自分が生まれた星のこと
一日、バイクで走り回って、最後にコンビニに寄った。今日の夕食と、明日の朝食と、晩酌のビールを2本買った。ビールを丁寧にクーラーバッグに詰めてから、バックパックの中に入れた。宿は、ここから1kmくらいだった。露天風呂のある宿だった。着いたら、まずは風呂で、そのあと、このビールを飲む。それは、今日という日を終えるための、絶対的なルールだった。
緩みそうになる気を引き締めて、バイクに乗った。エンジンをかけて、バイクを進めた。駐車場から出るために右ウインカーを出した。ウインカーは、点かなかった。試しに、左ウインカーを出した。こっちも、点かなかった。右と左とメータのところのインジケータのランプが同時に切れることはないので、壊れたのは、たぶん、ウインカーリレーだ。ウインカーリレーなんて、壊れたら、交換する以外にどうしようもない。通りすがりのバイク屋に、たまたまウインカーリレーの在庫がある、なんてこともないだろう。だいたい、ツーリングのルートは、街を避けるように慎重に組んでいるので、通りすがるバイク屋がない。ツーリングは、あと4日残っていた。4日間、ウインカーがつかないバイクに乗らないといけないことになった。
ウインカーが出ないと、周りに迷惑だし、自分も危ない。それに、ウインカーを出さずに右左折したら、交通違反だ。私が、自分が生まれた星のことを知っている。その星のもとに生まれた者は、こういうときに限って、お巡りさんに見つかることになっている。
周りにお巡りさんがいないことを確認して、ウインカーを出さずに、コンビニの駐車場を出て、右折した。今は、大丈夫だった。次は、大丈夫だろうか。とある星のもとに生まれた者は、ウインカーが壊れた後、交差点を曲がるたびに、お巡りさんの影におびえることになる。せっかくのツーリングに、常に不安の影がちらつくのは、残念だ。そんなことを考えながら、宿に向かって走っていたら、ずっと昔に見た、テレビドラマのワンシーンを思い出した。
「手で出せばいいじゃん。こーやって」
常盤貴子さんが、せんべいかなんかをかじりながら、ゆるい感じで言っていた。その手前では、スーツを着た深津絵里さんと、婦人警官役の篠原涼子さんがもめていた。確か、あのシーンでも、車のウインカーが切れていた。深津絵里さんがその車に乗ろうとすると、篠原涼子さんが交通違反だ、と責め立てるシーンだった。常盤貴子さんがゆるい感じで機転を利かせたおかげで、深津絵里さんが助かって、そのせいで、篠原涼子さんは悔しそうにしていた。深津絵里さんが、なぜ、そのウインカーの切れた車に乗らないといけなかったのか、その車に乗ってどこに行って何をするのか、篠原涼子さんはどうしてそんな意地悪をするのか、その辺のことは、何にも覚えてない。人の記憶は、つくづく不思議だ。でも、おかげで助かった。ウインカーがつかないなら、手で出せばいいのだ。こーやって。ねえ、常盤貴子さん。
こーやって手で出せばいい、というのはわかったけど、どーやって手で出せばいいのかはよくわからなかったので、宿に着いたら、すぐにスマホで調べた。手で出すウインカーは、簡単だった。出すのは、右手でも左手でも良い。合図する方の手と同じ方向に曲がる場合は、手をまっすぐ横に出す。合図する手と反対の方に曲がる場合は、手を横に出して、指先が上に向くように、肘を直角に曲げる。それだけ。バイクの場合、右手はアクセルなので離せないから、左手になる。だから、左折するときは、左手を、横にまっすぐに出す。右折するときは、控えめに挙手するときのように、肘を曲げて、手を上げる。ちなみに、手を斜め下に出すと、ブレーキの合図となる。ルールはわかった。簡単でよかった。少し思うところはあるけれど、まずは風呂に入ろう。交通ルールも大事だけれど、ツーリングを終えるための絶対的なルールも大事だ。
少しぬるめの露天風呂に浸かりながら、手で出すウインカーのことを考えた。ルールはわかったけれど、そのルールを見たときに、最初に思ったことは、これ、相手に伝わるの?ということだった。少なくとも、私は、知らなかった。教習所で習ったような気もするけれど、たぶん、実習はしなかったと思う。車に乗っていて、前のバイクが、急に挙手するように左手を上げたら、不思議に思うだろう。あの人、何したいんだろうって。明日からの私は、そんなあの人になるのか。この疑問は、このルールを見た人のほとんどが思うことのようで、インターネットの記事には、その疑問に関する答えも書いてあった。
「合図の意味は伝わらないかもしれませんが、合図を出したことでトラブルになることはありません。合図しないでトラブルになるくらいなら、伝わらなくても合図を出しましょう」
たしかに、合図を出したからと言って、わけのわからない合図をするな、と、トラブルになることはないだろう。合図を出さずに曲がって、周りの人に多少なりとも不快な印象をばらまくくらいなら、合図を出して、なんか変な人、と思われることで、不快な感じがいくらかでも和らげば、それはそれでいいことだ。それに、私のような星のもとに生まれた者にとっては、とりあえず、これでお巡りさんに見つかっても大丈夫、というのが何より大事だ。これで、ウインカーが壊れた件は終わり。あとは、この世の理に従って、風呂上がりのビールを飲むだけだ。
次の日、宿を出て、10分くらいは、道なりに走るだけだった。やがて、最初の交差点が現れた。左折だ。だから、左手は、まっすぐ横。対向車は、いなかった。バックミラーを見た。後続車も、いなかった。誰も見ていないけれど、真面目に、左手を横に伸ばした。交差点が近づいてきて、アクセルを閉じた。エンジンブレーキがかかって、体がふらついた。交差点で曲がる前に、左手をハンドルに戻した。思ったよりも、難しかった。めんどくさい、とは思わなかった。うまくできないのが、悔しかった。
どうせなら、華麗で、エレガントに決めてみたい。え、なに?あの人今なにしたの?すごいカッコよかったけど、と、周りから羨ましがられるくらいに。バイク乗りは、手でウインカーを出す方がかっこいい、というムーブメントを起こすくらいに。
その後、4日間、精進を重ねたが、手で出すウインカーは、なかなか上達しなかった。結局、自分の中で、納得いく所作を決められず模索したまま、ツーリングを終えることになった。周りからどう見られていたかはわからないけれど、トラブルなく帰宅できたので、効果はあったのかもしれない。そして、何より、ツーリング中、交差点でお巡りさんに出会うことは、一回もなかった。お巡りさんにあわなかったのなら、手でウインカーを出さなくてもよかったのではないか、というのは、間違っている。私のような星のもとに生まれた者は、いつおまわりさんに出会ってもいいように、手でウインカーを出し続けている限り、お巡りさんにあうことはないのだ。
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