しびれる。
「君、明日から、不滅の法灯の担当ね」
こんなこと言われたら、それだけで病気になりそうだ。不滅の法灯の給油係に任命されるのは、仏教界では、どれくらいのステータスなんだろうか。
ちなみに、油断大敵、の語源は、不滅の法灯です。こんなに、日本語にがっちり食い込んでいる単語の語源が、現役、というのも、かっこいい。
私が訪れたとき、根本中堂は、十年がかりの大改修中だった。改修工事は、根本中堂を、工事用に、もう一回り大きな建物で全部覆ってしまうくらいの、とても大掛かりなものだった。外観は、全然見えなかった。中も、ジャングルジムのように足場が組まれていた。
そんな中、不滅の法灯は、どうなっていたかというと、あんがいラフに扱われていた。鉄パイプの足場が、不滅の法灯の周りにも、びっしり立っていた。足場が邪魔で、不滅の法灯が見えにくかった。こんなにしちゃって、足場を撤去するときに、ひっかけてひっくり返してしまわないか、心配になった。お坊さんが不滅の法灯の給油担当になるのと、足場を組む工事のおじさんでは、責任感が違う。こういうのは、こういうときに限って、普段起きないような失敗が起きるものだ。延暦寺の皆さん、油断してないか。
そうやって、足場の隙間から、暗がりの中でぼんやりと灯る不滅の法灯を覗いていると、足場の向こうの暗がりの中に、もう一つ、明かりがあるのが見えた。炎が上がっていた。耳を澄ませると、木がはぜる音も聞こえた。そっちに近寄って、足場の隙間から観察した。炎の前を、影が横切った。お坊さんの手だった。暗がりに目が慣れたとき、炎の前に、お坊さんが座っていて、護摩を焚いているのが見えた。
お坊さんは、傍らに積み上げた護摩を、一定のリズムでつかんでは、目の前の炎の中にくべていた。炎の他には、明かりはないので、お坊さんの姿は、ほとんど見えなかった。耳を澄ましても、お経は聞こえなかった。でも、暗がりの中で、炎を前に、無心に護摩をたく僧侶の姿は、迫力があった。
もしかしたら、その迫力は、周りの足場のせいかも知れなかった。足場の向こうの暗がり、という部分だけ抜き出すと、今は使われていない廃工場のような雰囲気もあった。そんなところで、火を焚いて何やら唱える僧侶の姿は、映画だったら、見たらダメなやつだ。こっそり逃げようとして、うっかり物音を立てて、しっかり見つかって、やっぱり残念な結果になるやつだ。
でも、ここは、由緒正しき延暦寺だから大丈夫だ。こんなにしっかりと、念を込めて、護摩を焚いてくれるのであれば、願い事も叶いそうな気がした。これからの健康を祈願して、護摩を奉納した。
今回のツーリングは、延暦寺で終わり。あとは、高速道路で家に帰るだけだ。油断しないで、安全運転で帰ろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?