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なぜ人は正しくない事をしない方が良いのか 【反省文】

~はじめに~

この文章では「正しさとは何か?」という哲学的な問いに答えを出そうと努力する事はしない。
「盗みはよくない。」、「いじめはよくない。」などという多数が抱く常識的な感覚に基づいて考えていきたいと思う。



~「しない方がいい」と「してはいけない」~

この2つの命令文には大きな意味の差異がある。
前者は助言であり、相対主義的な現実思考型で、
後者は禁止であり、絶対主義的な理想思考型だ。

私は幼少期から専ら後者に対してメタフィジカルな観点から立ち向かい過ぎて来た。
その所以は恐らく私の理想主義的な思考傾向だろう。

「神様が見ているから。」という超自然主義的なある種の強迫観念から始まり、「正しさとは何か?」、「そもそも存在するのだろうか?」という途方もない押し問答を延々と自分の中で繰り広げてきたのだ。

結論は当然ながら出ない。

私は正しくない事をしている人々が称賛されていたり、のうのうと生を貪る現実を目にする度に心底嫌悪感や憂いに苛まれていた。
この怒りや、ままならなさが理想主義的な思考に拍車をかけていたんだと思う。

本当は自分もしたいから?
世界はもっと綺麗なはずなのにという期待から?
虐げられる弱者に自分の経験を投影してしまうから?
正しく生きている人が馬鹿みたいじゃんという怒りから?

理由を列挙していくとキリがないが、
取りまとめると防衛機制からの知性化の働きによって、
私は後者の命題を証明しようと躍起になっていたのかもしれない。

「正しさとは何か?」というアポリアに、「まぁこれでいっか。」と諦めて無理やりに相対的真理を打ち立て、結論付けてしまうのは簡単だ。
しかし、「これは美しい。」という文章が命題にはなり得ないのと同様に、個人的な感想の域を出ることはない。
何よりも、固定化された思考態度は真理探究への裏切り行為である。
真理探究という行為は、標榜することなく常に水のように流動的で白黒をつけない姿勢が重要である。

理想ばかりを追求し続けて、リアリスティックな思考形態に不慣れな私は「なぜ"正しくないとされるもの"をしてはいけないのか?」について「法律が禁じているから。」で片付けていた。

法律を犯せば当然罰を受ける。
しかし裏を返せば罰と行為を天秤にかけ、「行為のほうが価値があり、その為なら罰も甘んじて受け入れられる。」という価値判断を下せればその行為を選ぶことも出来てしまう。
法律はその行為自体の絶対的な不正を証明する事はしていないのだ。

よって自然と私はそれに付随して、
自分が幸せに思うなら良いという個人主義思想も成りえてしまうし、
多数が認めるなら戦争や殺人も正義になりうるし、
見つからなければ罰は受けないし、
あとは罪悪感と戦う個人的なメンタル面を強く持っている者が得をするだけという絶望思考に陥っていた。

しかし、そんな私に「なぜ正しくない事をしない方が良いのか。」の答えに気が付けたような出来事があった。
それは「人は」という主語ではなく「私は」という主語が適切かもしれない。
観念的なもの、もといイデアを排した常識的な現実感覚に基づいて記述する。



~なぜ正しくない事をしない方が良いのか~

結論から言うと正しくない事が気付かぬうちに自分の中で正しい事へと変わってしまうからである。
しかし結論よりもそこに至るまでのプロセスが興味深い。

ある日、私はなんと公衆トイレの個室でiQOSを使用するという凄まじい悪行を犯してしまった事がある。

正しくないことをしているという後ろめたさを抱えながらも2回ほど紫煙を吐き出したその時である。
乾いたノックの音が2回ほど個室内に響き、私は急いで電源をoffにしてトイレから飛び出した。

完全に私が悪いのにも関わらず、ノックしてきた男性に不快感を抱いてしまった。
これは完全なる理不尽な感情である。

合理的に考えると悪いのは自分なのだから罪悪感こそ抱けど、不快感などという感情は抱かないはずである。
ではなぜ抱いてしまったのか?
哲学を繰り広げていたときに抱いていた現実に対する憂いからなのか?

