“分人主義"と"愛"について

『マチネの終わりに』からまだ考えている。
割り切れない思いを抱えつつ探したら、今の自分に割としっくり来るようなBlogを見つけた。

「結婚した相手は、人生最愛の人ですか?」

ここ数年、平野啓一郎が波及させて来た「分人」という概念。「人間には、いくつもの顔がある。相手次第で、自然とさまざまな自分になる。」人間とは、「個人=individual=分けられぬもの」ではなく、「人間=dividual=分けられるもの」ではないのか。自分を全人格としてindividualな「本当の自分』と認識するのではなく、Aさんと一緒にいる自分、Bさんと一緒の自分、どっちも本当と受容する。人間を「分人」と捉える方が、本来的ではなかろうか?

愛とは、究極のところ、癒し、癒され、慈しみあう行為なのだ。音楽が根底に流れるこの本に似合う言葉のイメージでは、誰かと深いところで「共振、共鳴」できた時、お互いが癒される。

「共振、共鳴」は、芸術によっても、言葉によっても、体の交わりによっても生まれる。この小説では、「淫らである」ことすらも、共振共鳴の手段として、あるいは状態として肯定されているかのようだ。

蒔野と洋子にとって、きっかけは、祖母が亡くなった思い出の「石」についての会話。過去をめぐる概念で蒔野と洋子は深く共振する。わかる、理解してもらえる喜び。癒し。

音楽や詩、言葉を介して、やってくる共振共鳴の波。極め付けは、「マチネの終わりに」二人が再会する場面。このクライマックスを、あなたは「不倫」と呼んで葬り去る事ができるだろうか?

配偶者以外の人に心が揺れ動き、相手と共振、共鳴してしまう「分人」は、現代では、人の道から外れた、間違った分人なのか?

蒔野、洋子の間で揺れ動く波は、時に大きく、時に穏やかになりながらも、途切れることなく、揺れ動き、響き合ってきた。その波が、マチネの後でも、未来に渡って動き続けて欲しい、そう願う気持ちは間違いなのだろうか?

このところ、自分の中で飼い慣らそうとしていた感情が、急に輪郭を持って浮かび上がってきた感じだった。
先日少し書いたPlatonicの概念に対する疑問にも通じる、この割り切れない感覚。

「分人」という概念について恥ずかしながら知らなかったので調べてみたら、下記の記事に辿り着いた。

人によって態度を変えていいのはなぜ?「分人主義」のススメ https://telling.asahi.com/article/12241682

積読本が沢山あるというのに、直ぐに読みたくてOffice近くの書店へ買いに走った。
確かにこの「分人主義」という考え方には共感する部分はあるのだけれど、現代社会のルールと真っ向から対峙するこの考え方を、自分の周囲と共有する事は、現時点の社会通念的にとても難しい。
でも、平野啓一郎という人の物の考え方には興味が湧いた。

何だか『マチネの終わりに』は、今の私の為に必要なものとして、“読まされた“のではないかと思えて来た。
恋愛映画も観ない、恋愛小説も殆ど読まない私がこのタイミングで触れたということは、きっと何か必然的なものであったのではないかと。
或いは、“呼ばれた“とでも言うべきだろうか。


「分人主義」が例えば結婚相手と共通概念として感覚を共有でき、お互いに納得出来たとして、果たして『私、今日はあの人と一緒にいたいから』と何の後ろめたさも持たずに宣言して、その人に逢いにゆけるだろうか?
反対に、『俺、あのひとと一緒にいる時間を増やしたいんだよね』とか言われて心から『ああそう。いってらっしゃい』と言えるのだろうか?

道はひとつではなくて、分人ごとの道をシフトしながら進む、というのは分からなくも無いのだけれど、主軸であった道をシフトしたい時は、どうしたら良いのだろう?
そもそも、現在の婚姻制度や社会通念は通用しないこの考えを、『道は1本しかないよ』と散々擦り込まれてきた私達が違和感もなく受け入れられる日は来るのだろうか?

心は案外と揺れ動きやすい。
それを分かっているからこそ、私たちは制度やルールで繋ぎ留め、安心感を得ているのかもしれない。
“形“に当て嵌めて、お互いに愛されている、と信じたいのかもしれない。

結婚した時点ではその人は『最愛のひと』であり、その先も道は続いてゆくと信じている。
けれどもその後に予期せず『共振・共鳴するひと』に出逢ってしまったら?
その人と相対する自分と、今までの自分との間で葛藤が起きたとき、「分人主義」を掲げれば確かに楽にはなるのだけれど、実際問題としてパラレルに広がる道を自由に行き来して心のバランスを保てるほど、みんながみんな器用ではないのではないか?

分人主義者と個人主義者が混在したとき、『Platonicなんだから良いでしょ!』と開き直るエセ分人主義者、増えそうな気もする。
そもそも洋子と蒔野は望んでPlatonicを選択した訳ではなく、Platonicになったのは結果論なのだ(たまたま物理的に状況が許さなかっただけで、洋子は婚約破棄していたし、何かの障壁で一線を越えられなかったわけではない)。

では、『共振・共鳴できるひと』とお互いの想いが一緒だと確認した時、その先も理性的に振る舞えるものだろうか?
そこで理性的に振る舞えるのが“大人“なのだろうか?
既に心は他の人にあっても、Platonicの領域を超えていなければ『不貞』や『不倫』ではないと言い切れるのだろうか?

まだ割り切れない感覚は拭えない。
固定観念に捉われ過ぎなのかもしれないけれど、何が正しくて、何が正しくないのか、自分自身の答えが出るまで暫く心の片隅から離れない問いとして置いておくしかないのかなぁ、と思っている。

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