おじいさんのガソリンスタンド
トリップメーターが250kmを過ぎた後で、最初に見つけたガソリンスタンドに入った。海沿いの、ポンプが一つだけのガソリンスタンドだった。バイクのエンジンを止めて、目を上げると、どう見ても漁師にしか見えないおじいさんが、奥の薄暗い事務所から、船に忘れ物を取りに行くような感じで歩いてきた。
「レギュラー満タン。カード使えますか」
聞かれる前に、自分から伝えた。
「カードは使えるけど、時間がかかるからやりたくない」
「じゃあ現金で」
ガソリンタンクの蓋を開けた。おじいさんは、ノズルをタンクに入れて、タンクの底にガチャンとぶつけると、レバーを全開にした。ガソリンの小さな飛沫が、タンクに飛び散った。おじいさんは、勢いよくガソリンが噴き出すノズルを手にしたまま、畑の草むしりの途中であぜ道の向こうを見るように、左の方に目を向けた。おじいさんの視線の先には、10mほど向こうからゆっくりと歩いてくる男の人の姿があった。男の人も、おじいさんの方を見ていた。おじいさんは、ああ、と、小さな声を出した。おじいさんの手には、抜いた雑草ではなくて、勢いよくガソリンが噴き出すノズルがあった。私は、おじいさんが、手元のノズルのことを忘れて男の人の方に歩いていくんじゃないか、と心配になった。男の人がガソリンスタンドに着いたときに、ノズルがガチャンと音を立てた。ガソリンが止まった。おじいさんは、男の人から視線を戻して、ノズルの方を見た。それから、また、男の人に視線を戻して、何の用か聞いた。ノズルのレバーは握ったままだった。
男の人との会話が終わった後で、おじいさんは、ポンプに表示されている料金を見ながら、ガソリンを継ぎ足した。小刻みに動く数字が、1501、で止まった。
「1500円」
と、おじいさんが言った。私は、1500円をおじいさんに渡した。カードは時間がかかるから嫌だ、というおじいさんだから、1円くらいどっちでもいい、ということなんだろう、と勝手に解釈した。お金を受け取ったおじいさんは、
「1円あるか」
と聞いた。どっちでもいいわけではなかったらしい。ポンプの数字とレジのお金の金額が合わないと、もっと面倒なことになるのかもしれない。財布の中には、あいにく1円玉がなかった。10円を取り出して、おじいさんに渡した。
おじいさんは、近所のよろず屋に電池を買いに行くみたいな足取りで、奥の薄暗い事務所に向かって歩いた。事務所の中に入って少ししたら、今朝撮れすぎた魚をおすそ分けするようにこちらに歩いてきた。おじいさんは、おつりの9円を黙って渡してくれた。レシートはなかった。ポンプの数字とレジのお金の金額があわないと、面倒なことになるわけでもないみたいだった。これなら、お釣りはいらない、と言えばよかった、と思いながら、お釣りの9円を財布の中に入れて、トリップメーターの数字を0に戻した。
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