なんと違ったのである。
それは、怒られて恥ずかしい、自分の快楽を邪魔されたくないという極めて自分本位な感情であった。
畢竟するに、悍ましくも「自分は正しい事をしている。」という狂気に満ちた感情だ。

人は本当に正しいことをしていれば例え悪い奴に虐げられても自分の中に正当性を保つことが出来る。
それによって自己防衛ができる。
「まぁ、俺は間違った事はしてないし、あいつが間違ってるから。」
そして正しさについて同じ価値観を所有しているマジョリティが
「それは酷かったね。」、「運が悪かっただけだよ。」、「そんなやつは碌な人生を歩まないよ!」など、慰めてくれたり一緒に怒ってくれたりしてくれる。

だが意外にも悪いことをしてる時ですらも「自分は正しい。」という思考は無意識にべったりと張り付いているのだ。
案外「自分は正しくない事をしてるし断罪されても甘んじて受け入れるべきだ。」という罪悪感に満ちた思考にはならない。

「自分の行為は正しいはずだ。」、「無価値ではない。」
実は人は自己に内在する価値規範に沿って行動しているのではなく、自分の行為それ自体に後から正当性を論理付けたり、価値を持たせるといった逆パターンになることが多い。
正しさが先にあるのではなく、行動が先に来るという考え方である。
「正しさ」は反省や言い訳などという形を取り、自分の中の価値観と照らし合わせ、後付けで合理化するのだ。

泥棒が見つかったら開き直るのはその為である。
冷静に考えると命を落とす危険な戦場で兵士が戦えるのもその為である。
ある種の自己洗脳を行っている。

実際にあの時の私も、
「人が入っていると分かっているのにノックする人はヤバイ奴だ。」と、危害を加えた相手をジャンル分けして偏見にまみれさせたり、
「なぜ他の空いているトイレを使わないのか。」
「私は排泄もしていたのに。」など
私が正しくないことをしている理由とは何も関係のない別の理由を盾に、いくらでも自己洗脳できてしまっていた。

怒られて恥ずかしい等のなんらかのネガティブな感情に端を発して自分の行動を正当化し、それに固執してしまいがちだ。
「あの時の俺はやっぱり正しかったはずだ。」「俺を怒るあいつが許せない。」「俺のやり方を邪魔するな。」「俺のやってきたことは無駄じゃないはずだ。」
人は年を取るほどに一度してしまった行動を後から変えたり、間違っていたと解釈するのは癪に触るのだ。
一貫性を保とうとして意固地になってしまう。
見事な老害の完成だ。

そうして何回も正しくない事をやっているうちに慣れてしまい、ついには自分の常識や価値観としての堅固な牙城が完成してしまうのだ。
これが間違ったことを人に咎められたりした時に出る理不尽な怒りの正体である。

よって正しい行動規範の価値基準が無意識に少しずつ、最終的には大幅にずれて、
「なぜか間違ったことをしてないのに責められる。」、「後から反省してメンタルが崩壊する。」、「なぜかいつも他人からのけものにされる。」という"被害者意識"になり、間違った正しさを抱えたまま、どんどん卑屈になっていくのだ。
これが私の中で一番腑に落ちた、現実的な思考に基づく「正しくない事をしない方が良い」暫定的な理由である。



~さいごに~

「してはいけない」ではなく「しないほうがいい」と表現したのは、生き方は自由だからだ。
殺人を行った者の罰については記載されているが、他人に優しくした者への報酬は記載されていない。
「不正をするべきではない。」という思考は真理よりも、個の延命や防衛という側面が強い。
私はなるべく温かい人たちと優しい世界で生きたいから、人に優しくある生き方を選びたい。

それでもやはり私はこれからも現実的思考に飽き足らず、「正しさとは何か?」について考え続けていくのだろう。
難儀だ。

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