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あの人もゴロー

また、ひろめ市場に帰ってきた。
前の四国ツーリングの時は、日曜日の夜に来た。見渡す限りに広がるフードコートのフリースペースみたいな席がぎっちり満員になっているのを見て驚いたのを、今でも覚えている。一人だから、図々しくどこかの隙間に相席すればいい、と簡単に考えていたので、広い空間に大勢の人がいる、という圧にやられてしまって、相席も頼めずに、ずいぶん長い間、空腹を抱えてウロウロした。結局、それだけで疲れてしまって、市場の中にたくさんある店を見る余裕がなくなって、マップルにも載っていて、ひろめ市場で一番目立っていた明神丸という店の行列に並んで、カツオのたたきを買って食べた。それが、前回のひろめ市場の思い出だ。カツオのたたきはおいしかったけど、あまり良い思い出ではない。
今回は違う。まず、行くのを水曜日にした。週の真ん中なら、あんなに広いスペースを人が埋め尽くして全員で一斉に宴会しているようなことにならないだろう。そして、明神丸は封印だ。そうだろうゴローさん。自分勝手に、幸福に空腹を満たすのだ。いきなり知らない店の中に飛び込むのは難しいけれど、ひろめ市場なら、店の様子も、何を売っているのかも、見える。ゴロー初心者に優しい。でも、カツオのたたきだけは、ハズすと残念が過ぎるので、それだけはマップルで調べておいた。やいろ亭、というところが良いらしい。とりあえず、そこでカツオのたたきを買って、あとは、自分の感覚を信じて、おいしそうなものを買って食べるのだ。
高知市内のホテルにチェックインして、着替えたら、すぐにひろめ市場に向かった。水曜日の夜ではあるけれど、早い時間の方が、より空いているはずだ。
そして、私は、今、ひろめ市場の建物の前に立っている。行くぞ!
ひろめ市場の入口のビニールのカーテンをくぐりぬけると、見渡す限りに広がるフリースペースはぎっちり満員で驚いた。前回の日曜日の夜と何も違わない。話が違う。みなさん、今日は水曜日の夜ですよ。明日は木曜日ですよ。大丈夫ですか。お仕事があるでしょう。家でおとなしくしておいた方が良いですよ。なんなんだこれは。どうなってんだ。高知は木曜日が休みか。
くそー、負けるもんか。気を取り直して中に入った。前回は、あまりの圧にやられて、相席を頼めなかったけど、今回は違うぞ。成長したところを見せてやる。すみません。ここ、空いてますか?あ、そうですか。ダメですか。じゃああっちに行ってみよう。すみません。ここ空いてますか。あ、そーですか。あそこはどうだ。ここ空いてますか?あ、そーですか。あっちか。すみません。ここ、空いてませんよね。ですよね。あそこは…、どうせ空いてなんだろ。よし。相席は、ない。どうだ、成長しただろう。こんなにも相席を頼めるようになったぞ。
市場の真ん中にある、カウンターで囲まれたところに向かった。前回は、あのカウンターの、二人連れの客の間の隙間に空いた席に無理やり座った。今回も、一つだけ席が空いていた。両側の二人連れの客の間で、ほとんど押し出されているけれど、そこに、イスが一つあった。すみません。ここ空いてますか。あ、空いてますか。じゃあすみません。両隣の人が、仕方なく、というそぶりで、皿を数cm動かしてくれた。この時点で、体力は、もうほとんど残ってなかった。この点も、前回と同じだ。
席を確保したことを主張する荷物を置いて、やいろ亭へ向かった。やいろ亭の前には、行列ができていた。行列の最後尾に着くと、残り少ないHPが、ほとんど0になった。店の壁に、メニューが貼ってあった。アオサの天ぷらが、人気メニューとして載っていた。それ知ってる。前回の四国ツーリングで、四万十市中村の居酒屋で偶然食べたら、すごくおいしくて驚いたやつ。アオサの天ぷらの下には、じゃこ天があった。それも知ってる。前回の四国ツーリングで、宇和でたまたま通りがかったスーパーの駐車場の屋台で食べたらすごくおいしくて、そのあと、佐田岬に向かう途中とか、八幡浜で見つけるたびに食べたやつ。ホントはここではカツオのたたきだけ買って、あとは違うお店をいろいろ見ながら買うつもりだったけど、もうすっかり疲れてしまった。これでいいや。あとは…、ウツボのから揚げかな。
