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理想の暮らし

毎日毎日仕事して、くだらないことでストレス溜めて、やっと家に帰ったと思ったら、夕食食べて、少しテレビ見たら、もう寝る時間、という繰り返しから脱出して、こうやって、豊かな自然の中をツーリングしていると、こういうところで暮らせたら、と思うことが、よくある。
脱サラして、客が3組くらい泊まれるペンションをやって、野菜は家庭菜園で育てて、天気のいい日は魚を釣って、卵は鶏に産んでもらって、ささやかに、のどかに、そんな日々を暮らせたら。
そんなふうに暮らしているように見えるペンションは、何回も、見かけたことがあった。そこで暮らす人たちは、そんな想像を実行した人たちなのだろう。
 
霧多布岬のペンションの玄関に入ると、60歳前後のご主人が迎えに来てくれた。ご主人は、私を見ると、真っ先に、濡れたレインウェアを受け取って、手早く片づけた。バイクの客の扱いも、慣れているみたいだった。ブーツを脱いで、中に入った。ご主人が、設備の説明をしてくれた。
共同の冷蔵庫はここです。レンジは冷蔵庫の上にあります。トイレは使うときに電気をつけてください。シャワーはありますが、お風呂はありません。温泉に入りたいときは近くの日帰り温泉まで送迎します。こっちは共有のリビングです。奥の戸棚の食器は使ってもいいです。お湯はここにあります。置いてあるコーヒーとかはサービスです。部屋はここで、カギはこれ。あとは、わからないことがあったら聞いてください。温泉は行きますか?
そういうことを、一度に言われた。温泉に行きたい、と言ったら、何分後か聞かれた。じゃあ、30分後で。
これが割引のチケット。100円引きになります。じゃあ、30分後にリビングで。
そういうと、ご主人は、すたすたと、どこかに行ってしまった。
30分後に、リビングに行った。私の姿を見たご主人が、玄関に向かって歩き出した。軽自動車に乗って、ペンションの駐車場を出たときに、鹿、とご主人が言った。駐車場の入口の脇に、鹿が5頭ほど立っていた。あまりに近くにいたので、驚いた。いつもいるんですか、と聞いたら、鹿はどこにでもいるからねえ、という返事だった。
「近くにいても、大丈夫なんですか」
「あー、うちは、庭の花を食べられるくらいだけど、近所の人は、家庭菜園を荒らされるって怒ってるね。役所に害獣駆除を頼むんだけど、霧多布は禁猟区だから、銃が使えなくて。罠を仕掛けているみたいだけど、全然ダメみたい」
害獣駆除。
「そういえば、鹿は、夜になると、道路にも出てくるから。昔、うちに予約入れてたお客さんが、夜、運転してたら、飛び出してきた鹿にぶつかって、車が壊れたから来れない、って連絡があったよ。ヘッドライトが割れて、フロント周りがボコボコになったって。あの人、レンタカーの保険どんなのに入っていたか知らないけど、修理代けっこうかかったと思うよ。残りの旅行も全部キャンセルだし、だいぶ損しただろうね」
車ボコボコ。旅行キャンセル。
野生動物の話になったので、カムイワッカで熊が出て大騒ぎになった話をした。そりゃゆっくり観光できなくて残念だったね、という返事だった。今のところ、事故の話は聞いたことがないけど、最初の犠牲者にならないとも限らないからね、という言葉が、後に続いた。
日帰り温泉の施設に着いた。一時間後に建物の前に車を止めるので出てきてください、と、言い残して、ご主人は帰っていった。
 
霧多布岬まで、車で5分。毎日、鹿が庭に遊びに来るようなところで、小さなペンションを営んで、観光客を迎えては、送り出す。毎日、どこにでもいる鹿を見て喜ぶ観光客の相手をして、自分は、それが当たり前の、豊かな自然あふれるこの場所で、のんびりとした日々を過ごして、過ごして、…。ご主人は、ここに暮らして、どれくらいなんだろう。昔は、サラリーマンをやっていたんだろうか。
ご主人も、年に一回くらいは、どこかに旅行に行ったらどうだろうか、と思った。でも、それだと、サラリーマンをやっていて、年に一回ツーリングをしながら、こんなところで暮らせたら、と、しばしば想像しているオジサンと、何も変わらないことに、気が付いた。

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