日本語的『I love you』

先日、あまりに月が綺麗だったので、暫くベランダに出て眺めていた。
そのうち雲に隠れてしまい、ふと『雲隠れにし 夜半の月かな』と思い出して、誰の歌だったかしら?と調べ直す。

ああ、そうだった、紫式部。

『めぐり逢ひて 見しやそれとも分かぬ間に
雲隠れにし 夜半の月かな』

解釈は色々あって、久し振りに会った旧友と一瞬しか会えなかった歌だと言われてもいるようだけれど、和歌で"月"が出て来るとほぼ恋愛の歌だし、夜半に尋ねてきて慌しく帰ってしまった"君"の様子を嘆いた歌なのではないかしら、と私は解釈している。

和歌はコピーとしてとても優れている、と個人的に思う。
57577の31文字の中に、必要でない言葉がひとつもない。
それでいて、個人のイマジネーションで多様に解釈できる奥行きがある。


もし私が平安時代に生きていて、ちょっと良家の子女だったら、きっと届く文や歌を読んでは、
「この御文(おふみ)雅じゃないわ」とか、
「この歌、素敵!このお方、一度御簾越しにお話してみたいわ」とか言っていそう…。
代筆も横行していたようだし(良家の子弟とはいえ、やはり得意不得意はあったらしい)、その場で歌詠みとか返歌とかさせて、「この方、絶対ご自分で御文書いてないわ」などとテストしていたに違いない…。
そして気の利いたウィットに富んだ切り返しをしてきた方に、興味を持っていたのだろうな。

若しくは、宮中に出仕していたり。
そちらの方が合ってるかも…小説書けないけれどエッセイなら書けそうなので、紫式部でなく清少納言タイプ。
いずれにしても、言葉に拘る性質だったのではないかしら…と想像してみる。


日本語の響きが好きだ。
いつからか分からないけれど、少なくとも小学校中学年頃から、言葉には拘りがあった。
いつでも自分の思いを的確に表現したいと思うから、沢山の語彙の中からきちんと選択したいと思う。

前職でMarcomを担当していた時、HQ(本社)から上がって来た英語のキャッチコピーを翻訳するのにとても苦心した。
直訳では全く伝わらないし、ニュアンスを残しながら刺さる言葉を使わなければならない。
ゼロから物を生み出せるタイプでは無いから(だから小説は書けない)、まっさらなカンバスに描き始めるよりはヒントが多いけれど、それでも言葉を探して何日も考える事も多かった。

ホワイトペーパーも随分書き直した。
「てにをは」の些細な違いにも、主語と述語が噛み合わない事にも直ぐ気付くほうなので、一文丸ごと書き直しなんてザラだった。
いまだに電車内の広告でおかしなものを見ると、直したくて堪らなくなる。
朝から疲れてしまうので、最近の通勤時は極力広告を見ず、音楽にばかり集中している。

SMSツールが実は少し苦手だ。
メッセージのやり取りに即時的なものを求められるから、思い浮かんだ言葉で返信する。
と、送ってから「あー、言い回し。いまの誤解されないかな。」とか「説明が足りないかな」と思う事もしばしばある。
私の足りない言葉でも、行間を拾ってくれたりするとホッとする。
とてもセンスの良いレスが返って来ると、もっと話していたくなる。

先月、とある広告をみながら"恋"と"愛"の違いについて考えていた。
"恋"はLight
"愛"はHeavy
"愛は『I love you』をうまく翻訳するために生まれた言葉だから、きっとまだ遺伝子レベルで浸透していないのだ、etc…とめどなく、言葉について考え始めると夜はあっという間に更けてゆく。

かの夏目漱石が、『I love you』をそのまま『愛しています』と訳そうとした学生に、「それは日本語的に情緒がない。『月が綺麗ですね』と言うのだよ」と言ったとか言わないとか。

言葉は慎み深く使わなければ、と思う今日この頃。
その場でつと出てきた言葉が、意外と本心を映し出す鏡だったりもするけれど。

『葉隠れに 散りとどまれる 花のみぞ
      忍びし人に 逢ふ心地する』-西行-


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