やいろ亭の注文を取る男の人は、忙しいんだから余計なことは一切しない、という姿勢を隠そうともせずに、忙しいことにうんざりした顔をしていた。かつおのたたき、アオサの天ぷら、じゃこ天、ウツボのから揚げを注文した。席の場所を聞かれたので、少し離れたところに座っている、と伝えると、男の人ははっきりとめんどくさそうな顔をして、じゃあ5分後に取りに来て、と言った。
席に戻った。疲れた。さっきの注文のやり取りで、HPは0になった。思っていたのと全然違う。今のところ、私の中に、井之頭の気配はない。有名な店の行列に並んで、名物料理と人気メニュー、しかも食べたことのあるものばかり、を頼んだだけだ。いったいどこで間違えたのか。椅子に座ってぐったりしていると、すぐに5分経った。
かつおのたたきは、うまかった。これだけで、行列に並んだ価値はあった。
ウツボのから揚げは、前に食べたのと同じで、普通にうまかった。
アオサの天ぷらは、前に食べたのと、全然違った。前に食べたのは、少ないころもで揚げた、サクッとした食感と、アオサの香りが香ばしい、素敵な食べ物だった。目の前にあるのは、たっぷりの衣でどっしりと揚がった天ぷらだった。量だけは多くて、小さめのアメリカンドッグみたいなのが3つもあった。食べてみると、ドロリとした食感で、アオサの香りはほとんどしなかった。
じゃこ天は、緑色だった。じゃこ天は、名前の通り、おじゃこを天ぷらというか、さつま揚げのようにしたもの、と聞いている。前に何回か食べたときも、全部、茶色だった。どこに緑色になる要素があるのか。不思議に思いながら食べた。小判型の、普通のさつま揚げだった。まずくはないけど、特別うまくもなかった。
前にアオサの天ぷらを食べた四万十市中村は、同じ高知県でも、ひろめ市場から100km以上離れている。じゃこ天は、愛媛県の名物で、高知県ですらない。疲れてたからなんも考えずに注文したけど、これ、ひろめ市場で食べる意味あるのか。
持て余したアオサの天ぷらを箸でつつきながらビールを飲んで、普通のさつま揚げを食べた。隣の席に、やせた体のおじいさんが一人でやってきて、座った。席が空いているか、とは聞かれなかった。おじいさんが来るまで、隣の席が空席になっているのに気が付かなかった。おじいさんが持ってきたお盆の上には、ビールと、カツオのたたきが3切れと、少ないころもでサクッと揚がったアオサの天ぷらが載っていた。私の知っているアオサの天ぷらも、あるところにはあるらしい。おじいさんにどこで買ってきたのか聞こうとして、皿の上のこれじゃない方のアオサの天ぷらと、それを持て余している満腹具合を思い出した。ウツボのから揚げの最後の一切れを口の中に放り込んで、ビールを飲んだ。反対の方に目を向けた。はす向かいのカウンターに、にぎやかなひろめ市場に似合わない、スーツ姿のおとなしそうな初老の男の人がいた。男の人の前には、クジラの刺身と、升酒が置いてあった。
ゴローさん、俺、全然上手にできないよ。さっきまで、井之頭五郎なんて架空の話でインチキだ、と思っていたけど、隣と、はす向かいに、実際にいたよ。隣のおじいさんは、にらみつけるような顔でフリースペースの方を見ながら食べてて全然楽しそうじゃないし、俺はクジラの刺身は好きじゃないけど、彼らはゴローだ。俺は違う。みんな、上手にやるよな。俺は、何がだめなんだ。
大ジョッキの底には、まだビールが残っていた。他に食べるものがないので、仕方なく、アオサの天ぷらをつまんだ。冷めたら、さっきよりも重くて脂っこかった。

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