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イタリア:夏のドロミーティ山脈2(2022年)
今年もカナゼイにも一度滞在したのだが、初めて行ったのはこのモエーナという町。この辺りはファッサ渓谷(Val di Fassa)という地域になり、モエーナが人口約2500人で一番大きい町である。
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第一次世界大戦の歴史博物館
ドロミーティ山脈は第一世界大戦中に戦争の舞台となった場所でもあり、あちこちにその歴史の面影が残されている。
イタリア戦線:第一次世界大戦中の1915年から1918年にかけて、イタリア北部においてオーストリア=ハンガリー帝国軍とイタリア王国軍がそれぞれの同盟国と共におこなった一連の戦闘のことである。
昨年ポルドイ峠でも行ったが、モエーナにも歴史博物館があり、『1914-1918: "La Gran Vera" (第一次世界大戦:ガリツィアとドロミーティ)』(ホームページにリンク、残念ながらイタリア語のみ)というタイトルの展示があった。
写真を撮るのを忘れてしまったのだが、モエーナの駐車場横にある唯一の近代的な建物である。
ここでの見どころは「1914年のロシアによる東ガリツィア占領」に焦点を当てた部分。モエーナはもちろんドロミーティの大部分は当時オーストリア=ハンガリー帝国の領土であり、ここの若者たちは帝国対ロシアの戦争に駆り出されたのであった。
その時にドロミーティ出身の多くの若者は、現在ではウクライナとなっているガリツィアで、塹壕造りをやらされた。
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当時の兵士たちが置かれていた過酷な状況が写真や絵画、展示品などでわかるようになっている。
また他の階には実際に戦場となったドロミーティ山脈の当時の様子や、写真などが展示されている。
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モエーナのトルコ?
ちょうどホテルの裏に「トルコ通り Strada de Turchia」というのがあった。行ってみると。。。
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なんかそれらしき噴水(おそらく昔は牛や馬などの水飲み場)があったが、なぜトルコかというのも諸説があり、どうも17世紀にウィーンに戦争に来たオスマントルコの軍隊が、大敗して皆が散り散りに逃げ、その一人がこのモエーナにたどり着いて村民に助けてもらったという。
しかしこの通りでいくつかある見どころは「Tabià」と呼ばれる干草置き場である。
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ドロミーティ山脈にはよくみられる建物のようで、中には全て木造で朽ち果てているのもあったが、いくつかは文化財として保存されているようだった。
夜には広場で何かのイベントが行われていて、この地方の伝統的なダンスが行われていた。
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(つづく)
1の「サン・ペッレグリーノ峠」
3の「山登り」
記事に入れていない、みんフォト提供用の写真